教育の理想を求めて

シンボルと儀式典礼


敗戦後の日本人は、騙されている。
例えば、人間は、どこの組織にも所属しなくても生きられるとか、自由に自分が所属する組織や社会を選べるといった嘘である。

人は、社会的な存在であり、集団的、組織的な生き物だという事が大前提である。
人は一人では生きられない。何らかの集団や、組織に所属しないと存在できない生き物なのである。
生れた時から自分の意志とは関わらないところで、何らかの国に属さざるを得ない。
第一、人は、親がいなければ生まれることだってできないのである。
それは、単に、自然状態においてというだけでなく。今日、全ての人間が何らかの国家の一員でなければならないという現実的な問題においてでもある。
何らかの国家に所属するというのは、自分の意志に関わらずに所与の要件として定められている。
人は、好むと好まざるに関わらず。何らかの国の国民でなければ、存在する事が許されない。

だから、社会の中で生きていく術、集団生活の術を学ぶ事は、必須の事なのである。それを一人でも生きていけるような嘘をつく。だから、社会に適合できずに引き籠りを大量に生み出す事になるのである。
これは国家的な犯罪である。かつて、世の中に出て困らないようにと子供を親は躾けたのである。今は、お前の世話にならないから勝手に生きろと突き放す親が沢山いる。
これでは、家も、社会も、国も崩壊してしまう。

以上の事は大前提なのである。大前提だからシンボルや儀式典礼が重要な意味を持つ。
この点を理解しないとシンボルや儀式典礼の正しい意味は理解できない。
何故ならば、シンボルや儀式典礼は、社会や集団、組織を成り立たせるために成立したからである。

組織を動かすためには、特有の技術が求められる。
そして、シンボルや儀式典礼は組織を動かすための手段、道具なのである。
組織を動かすための技術(マネージメント)を知らなければ、組織を統御する事はできない。

組織を動かす手段は、象徴と形式と行為によって構成される。
大切なのは、形である。

この組織を運用する為の技術は、個々の民族や人種、宗教が歴史や伝統の上に築き上げてきた。つまり、人の集団が存在する処には、必ず、組織を運用する技術が備わっていた。

他民族や他国を支配しようとした場合、この固有の技術を破壊し、自力で集団を統御できないようにして宗主国に依存するように仕向けるのは常套手段である。
国家の中枢を破壊するのである。
それは植民地化の第一歩である。

戦後の日本人は、この形を奪われた。日本人の形が破壊され。主宗国の形に変えられようとしている。
正月の儀式は、廃れ。クリスマスとか、ハローウィンの儀式が盛んになる。
結婚式は神前から人前へと変えられつつある。
人前は、社会主義国の全体主義の現れである。

組織を統御する力には、権力と権威がある。
組織を機能させるためには、権力か、権威のいずれか、あるいは、二つを活用する必要がある。
権威と権力の違いも教えないままに、反権威反権力として自国の権力や権威を否定させるのは、その国を支配しようとしている証拠である。くれぐれも騙されないように。
騙されると無自覚に自分の同胞を奴隷化してしまう。

この世には、自由人か、奴隷しか存在しない。

一人では何もできない、それが組織である。
組織は、一人では生きていけない社会的な存在である。
当然、集団行動が求められる。その為に必要なのが常識である。
また、共通の行動規範である。
ルールや規則を守るは、最低限の行動規範である。
守るべきルールや規則がある事が前提となる。
守るべきルールや規則がない場合は、組織は、組織として機能できない。
故に、守るべきルールや規則がない時は、まず、それを作る事から始めなければならない。
次に、ルールや規則を守るためには、ルールや規則を認知する。
組織を破壊しようとする者は、ルールや規則を標的にする。
時代や環境に適合しないルールや規則を放置する事は、組織全体を危うくする。
ルールや規則の改廃のルールや規則を最初に設定しているのが民主主義である。
故に、民主主義は、ルール、規則を重んじるのである。
そして、手続きの思想と言われる由縁がそこにある。

この事を大前提として組織とは何かを箇条書きにする。

第一に、組織は、人の集団を基礎としている。
第二に、組織は、情報ネットワークの一種だという事である。
第三に、組織は、指示・命令系統によって動く仕組みだという事。
第四に、組織は、指示・命令によって結びつけられているネットワークだという事。
第五に、組織は、チームワークによって成り立っている。つまり、メンバーの働きがあって成り立つ仕組みだという事である。
第六に、組織は、合目的的仕組み、合目的的集団だという事である。
第七に、組織には、全体と部分がある。そして、部分は、各々固有の働き、役割を持ちながら互いに協力、連携する事によって全体を成り立たせているという事である。
第八に、組織は、分業体制だという事である。
第九に、組織は、必要に応じて階層化される。
第十に、組織は自己増殖する。
第十一に、組織は、共通の法や掟、規則に基づいて成立している。
第十二に、組織は、運命共同体である。

今の学校では、強制は、悪い事とし、指示命令は悪だと教える。
強制のない組織は成り立たない。組織は指示、命令で動くのである。

組織は、自発性では動かない。指示、命令は悪い事ではない。
組織は、指示、命令で動く。強制力のない指示、命令は効力を発揮しない。
強制しなければ組織は動かないのである。

組織は、システムなのである。
組織は、仕組みである。

人間は社会的存在だという前提に立ってシンボルや儀式の働きを明らかにする。
何故ならば、シンボルや儀式は、組織を動かす手段だからである。
シンボルは、儀式は、集団を統御する為の手段である。
シンボルや儀式に求められるのは、意味ではなく。働きである。

集団を統率、統御する手段としては、言葉だけでは限界がある。
論理的で、筋書きのある話は、時として弊害になる。時と場所、場合によって同じ話でも働きが違ってくるからである。
組織や集団を制御する為に、必要とされるのは、意味ではなく。働きである。

アメリカで大統領にえらばれた時、国民一人ひとりに俺が大統領だなんて言って回れない。だから、式典を開く。式典を大々的に開く事で大統領の就任を国民に知らしめるのである。また、なぜ大統領にえらばれたかをいちいち説明するわけにもいかない。ただ、大統領に就任した事を象徴的に知らしめればいいのである。

物事には、始まりと終わりがある。この始まりと終わりを構成員全員に知らしめるの形がシンボルや儀式である。
何故ならば組織は、自己完結的な閉じられた仕組みだからである。
全てのスポーツは宣言に始まり宣言で終わる。
始まりや終わりには形が必要である。

始まりは、何もかもが、混沌としていて、曖昧模糊とし、判然としない。結果や結論が出ていない状態である。つまりは始まりなのである。
だから形から入る。形には意味がない。
ただ、それに従う力が必要である。
その力を権力に求めるか、権威に求めるかによってその後の展開も組織の在り様も変わってくる。
権力に絶対の力を求めるのが権力主義で、権威に求めるのが権威主義である。
民主主義は権威主義である。
権力や権威の区別もつかずに否定するのは、その社会や組織、国を支配しようとする者のたくらみである。

世俗的権威は、限界がある。
絶対的権威は、神である。故に、信仰は、組織を強くする。
人は神にはなれない。

組織の一つの原則は、わかる人間に聞け、できる人間に任せろという事であり、人は一人では何もできないという事である。
故に、指導者が自分を絶対化するのは一番危険な行為である。
なぜなら、それは自分が全知全能にならなければならないことを意味し、自分が全知全能になったら組織は存在意義をなくすからである。要するに一人でやればいいという事になるし、一人でしかできなくなる。
人は神にはなれない。

始まりと終了を組織の構成員に周知するのが、シンボルであり、儀式の働きである。

正式のスポーツは、開会式に始まり、閉会式に終わる。
開会も閉会も、宣言、あるいは、宣誓によって示される。

宣戦布告なき戦争は、単なる争いである。戦争だって国際法で始まりの形と終わりの形が定められている。さもなくば争いは、泥沼化する。
現代の戦争の多くは布告なき戦争である。故に、地獄のようにドロ沼化し、戦争が常態化される。

会議、打ち合わせは、イベントである。イベントだけでは、組織は成り立たない。イベントだけでは組織的な仕事は実行できない。組織的な仕事をするためには、イベントとイベントを結ぶ作業、アローが必要なのである。その作業も組織的なものである。チームワークは一人ではできない。

そのチームを取り仕切るのがチームリーダーで、それを補佐するのがマネージャーなのである。
だから、イベントでは、必ず、リーダーを誰がやるかを決め、そのリーダーが補佐役を決めないと仕事は始まらない。
そうしないとイベントとイベントを繋ぐ者がいなくなる。
会議も、実際に仕事をする部隊と作業を制御、管理する者とで構成されている。

会議では、会議の議題について簡単に話し合い、なるべく簡潔に結論を出す。
リーダーは、結論を確認したうえで、次回いつやるかを決める。その上で出席者に同意を得てそれを周知確認する。
その上で次回の会議の責任者、担当を指名する。
実施責任者に指名された者は、役割分担をしたうえで次回までにやってくることを指示したうえで散会する。

実施責任者は、会議終了後速やかに実施部隊を集めて作業の詳細を詰める。
その手順は、まじ次回いつするのか。何をするのか。そして、次回までに用意する物は何か。やっておかなければならないのは、何か。
次回の前打ち合わせをいつやるのかを決めておく。

その後速やかに作業の洗い出しに努める。更に大枠を決め、段取りをしたうえで、担当者ごとに仕事の割り振りをする。
作業の細かい詰めは、担当者に任せる。
実際にやる事は、担当者に読ませる。
結論は、指示は、要件を満たしていないと発効しない。五W一Hで確認する。
確認が終わったら担当責任者は総括責任者に報告のうえ指示を待つ。

実施責任者は、段取りに従って進捗状況を確認し、必要に応じて作業の組み替え、指示を見直す。

仕事は、基本的に三か月を一つの単位として枠組みをして、大枠を作る。月一回の会議を想定すれば三か月を三つに仕切れる。三つに仕切れれば、三段階に段取りする事が出来る。
一週、五日、一ヵ月四週で計算すれば、大体の目安がつけられる。

次に作業を洗い出す。作業の洗い出しは、漏れなく、重複なく、全て作業を洗い出す。
作業は簡単な仕事で二、三百はある。
作業の洗い出しが出来たら、それを分類し、担当に割り振る。

作業の洗い出しは、特に神経を使う。
上の者は、極力、実施責任者に任せる。
ただ、真意は伝われにくいから、折につけお互いに連絡、話をしてお互いの理解を深めておく。
これが礼である。

いずれにしても根気のいる作業になるから定石、基本的手順は事前に頭に入れておく。これが最低限のマナー。試合が始まってからルールを確認する様な事はないように。

自分が最低限のマナーを守らないでいて、相手を責めるのはゲスのやる事。

皆気の毒と言えば気の毒。仕事の手順、段取り、定石と言った基本を躾けられていないのだから。

僕らはよくプロとアマチュアの差は、基本ができているか、いないかの差だと聞かされた。
アマチュアは、基本ができていないのに、すぐに、勝負をしたがる。だからすぐに挫折する。
その癖、上手くいかないと他人の性にして反省しない。何かと反抗的な態度をとって持論を押し通そうとする。

兎に角、定石や基本を学ぶのは死ぬほど嫌いときている。基礎や定石の話を始めるとイライラ、ソワソワはじめてすぐに感情的になる。人の話を聞かなくなる。
しかし、実務は根気がいる事、それに、始めはつまらない事。
だけど若い頃にしっかりと身につけていないと社会に出てから通用しない人間になってしまう。それに歳をとってから基本を身につけるのは大変だ。
今は、基本ができていない人間ばかりだから、結局、やる奴がやって他の人間は知らんぷり。正直者が馬鹿を見る。

仕事は、漏れなく、重複なく、全てを確実に実行する事が求められる。
だから、絶えず事実関係が確認される。
聞かれるたびに話が違ったり、聞く人によって話が違ったら、やり直されるのは当然。
誰に聞いても一致した答えが求められる。それがチーム。

仕事や会議を開始する際の手順はチームワークのリテラシー、プロトコルだから全員が身につけておかないと仕事や会議を始める事が出来ない。

ハッキリ手順だ段取りだ基準だ礼儀だなんて面倒くさい。しかし、面倒くさがっていたらチームワークなんてできない。世の中なんて面倒くさい事ばかり。めんどくさがっているから引きこもりになる。機械システムだって初期設定されている事。
我々は、それを礼儀作法として躾けられた。しかし、後輩たちは、面倒くさがって覚えようともしない。

面倒くさい、面倒くさいというけれど、その面倒くさい事をやってくれる人がいたから、今までやってこれた。その面倒くさい事をやってくれる人がいなくなれば、組織は、機能しなくなる。それでもしばらくは惰性で動いていくだろう。しかし、自分達で制御しなければならなくなったら組織を思い通りに動かす事はできなくなり、暴走するか、止まってしまう。
組織運用のリテラシーは、人類が長い間かかって培ってきたものだから、馬鹿にしていると痛い目に合う。

自分がゴルフをしたいと思っても、何の予約もせずにいきなり、ゴルフ場に言ったゴルフをするわけにはいかない。まず、一緒にゴルフをやる人間を探さなければならない。一緒にゴルフをやる人間を決めても誰かが、日を決めなければならないし、ゴルフ場を決めなければならない、ゴルフ場の予約も取らなければならない。集合時間を決めて、ゴルフ場に行く手段も決めなければならない。
それら一切合切を誰もやらなければ、ゴルフはできないのである。一つでも面倒くさいと思ったら何にもできない。

めんどくさいと顔に出ているよと子供の頃叱られた。自分はわからないだろうけど相手には伝わるからね。顔に手だたらおしまいだよと叱られた。

兎に角、仕事始めが一番分かりにくい。
先ず、全体の責任者を決める。そして、次に担当責任者を決め、担当責任者は全体責任者と相談して担当者を決める。
その上でいつどのような形で正式にスターを始めるかを決める。
正式なスタートは、スタッフの顔合わせ、あるいは、オリエンテーションを意味する。

初回の会議、イベントには、お決まりがある。
大体、総括責任者から仕事の意義、主旨・目的、ミッションに対する一通りの説明がある。次に実施責任者、リーダーから所信と仕事の何賀に対する説明。それから大枠、スケジュールの説明があった後、メンバーに対して役割の説明と次回までにやってくる事に対する指示。そして、次回の開催日時、概要の説明。最後に指示の確認、詳細の詰め。そして、閉会を宣言し散会する。

イベントは、宣言に始まり、宣言に終わる。

イベントの内容は、事前に上司の承認を得ておく事が原則。事後承諾を求めたら怒られる。

組織は、人的なシステム。最初にきちんとセットアップしておかないと正常に作動しない。
いくら気力、念力で動かそうとしても動かない。

組織は、人の集まりだから、言葉だけ、理屈だけでも動かない。
だから、シンボルや式典、儀式を用いる。
組織は、人でできた仕組み、システムそれを運用管理する技術がマネージメント。

仕事は、時間と作業との競争になるから無駄口や議論を避けて作業に専念させる。
チームワークは、全員が決められた事を決められた時までに、決められたようにやってこなければならない。
話を混ぜっ返したり、引っ掻き回したり、蒸し返すと取り返しのつかない事になる。極力控える。
実施責任者は、仕事が始まったら、主旨、目的、目標などの初期設定を変更するのは困難になるから、作業に入る前に入念に発令者の真意意図を確認しておく必要がある。
ただし、実際の作業の詳細は、せいぜい言って一両日、筋道は次回ぐらいまでしか読めない。
あまり、先走らないで、慌てずに、出だしは、二、三回ヒアリングをして、足元を固める。
構想段階では、目に見えない事が多いから記録を必ず取ってメンバー全員にわかるようにする。

民主主義国は、儀式とシンボルを重んじる。
フランス人は、フランス国旗の革命を戦い。アメリカ人は、星条旗の下に独立した。共産主義のシンボルは赤旗である。旗を重んじるのは、全体主義でも、軍国主義でも国粋主義でもない。その国を象徴するからである。

アメリカ人は、大統領を選んだら、宣誓式を盛大に行い国民に知らしめ、演説をしパレードをする。
儀式や礼節、象徴を封建的だなんて言いやしない。

スポーツ大会では、国旗を掲げ、国家を唱和するのは、どの国も共通している。象徴や儀式は、神聖な事なのである。

会社の仕事は総てチームワーク、基本的仕様はチームのメンバー全員周知させる事が求められる。
誰が責任者で誰が何を担当しているかを全員がわかるようにしておく。一人でも、自分の役割を理解していない者がいたら、その瞬間チームは崩壊する。

シンボルや形式には意味がない。植民地化を画策する者は、意味がないと頭から否定する。しかし、シンボルや形に求められるのは、働ぎある。意味ではない。

猿だってボスは、尻尾を立てる。威張っているのではなく。誰が指揮官かを明らかにしているだけである。誰が指導者かを常に明らかにしておかなければ野生では生き抜けない。

戦後の日本人の自由は、家畜の自由に過ぎない。野生の自由ではない。主人が餓えれば食われるだけである。肥った者から食い尽くされる。

隷属させようと思う者は、最も核となるものを自分たちの手で葬りさせようとする。シンボルや儀式、形式を軽んじ、組織の統制を失わせ、内部から崩壊するように画策する。
日本の植民地化は、教育、マスコミ、役所によって最終段階に入った。

国にも、会社にも、学校にも、家族にもシンボルがある。国には国旗があり、学校には徽章があり、家には家紋がある。
自国の旗を卑しみ、主宗国の旗を敬う。シンボルを汚すのである。
シンボルを失えば集団は解散する。

意味のない儀式だから働きがある。何故ならば、儀式典礼に求められるのは、意味ではなく働きだからである。

権力によって統治するか、権威によって統治するか。
民主主義は権威主義である。

権威と権力の違いも判らないまま。反権威、反権力、何でもかんでも戦前の日本に結び付けて頭から否定する。
権威とか、儀式とか、象徴的な事は、とにかく悪い事で、生理的にも嫌悪するように刷り込まれた。愛国心などと言うと身の毛もよだつ想いがする。

団塊の世代以後に育た者は、意味もなく、生理的に、権威だの、秩序だの、形式や序列を嫌うように刷り込まれている。洗脳されている。

我々は、形を作れ。形を考えろ。形を作らないと収まらないぞ。言われてきた。不行跡をした時、喧嘩をした時、相手を傷つけた時、何らかの形を作らないと収拾できない事がある。
形は重要なのである。

父祖は、仕来りや慣習によって日本の伝統を継承しようとした。その伝統は、いよいよ朽ち果てようとしている。

団塊の世代は、日本の植民地時代に生まれ育った世代である。
団塊の世代は、反体制、反権威、反権力を標榜し、形式や伝統のことごとくを破壊しつくし、始まりの形と終わりの形を次の世代に継承しなかった。

日本の形は、礼に始まり、礼に終わる。美学である。
無垢で、清潔で、純、素。それが日本人の原点、美学である。

勝っても負けても相手を敬う。謙譲。恕。

日本人が重んじたのは、美である。美は形にある。姿勢である。
日本人は醜くなった。醜くなって日本を捨てようとしている。

何事にも始まりと終わりがある。人生にも始まりと終わりがある。
仕事にも始まりと終わりがある。
その始まりと終わりを知らしめたのが冠婚葬祭である。



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