教育の理想を求めて

正 式


現代の日本人は、正式という事を意味もなく嫌う。
嫌うように刷り込まれたという方が正確かもしれない。
しかも、正式というのを嫌うように刷り込んだのが学校だから、深刻な影響を日本に与えている。

その結果、予鈴も、終鈴もなくなり。起立・礼・着席の号令もなくなった。
なぜ、予鈴、終鈴、号令を失くしたのかと聞くと命令で、強制的だからだという。
なぜ、命令や強制は、悪いのかと問うと軍国主義だと答えてくる。
溜息が出てくる。
何でもかんでも軍国主義的と言えば正当化されると思い込んでいる節がある。

我々は正式に決めなければ何も始まらないよと注意を受けて育ってきた。
だから、正式に決めて、正式に指示をしようとする。しかし、それを後輩たちは、厭がる。厭がるというより、生理的に受け付けない。
見事までに戦後教育、占領教育、植民地教育が成功した。
欧米人の他民族支配の技術には舌を巻く。挙句に、分断し、相争うようにして支配せよという命題もきっちりと組み込んでいるから見事としか言いようがない。

他民族支配の手先として学校、メディア、役所を使えと言うのも常道で、日本人は根が真面目だから、忠実に言いつけを守ろうとしている。しかし、さすがに綻びも見えてきた。

正式とか、歴史、伝統、風俗、習慣、礼節、儀式、典礼、冠婚葬祭、祭禮、仕来り、統制、規律、制裁、処罰、上下関係等、組織を維持統制するための手段を悉く否定し、言葉自体にたいして生理的嫌悪感を抱くように仕向けられたのである。

その中に正式という事がある。正式という言葉は、裏に非公式という意味がある。逆にいうと、正式という行為がなければ、非公式という事も成り立たない。

正式があって非公式も成り立つ。例えば、採用は、正式な手続きを待つと時間がかかるので正式の決定を待たずに内定という形で相手に伝える場合もある。この様な行為も正式な行為があってはじめて成り立つ。正式な採用手続きなければ内定もへったくりもないのである。
正式、非公式の見分けがつかないという事は、無秩序を意味する。無法なのである。
正式を否定することは、無法を是認することにつながるのである。

堅苦しいとか、面倒くさいとか、格式張っているとか言って正式を嫌う者がいるが、それは、この世の中を無秩序な状態に堕としこめようと企む者である。真の民主主義者、自由主義者は儀礼を排したりはしない。なぜなら、民主主義は手続きに支えられ、自由主義は法に支えられていることを彼等は知っているからである。

正式に決定、取り決めは契約を意味する。故に、民主主義者が否定するわけがないのである。

正式、非公式の区分を明確にする。要は、正式にする。
正式とは、組織的という事である。正式な決定というのは、組織的決定を意味する。正式な指示というのは、組織的な指示という事になる。
組織とは、予め定められた手続き、規則、権限と責任に基づいて機能する集団である。組織に選らなくても集団は活動することはできる。ただ、組織に選らずに集団を制御しようとした場合、個人的な力関係に依存せざるを得なくなる。その場合、必然的に暴力的に成る。

組織は、決定した事を組織的に認識しないと動かないし、制御できない。組織を動かそうとしたら、組織に決定した事を認知させる必要がある。
正式なというのは組織に正式に認知させることを意味する。
自主性とか、主体性という人がいるが、組織にとって自主的か、主体的かは基本的に関係ない。組織とって指示、命令に対して従うか、従わないかが問題なのであり、自主性や主体性は関係ないのである。組織から見れば、自主的に従うか従わないかが問題なのではない。指示に従わなければそのものは組織から排除される。なぜならば組織の統制が取れなくなるからである。それが組織である。
組織は組織として機能して初めて自主性を重んじる事が可能になるのであり、指示、命令に従わない限りは、自主性がどうのこうのと言ってもはじまらない。
正式に決まり、正式に指示されたかどうかが問われるのである。

それをやたら自主性とか、主体性というのは組織の事がわかっていないのである。
自主性、主体性というのは、自分が組織に係るか否かの問題に過ぎない。

自主性や主体性を否定しているのではない。ただ正式な決定の段階で持ち出すのは的外れだという事である。
言わないと何もやらないというのも困る。自主性、主体性というのは、自分の立ち位置が定められてはじめていえる。最初から自主性、主体性を組織の中で求められても困るのである。

自主性や主体性というのは、組織に積極的に働きかけるという意味では正しい。
確かに、何も言われなければ何もできないというのは困る。しかし、それは正式な決定・指示に従った上でという前提の基でである。優先順位が違うのである。

正式な日を予め定めておかないといつ正式な決定が出されるかはっきりしない。
結果をいきなり出すのではなく。いつ正式に決めるかを先に定めるのである。正式に決める為には、それまでにやっておく手続きや作業、各々の役割があり、例え、トップであってもいきなり結論を出すわけにはいかないのである。
正式な決定や、指示があって詳細を決める事が出来る。いつまでにという期日を定まらなければ、何をやるのかという、算段もつかず。誰にやらせるかも見極められない。

何事も正式に決めなければ始まらない。
何事も正式に絞めなければ終わらない。
ではなぜ、正式に決めなければ始まらないのか。また、正式に締めなければ終わらないのか。

スポーツを例にとればわかる。スポーツは、宣言に始まり、宣言に終わる。正式であるかどうかは、宣言で決まる。
正式に決めるというのは、野球のようなスポーツでいえば、宣言、コールするような事である。プレーボールというコール、宣言することで始まり、ゲームセットと宣言することで終わる。宣言しなければ、始点も終点も定まらないのである。

それがだらしない、けじめがないという事である。
例えば野原でいきなり野球をするぞと言っても公式の試合は始まらないという事である。
公式の試合を始めるためには、手続きが必要だし、順序がある。それが面倒くさいと無視したら無法になる。何も始まらないのである。
最近その道理が理解できない者が増えているというか、学校が増やしている。
学校は道理を教えずに道理に反した事を教えている。指示に従いたくなければ従はないでいいとか、人と違う事をするのが個性だと言うような事である。親に逆らう事、礼節を無視する事も教える。
困ったものである。

正式な指示を以て組織は動く。
管理は、結果に基づいて為されるのではなく、指示に対してなされる事である。故に正式な指示が出なければ管理はできない。

正式に決めるという事は、中心を決める事であり、核を定める事である。頭と終いを明らかにすることであり、区切りをつける事である。

正式な決定を欠くと中心を欠く事で周辺から既成事実を積み上げたり、中心を欠いたまま仕事を進める事になる。また、頭を書いている事で、終いから遡るように仕事をすすめたりする様になる。筋を違えたり順序が逆になるのである。
現場が暴走したり、外堀、内堀を埋めるように仕事をする様になるのは、正式な決定がされていない証左となる。

正式なイベントを設定することで枠組みが形成される。枠組みができる事で細かい作業を確定する事が出来、また、計算が立つ。そして、組織に目標や作業を認知させる事が出来、目標を定める事が出来る。そして、組織を始動することが可能となる。組織は、正式な指示によって動き、制御されるのである。

正式に決まったら、次に何をするか、予め用意しておく必要がある。正式に決まったら、速やかに次の仕事に着手できるように事前に準備することが肝要である。仕事の流れに節目を作るなというのは、古来、「孫子」の時代からの鉄則である。

なぜ正式に決めて、正式に指示しなければならないのか…。
例えば、簡便に処理しようとか、正式な式典を省略しようとした場合、年寄りや先輩に怒られたのは、それでは示しがつかないとか、けじめがないだろうという理由である。

つまり、正式という言葉の意味には、「示し」という含意がある。
正式に決める事で、決まった事を皆に示せるようになる。皆に示す事で次にやるべき事を明確にできる。正式にできるという事である。そうすることで段取りをとったり、責任者や担当者を決める事もできる。責任者や担当者を明確にすれば指示、命令を明らかにする事が出来る。だから正式に決めたところから始まる。始点を明確にできるのである。
だから、かつては、正式に決まったと判断していいですか、正式に伝えていいですか、いつから正式に始めますか、正式に指示していいですかという事にこだわったのである。

正式に決めるという事で示しをつけるという意味は、正式に決またら速やかに関係者に示せ、つまり、伝達せよという意味がある。関係者全員に正式に決まる事によって周知させることがはじめて可能になる。

正式という事には、常に、公という意味がついて回るのである。
この点を忘れてはならない。

皆に示すという意味から儀式、典礼という事も重要になる。重大な事を正式に決めたら、式典、イベントを以て皆に示す、知らしめるというのも鉄則である。
しかし、儀式、典礼、式典も儀礼的である、形式的である、無意味である、果ては封建的だ、軍国主釘的、独裁的、全体主義的だと否定されてきた。

正式に決められた事は、正式に知らしめる必要がある。組織的に認知されなければ、指示、命令は正当性を失い発効しないからである。ところが、今の教育は、儀礼的な事は、権威主義的だとか、形式主義的だと頭から否定する傾向がある。意味のない形式だとか、儀礼的な事は権威主義だというのである。
儀式で重要なのは形式であるが、形式だからと言って形骸化するわけではない。形骸化させるのは、形骸化してしまった人間である。結婚式は形式的であったとしても形骸ではない。参加する人の心が籠れば、結婚式は神聖なものになるのである。
特に、正式に決められた事で重要な事は、儀式によって知らしめることがある。例えば、結婚式や入学式、卒業式である。
儀式は、象徴的で形式的である。結婚式を例にとれば、結婚式は、結婚式単独で存在するわけではない。婚約や結納、正式な婚姻手続き、ハネムーンといくつかのイベントが組み合わさって家族と家族、親戚と親戚、一族同士が合体していくのである。その一連の過程、儀式が重要なのである。儀式といった正式な行為を裏付けるためには権威が必要である。

また、正式という事には、権威が必要である。正式という言葉自体が権威を示している。つまり、正当性を正式な手続きは保証するのである。

権威と権力は意味が違う。権威というのは、法とか原理とかいった象徴的な力を意味するのに対して、権力というのは、個人とか機関といった実体的な力によることを意味する。つまり、権威が衰えれば権力によって支配される。個人や勢力の力による支配、それは暴力的支配にとってかわられる。本来は、組織は、権威と権力の均衡の上に成り立っているのである。
ところがこの権威もわけもわからずか、故意にか、頭から否定している。それが正式という事に対する否定にもなっている。

長い間、刷り込まれた事で、正式という意味を誤解している者がいる。

形式や常識にとらわれないようにと繰り返し繰り返し、刷り込んできた。
儀式は、形式だから意味がないと吹き込んできたのは団塊の世代である。彼等は、自分以外の人間が決めた事に従わないように洗脳され続けたのである。他人の言うなりになるな。なんでも疑ってみろ。誰も信じるな。そう繰り返し繰り返し教え続けられ、教え続けてきたのである。
テレビでも、映画でも、漫画でも不服従は美徳だと描かれ、それによって育てられてきたのである。

儀式だの、仕来り、礼儀作法は、社会の枠組みを形成する。だから、儀式や礼節を破壊すれば、社会の枠組みが失われてしまった。

インターネットが普及しつつある現代のように、社会の枠組みが大きく大きく揺らいでいる時こそ、しっかりとした土台を築いておく必要があるのにである。

手続きとか、報告というのは、面倒くさがったり、干渉される事のように曲解している。
手続きとか、報告を求めると信用していないのですかと聞き返す。手続きとか。規則は監視したり、管理するための手段だと教えてきた者すらいる。今の学校でもそういう傾向がある。しかし、誤解してはならないのは、手続きや報告、指示、命令というのは、担当者を守るためにあるのであって、印鑑を押す、あるいは、印鑑を押してもらうのは、担当者の身を守るためにするのである。
管理という意味合いは零ではないが小さいし、監視するというのは、作為である。
むしろ、担当者が自分の行為の正当性を立証するためにあるのが手続きであり、報告である。だから、お役所では手続きが煩雑になる傾向がある。

正式というのは、簡略的にいうと宣言と正式な手続きをとる事で成立する。

よきに計らえは、指示、命令にはならない。
最近、言ったではないかという上司をよく見る。これも正式な指示とは受け入れない。忖度(そんたく)せよも正式な指示とはならない。これは、上司の責任逃れてあり、極めて危険な発想である。
正式な指示、命令が成立するためには、要件を満たす必要がある。
発令者が誰か。受令者は誰か。発令日。発令根拠(権限、あるいは、手続き)そして、発令内容(目的、責任者、担当者、期日、作業内容、成果等)必要によっては予算、これらの要件を満たしてはじめて指示は発効する。
厳密にいう決定日、発効日も明確にする必要がある。通常の指示、命令は指示、即発行となるが規則などの改廃は通知事項であるから、全員通知をし、なおかつ、異議を申し立てる期間を必要とするので、発令、即、発効という訳にはいかないからである。

大枠は、正式なイベントを設定することで、区切られる。全体の枠組みが作られる事で仕事や組織を管理できる様になる。予定と実績を比較できるかとが可能となるからである。正式な決定をみない予定や予算は効力を発揮しない。

枠組みが出来たらイベント間の作業を洗い出し、段取りを組み立てる。正式なイベントが仕事全体のリズムを作る。

正式な決定をみても最終的に作業を確定できるのは、当日である。なぜならば、作業の進捗状態や当日の作業環境(事故や災害も含め)、担当者の状態をみないと正式には、作業指示が出せないからである。また、突発的、緊急な作業が割り込む危険性もある。
故に、管理者は、朝夕の仕事の形を定め自分の部下に浸透させておく必要がある。

かつて、自主性とか、主体性とか、個人の意思などと口当たりのいい言葉によって手続きとか、規則を否定した者たちがいる。
また、手続きは形式なんだよとか、不要な事だと巧みに吹き込んだものがいる。
日本が深刻なのは、それが教育界の深層部分に浸透している事である。
彼らの目的は、根底から組織を覆す事であり、本当に当事者の意思を尊重しているわけではない。むろん大多数の者は、言われるがままに言ったに過ぎない。

なぜ、このような教育がされたか、それは日本の植民地化、隷属化をするために、奴隷教育、植民地教育である。
奴隷というのは、自分の子供を無断で売られても文句も言えず、植民地というのは、自分の家を勝手に処分されても文句が言えない状態をいうのであり。それを当然と受け止められる精神状態にするのが植民地教育である。
自国の力、自国民の生命財産を守れない国は独立国とは国際社会では認めない。それは、その国の安全を保障している国の属国ないし、衛星国と見なされる。それが国際社会の常識である。
日本国憲法の前文を理想というが、現実を正しく認識せずに理想を掲げるのは、その本質は現実逃避でしかない。
だから、正式に物事を決め。正式に物事を進めようとせずに、だらしなく、何事もあいまいにしたままに穏便に、適当に適当に話を進めようとするのである。国際社会の笑い者になっても。
日本国憲法の前文をよく読むと日本以外の国は、良識的で善良だからならず者である日本人が武装を放棄すれば万事うまくいくと書いているとしか思えない。
しかし、たとえ日本が武装を放棄したとしても世界から紛争がなくなるわけではない。

この事実を正式に受け止め。正式に対処することが求められているのである。
子孫がこの国の独立と主権を維持するために・・・・。

家畜の自由など見せかけに過ぎない。野生の自由こそ求めるべきなのだ。

どんな仕事にも、作業にも始まりと終わりがある。その仕事の始点、終点を確定するのが正式に形である。
特に、組織は、集団活動であるから、全員が一つの形を共有する必要がある。その点を正しく認識できなければ、組織は自壊していくのである。

虚礼廃止などと言って儀礼の象徴的働きを無視して物知り顔に多くの祭りを捨ててきた。冠婚葬祭には一つひとつ象徴的な働き、かつては、氏神から発していたのである。それは日本人のルーツを蔑ろにすることである。それを教育者が主導してやったのだから何をか況やである。

最近、東芝、シャープ、東京電力など一流と言われてきた企業の不祥事が目立つ。それは、組織運用のリテラシーが失われたことに起因している場合が隠されている。そのような場合、当事者も、また、周囲の人間も、監督官庁も真の理由を見極められない事が多い。
組織を動かすリテラシーを失うという事は、組織を自分の意志で制御できなくなることである。
有名企業が外資からトップを招き、その人に決裁権を委ねた事があった。それは、その企業に組み込まれることを意味する。
日本人が日本を自分たちの意志で制御できなくなり、他国の人間に主権を委ねる事は、国家の独立を放棄しその国の植民地と化すことを意味する事を忘れてはならない。

自国の事は自国民で決めるのである。さもなければ国家の独立も主権も自由も守ることはできないのである。

最終責任は、最終決定権者にしか取れない。その覚悟のみが最高責任者を指導者たらしめるのである。決定者は責任から逃れる事はできない。決断できない者は、責任者にはなれない。だからこそ組織は正式な決定を尊重し、従うのである。
指導者は、決定し、決定したら、いかに責任をとるかの覚悟する。覚悟ができた者だけが真の指導者である。




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