思想に、政治に、宗教の話


 以前は、ビジネスに、政治と宗教と野球の話は、禁句だと言われた。これらは、取引に差し障るからだ。この発想の根っ子は、教育にあるように思える。今の教育では、思想や政治、宗教は、タブーである。この三つは、何ものかに対して差し障りがある。その差し障りのある者達とは、誰か。それは、この国を戦後、支配してきた者達、支配しようとする者達である。だから、思想や政治、宗教が、教育上タブーである事が、この国の病根の一つなのである。

僕なんかも、一時期、そうでしたが、思想や政治、宗教というものを何となく遠ざけるそう言う気持ちがありました。その気持ちがどこから来たのか、どうして生まれたのか、よく解りませんでした。でも、後でよくよく考えてみると、それって何となく、誰かに、仕組まれている様に思えてきた。
 誰が、それを仕組んだのか。それは、社会と学校と親達。そして、その背後に潜む黒い陰。社会や学校、親は、それぞれの思惑とは別に、どうも、とにかくそう言う危険物には、なるべく触れさせないという共通の想いがあったみたいだ。ハッキリとは彼等は言わないし。ひょっとしたら、彼等自身も気がついていないかも知れない。だから、余計に、始末が悪い。そして、それを危険だと思わせてきた存在が、その背後にいるようにも思える。
 社会や学校、親達は、当たり障りのないことしか教えてくれない。でも、実は、それらが一番、悪い事なんだ。ただ、背後に潜むものにとって、それは、もっとも都合がいい。
 恋愛観とか、仕事観といった身近な事でも、自分なりの意見を持って物事を話す事って充分に思想的だ。それって、悪い事。不味い事。友達や親に思想や政治、宗教の類の話をしてはいけないんではないかという雰囲気あるが。だから、一人前になれない。
 思想的って、いいことでしょ。自分の思想が持てないままに、社会に出たり、オウムみたいな連中に出逢ったら。免疫がないいまま、ばい菌の固まりみたいなの遭遇すること。自分なんって、すっとんでしまう。支配しようとする者にとって、いくらでも思い通りにできる。

 学校には、思想的な事、政治的な事、宗教的な事を話してはいけないことになっているらしい。教育の中立と言う事で。教育と言う事は、何も教えないということとは違う。
 そして、教育の中立は、思想・信条の自由を根拠としている。思想・信条の自由を声高に叫ぶ人間ほど、むしろ、強烈な思想を持っている者が多い。そして、ある種の思想を持っている人間は、他の者の手足を縛っておいて、自分達の思想を一方的に吹き込もうとする。

 教えてはならないと言う事は、教わる側の人間からしてみると、何か、怪しい、触れてはならないものという暗黙の認識を植え付けてしまう。思想や、政治や、宗教の話は、してはならないのではないのかという想いである。そして、それを大人は、大人達の話と言って裏付けてしまう。しかし、大人と子供の境界線は曖昧だ。だから、思想や政治や宗教に対する意識が低いまま成人してしまう。それで、問題意識が低いというのは、お門違い。そう言う風に、子供達を育ててしまっただけだ。

 教える側にとっても、自分の思想や信条や宗教を明らかにしないまま、というより、かくして子供達に間接的に教える事になる。なぜなら、思想や信条は、物事を教えるのに避けて通れないからである。それは、教育者が生徒を最初から騙していることを意味する。

 この事実は、教わる側の思想と教える側の思想、そのいずれをも否定している。思想や政治、宗教というのは、教育の核である。その核を取り去ったところに教育は成り立たない。その核にあたる部分に触れてはならないと言う。教えてはならないと言う。これは、教育ではない。
 思想や政治、宗教を神聖視して触れてはならないと言うのと、危険視して、触れてはならないと言うのは、動機は、正反対だが、やっている事は同じである。一種の禁忌である。
 思想や政治、宗教は、オープンに議論されるべきものである。議論に耐えられないような、思想や政治、宗教こそ偽物なのである。

 教育は、思想である。




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