教育の理想を求めて

一度聞いたくらいでは分からない。


一度聞いたくらいでは分からない。
それをすぐに分かったという。わかったという傍から、何をやったらいいかわからなくなって何も決められなくなる。

一度聞いたってわからない。しかし、わかりませんともいえないし、わかりましたともいえない。でも相手の事を理解しなければ仕事にならない。いかに相手の考えをうまく聞き出し自分とするかが鍵なのである。
その為には、人を変えたり、場所を変えたり、話を聞く回数をいかに増やすかが勘所なのである。
そこで形を考える。

形と言うのは、一言では表せない何らかの構造を有している事である。
典型的なのは、五W一Hである。なぜ、何を、誰が、いつ、いくらで、どの様にするのか。
目的、手段、時間、場所、人、予算と行った複数の要素からなっている事柄である。
だから一言で言い表せないし、全体が完備しているとも限らない。
そこで形で表す。

例えば、何らかの指示をされた時、解りませんと頭から言えば角が立つ。
だから、形が必要となる。
何かを片付けなければならないとか、方針が決まったり、それからやらなければならない事がわかったのに、何から始めたらいいかわからない。
だから、形を作るし、形を覚える。
例えば相手を怒らしてしまった時、どうやって謝罪するかと言えば、謝罪のための形、つまりは、礼節が慣習的にある場合が多い。それがわからないとなかなか糸口がつかめない。

形で物を考える。その形を経験的に社会では身につけさせられる。
形は、地域差があるし、経験的に引き継がれる事だからである。
なかなか、言葉では説明しきれない。それを一度聞いただけでわかりましたといったにお終いである。だから、どういう形にするかを考える。
形には、組織や段取りが象徴的な組み込まれている。要は形式である。
ところがこの形そのものを団塊の世代と段階に続く世代が徹底的に潰してしまった。
団塊の世代は、形式は無意味だからと軽んじる。
形式そのものは無意味である。形式は、無意味だから機能するのである。なぜなら形が形として働きを示しているからである。
方程式その物に意味はない。方程式は形式だからである。方程式は、使われた時に意味を持つ。方程式は、使う目的によって意味を持つからである。
形式の真の意味も働きもわからない者は、形式を軽んじる。
だから何も始まらない。何も始められない。
はじめても止め型がわからないから止められない。だからいつまでたってもダラダラと仕事が終わらない。
どうしていいかわからない。

形は、形でしか解消できないものです。
修正や訂正、解消する為の形はいくらでも用意してあるものです。
でも、それが相互に理解されていないと形の働きが発揮しない。
以前は大概の人間が承知していた。

家族でも揉め事があったら何とか形を整えたものです。
しかし、形と言うのは、動物的本能、美意識が働きますね。
教えなくともなんとなくわかる。

ところが形式や礼節を重んじる角界ですら形を作れなくなってしまっている。

恩ある人とらせてはならない形をとると解消する事が難しくなる。
親に頭を下げさせた子は、自分からなかなか解消するのが難しいものです。

ですから、とりあえず、誰もできなければ筋が違っても形をこちらで作って解消せざるを得ない。
形が出来たら、言葉は不要です。言葉は、かえって障害になる。
何も言うなと形で収める。
映画や小説には、形の作り方がふんだんに書かれています。
現実の政治の世界も経済の世界も形で動いているのです。
形は、地域や組織、社会によっ違いがある。郷に入れば郷に従えだけど形のわかるものがいなくなってしまったから、納めようがなくなっている。

聞いただけでは分からない。だからと言って聞き返す事もできない。
聞き方や確認の仕方がわからないからである。それは、聞く形や確認の形がわからないからである。
しかし、聞く形や確認の形は、形式だと言って頭から否定され、否定している。
だからいつまでたっても聞き返す事も確認する事もできない。
だから仕事に着手する事が出来ない。

一度、聞いただけでは分からないからとりあえず反対意見を述べる。それも形、でも反対している理由がわからないから一度反対したら止まらない、いつまでたっても反対し続ける。
礼節と言う形がわからないのである。
形がわからなければ仕様がない。
反対のための反対になってしまう。
納め処、納める為の形がなくなるのである。

そこでいつも落とし処を考えてこいと注意された。それも形。

私は、わかったとは言わない。わからないとも言わない。実際、わかったという訳でもないし、全然わからないと言ったら角が立つ。
だからとにかく、全力でお前の言いたいことを理解する為に付き合ってやる。お前だって自分が何がいい他のかわかってないだろう。まず、自分を知れ。その為の鏡に俺はなってやると言ってトコトン話を聞いたものです。
それが私のやり方、私の形。
本当に人間なんて無力ですよ。

難しい時代になった。形のわかるものがいなくなった。形の意味が分かるものもいなくなった。だから形が作れない。

我々は、一度聞いたくらいではわからない。だから、どうやって聞き返すか、確認するかそれが問題だった。それでどうやってどんな形にするかを話し合ったけど…。
今は、わかりましたで片付けられてしまう。そして、いつまでたっても何も始まらない。
そして、言い訳ばかり聞かされる羽目になる。

我々は、学生時代三日三晩話さないと本音は聞けないと言われてきた。だからとことん議論を尽くした。でも、自分から下の後輩は、三分ももたない。それでわかりましたと逃げようとする。
だからいつまでたっても本音が聞けない。何もわからないままにダラダラと仕事が始まり、なんとなく話が消えていく。確認の採りようもない。
惰性で仕事が回っているうちはいいが、仕事を組み替えたり、新しい事を始めようとすると全てが頓挫する。何が悪かったかもわからないから改めようもない。

一度聞いたくらいでは何もわからないのだよ。だから、本当に相手の言っている事を理解しようとしたら工夫が必要なのである。


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