教育の理想を求めて

言いなりという通りは違う


言いなりになる事と言われたとおりにするという事は違います。
言いなりになる部下は沢山いても言ったとおりにできる人はあまりいません。
言いなりになるためには、自分の心を捨てればいいのです。でも、相手の言ったとおりにするためには、その人自身の心が大切なのです。

自分の意志を持った時はじめて相手の言っている事の真意を理解する事が出来るからです。
言いなりになろうとする者は、言いなりにしようと思えば思うほど言ったとおりの事が出来なくなる。
だから、言いなりになろうとする人間は、言いなりにしようとするふりをするのですが、どこかしらで反抗的になります。
余計な事を言ってみたり、肝心な事をぼかしたり、話をはぐらかしたり、言わずものがなな事、前もって言い訳をしたり、最初から、無理な事、例外的な事ばかり言ったり、最悪、捨て台詞を吐いていきます。

でもそういう反抗的な態度から、その人の生き様や生きてきた軌跡、心の闇が見えてきます。

嗚呼、こいつはどんな生き方をして、どんな親に育て等、どんな教育をされてこんな考えをするようになったのかなと、後々よく考えます。

言いなりになる部下ではなく、言った通りの事をできる部下をどうしたら育てられるか日夜呻吟しています。お笑いください。未熟、未熟。

多くの部下には、心の闇がある気がします。
その闇が厚い殻を作ってその奥にある自分の核心を覆い隠している。自分だって本心を見失っている。その殻を打ち破らない限り、言ったとおりの事はできませんね。

私はその心の闇に向かい合えるだろうかと自問自答しています。
真に明鏡止水。

禅の話に、池に石を投げれば、水面が乱れる。水に映った月も乱れる。水に映った月が乱れたとしても月そのものに変わりはない。
人の心も同じです。表に現れた心が乱れていたとしてもその本心に変わりはないのです。その本心を見抜くことが自分の使命だと自戒しています。

なぜ、規則を作るかわかるか、なぜ、部下に厳しくするかと聞いたところ、部下を選別し、排除する為ではないのですか、部下を自分の言いなりにするため手背はないのですかというから、違うよと答えました。

規則を厳格にするのは、部下を犯罪人にしないためです。だから、日産や神鋼の話を聞くと罪作りな事をしてと思います。
経営者というのは、使い込みだの、規律違反だの、法令違反で一人や二人処罰した経験があるものです。人を辞めさせるというのは、辛いものです。でも最終的に決断するのは経営者でする。経営者というのは、その苦渋の中から二度と同じ事はしたくないという血を吐く思いで、規則を作り、規律を保とうとするのです。
それが結局最近甘くなってきた。上に立つ者が人気取りに走れば苦しむのは下の者です。
甘い処置をして罪作りな事をするなと先輩たちに叱られてきました。甘い処置をするのは、自分のためであって、本心から相手を思っての事ではないよと…。
甘い処置をすれば相手は世の中を舐めて、もっと重い罪を犯すようになる。
相手の心の痛みがわからなかったら、指導者にはなれないが、厳罰をもって臨めなければ指導者ではない。
泣いて馬謖を斬るとはそういう事だと…。

今度の選挙を見て本当の指導者、リーダー、親分がいなくなったなと痛感しました。安倍さんも、小池さんも、前原さんも、細野さんも、蓮舫さんも自分が思った事を思い通りにすれば部下はついてくると勝手に思い込んでいる。

相手を言いなりにしようと思えば思うほど、部下は、言ったとおりの事をしなくなる。
自分の言ったとおりの事をさらようと思えば自分の本心を相手に曝け出さなければならなくなる。
自分の心の乱れで自分の本心を見失わないよう。日々心掛けなければならないと思う今日この頃です。
明鏡止水。平常心。事情の錬磨。克己復礼。


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