教育の理想を求めて

確認に始まり、確認に終わる


報告したり、上申した時、聞き返されるのは、十中八九は、確認である。ところがそれを注意されたとか、間違いを指摘されたとか、問いただされたと勘違いする人が結構いる。

確認される事というのは、ごくごく当たり前な事、わかり切った事である。
なぜなら、事前に決められた事や直前に出された結論、今置かれている状態などだからである。

つまり、難しく考えたり、新しい事を加えたり、想像したり、予測や推測するような事柄ではない。
確認というのは、事実関係だけである。憶測や推測は確認にとって禁じ手である。

変わった事とか、奇抜な答えを求めているわけではない。反論を求めているわけでもない。確認は確認である。確かな事から聞いてくる。確かな事というのは、当たり前でと全な事、わかり切った事である。

やってもいない事をやったとか、わかっていない事をわかってると言ったり、事実と違う事を言えば嘘になる。
逆に、やってある事をやってないというのも、わかっている事をわかっていないというのも嘘である。
この様な嘘は、何らかの思惑に囚われているからついてしまう。しかし、事実に反する事を言えばその瞬間から確認した事が失敗へとつながっていく。
確認をしている時に嘘を言えば全体を危険な状態に陥れる。だからこそ、確認において最も忌み嫌われるのは、嘘であり、憶測推測である。

最も危険な事は嘘をついている者が嘘と自覚していない嘘である。
言い訳や知ったかぶりはいらない。
叱られたくない、怒られたくない、馬鹿にされたくない、嫌われたくないというのは、私情である。市場によって全体を危機に堕とし込めるのは、罪である。

とにもかくにも確認というのは事実のみ、わかり切った事だから確認しているのである。

ところが確認の意味を分かっていない者は、何か目新しい事を聞かれているとか、自分の考えを聞かれていると錯覚し、いろいろとこねくり回してしまったり、難しく考えたりする。

それで、事実と違う事を言ってみたり、憶測や推測を交えたり、自分の主観的な判断を入れたりするから、いつまでたっても確認ができない。

その癖、当たり前な事、わかり切った事を聞かれていると知ると急に怒り出したりする。
何度も言うが、確認というのは、当たり前な事、わかり切った事、明らかな事実のみ基づいていなければならない。

そして、指示、命令が出された後、報告したり、提案した後聞き返されるのは、確認、即ち、今言った事の復唱を求められている場合が多いのである。
ところがこの確認が実は難しいのである。
たった今言われたことを言われたように答えるというのは、熟練しなければできない。
また、緊張していないとできない。

当たり前な事、わかりきった事を聞かれたと怒り出すようでは、確認なんてできない。
確認されたからと言って咎められたとか、馬鹿にされたと考えるのはお門違いである。

当たり前で、わかり切ったことだからこそ確認する必要があるのである。

集団を統制するためには、行動規範を共有する必要がある。
その最も典型的なのが軍隊であり、警察や消防、そして、学校と言った合目的的な組織である。
集団は、情報を共有する必要がある。

まず指示命令を部下に伝え。また、常に周囲の状況、自分たちの置かれている位置を伝え。共通認識を持つように仕向ける。
確認について誤解している者がいる。特に、思春期、反抗期になると確認される事を嫌がる様になる。親に向かって「わかっているよ」とか、「今やろうとしてたんだ」とか、くどいとか、しつこいと反発する。
この様な癖を大人になっても持っている者は、とにかく、確認をとられることを厭がる。確認される事を嫌がる者は、確認することも嫌がるようになる。
確認というのは、決まりきった事、同じことを繰り返す事で、組織全体に共同認識を刷り込んでいくことなのである。同じことを繰り返す事は、行動規範、無意識の次元まで共有することになる。そうすることで、組織的規範、集団的規範が形成されるのである。集団的規範が形成されることによって、全体の行動に整合性がとられるようになり、初めて組織は統制的行動がとれるようになる。

人間の記憶には限界がある。
一回聞いてすべて納得するとか、理解するという事は難しいのである。
だから、直前に言われた事、特に、指示、命令は必ず声を出して確認する。

今の学校教育は、逆らう事ばかりを教える。
例えば、個性を出しなさい。個性とは他人と違う事だとか。自分の言葉で話しなさい。自分の考えを持つためには相手の言った事を言い換える事。
こんなでたらめな事を教えるから正しい確認ができなくなる。
子供たちにしてみれば、素直に教えられたことを教えられたようにしているだけなのである。

まず言われたことを言われたように再現する。その能力が仕事の結果を左右する。指示された事、言われたことを最初から違えたらうまくいくはずがないのである。

最初は相手の言うなりになる事である。

言いなりになるという事が死ぬほど嫌だと思っているのではないのかと思われる人も大勢いる。

しかし、それでは人から学ぶ事はできないのである。
人まねと言われても最初は人を真似る事から学問は始まるのである。

事務や手続きは作業や組織的意思決定を効率化するためにあるので、作業の効率を悪くするためではない。その点を理解しない手続きを無視したり、省略してしまうと途端に仕事が混乱し、停滞する。反対に、形式にばかり囚われる者は、手続きの必要性を理解しないで、ただ煩雑にしてしまう。どちらにしても手続きの意義を正しく理解していないことに変わりはない。






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