教育の理想を求めて

医学について


今の医療で問題なのは、医師と患者との信頼関係が築けくなりつつあることです。

医師という言葉から、どんなことが思い浮かぶであろうか。
医師という言葉から思い浮かぶのは、エリート。金持ち。名士。かっこいい。そんなところかもしれない。実際、医師を主役としたテレビドラマも数多くある。
何らかの職業を題材して作られるドラマというのは、医者以外には、刑事とか、学校の先生とか限られている。医療というのは、ドラマになるのである。
しかし、今の医療の現場は病んでいる様に思えてならない。何か大切な部分が欠けているのである。

私は、医の原点というのは、医師と患者の信頼関係だと思うのです。
なぜなら、医というのは、生病老死という四苦の全てに関わっているからです。
どんなに医学が進歩しても、生病老死の四苦から人間は、逃れられない。
苦の本質は、お釈迦様が出家した時から何も変わらない。
だとしたら、医療は、人生の苦と対峙せざるを得ないし、医師は、人生の苦と常に向かい合わざるを得ない。
苦しみの果てに、また、人生の終末.点に辿り着いた時、出会うのが医師であり、看護士です。
ですから、人は、医師や看護師に神、仏を見出し、あるいは、悪鬼羅刹を見出すのだと思う。

私の母は、今年、八十六歳になります。
その母が一年前に母も大腸がんと胃がんを患い、山王病院で手術をしました。術後の経過もよく、抗がん剤の類も全くせず。
奇跡的な回復をして、手術前よりも体調がいいくらいです。何よりも母を執刀した先生方が技術のみならず、その人柄が素晴らしく。また、看護士さんたちの真摯な態度にも心打たれました。
全く母は何の心配もなく、手術をすることもできましたし、手術後も穏やかに何の心配もなく生活を送っています。
八十を過ぎたころから歌を習い始めた歌を、退院後しばらくして再開し。今はシャンソン、それも愛の讃歌とか声量のいる歌を習う始末です。

逆に、若い医者に父が冷たい仕打ちを受けたこともあります。
父は、七年前に長患いの末になくなりました。私は、その時の若い医師の態度の失望を感じました。
病気になる事は、犯罪であるかのような接し方をし、時には、看病をしている母を罵倒する事さえありました。

この様な両極端な仕打ちを受けたからこそ医師の人格の大切さをつくづく感じるのです。
本当の名医というのは、腕がいいだけでなく、親身に患者の事を思っていてくれる医師を言うのだと思います。

医もまた、人のなせる業であり、完全無欠という事は望めません。先端医療に携わる者は、それだけ、リスクも伴います。また、医療にはきりがない。いつ、だれの判断で、生命維持装置を外すべきか、心臓マッサージを止めるべきか常に厳しい判断が求められます。
白い巨塔の様に名医と言われた方のわずかな過誤は誤審として糾弾されますが、しかし、それは、名医だからこその糾弾されるのだと思います。
ただ、医師は地位や名誉、富以上に使命感がなければやっていけません。

大切なのは、真心であって医師の純粋な魂まで疑るようになってはおしまいだと思います。

赤ひげという医師が昔いたと聞きます。緒方洪庵は、冷静でなくなると自分の弟子に対する診察ができなかったとも聞きます。その精神が若い医師に伝わらないのが残念でなりません。

医療が対象としているのは物ではありません。人です。その事を若い医師は忘れかけてる気がします。
心を失くした医療は何も癒せません。医は仁術だと思うのです。

金持ちだの、社会的な地位のある者は除いて、一般の人は、いい医者を見極めるための手段がない。大体、医師社会の仕組みがわからない。テレビドラマなんかでは出てきても、学閥だの師弟関係だの、病院や大学の力関係など皆目見当がつかない。況や、町医者とどう付き合ったらいいのかもわからない。セカンドオピニヨンなどと言われても、かかりつけの医者以外知り合いの医者などのいる人は稀なのである。しかも、医学用語はチンプンカンプン、専門用語など使われたら、皆目見当がつかなくなる。
例えば血圧だって薬を飲めという先生もいれば、飲むなという先生もいる。極端な話、診断や処方は、先生の数だけあると言っていい。だから、誰の言っているのが正しくて、誰が言っている事が間違っているかは、勘に頼るしかない。
しかも薬と来たら、何が何にどう効くのか専門家だって持論は別々だ。
要するに、患者は医師を選べない。いい医師に出会えるかどうかで生死を分かつ、人生も変わってしまうと言っても過言ではないのにだ、情報には非対称性がある。
誰が名医で誰が藪医者かなんてわかりはしない。
患者は医師に自分の命を預けるのである。それなのに、いい医師に出会えるか否かは、運しだいというのが実情です。実質的に、患者は医師を選べない。
競争競争というけれど、全くと言っていいほど競争の原理が働いていない。切実な問題だというのにである。

医療は、本当に医師の人柄だと痛感するのです。
病の苦しみ、死に対する恐怖。人は皆、いつか死ぬのだと覚悟はしていると思うのです。ですから最後は、自分の運命を受け入れざるを得ない。
それでも、すがる思いで、医者の所に来ると思うのです。それは少しでも生病老死の苦しみから逃れたいからではないでしょうか。
癒されるというのは、病からではなく。人生の苦しみから救われたいだと思うのです。

病に苦しむ人たちは、医師の慈悲に出会うと地獄の仏と涙が出るほど救われるのだと思います。

そう思うと本当に現場で患者の心を支えている医師の志には、手を合わせたくなります。

私には、現代社会では、高齢者の方が厄介者、のけ者扱いにされている気がしてならないのです。お年寄りが周囲の目を気にし、肩身の狭い思いをしながら生きている。
介護の現場は過酷だと聞いております。
認知症とか、介護負担が大変なのはわかります。老いた親を抱え、自分も還暦を越えた私にとっても切実な事です。でも、それは、生きる事の本質にかかわる事だと思うのです。
いつかは、皆、老い衰える事は避けて通れません。先輩たちはいつか行く道と他人事ではない。お互いさま、お陰様と手を合わせながら、助け合ってきたと思うのです。医療の進歩は、その上に成り立つと思うのです。

私が子供の頃、祖母がなくなる時は、自宅に町医者の先生が来られ、最期をみとってくれました。
私のイメージの中には、黒い鞄を以て優しく最後まで付き添ってくれる。そういうイメージが町医者にあります。
それが町中の人の信頼や尊敬、そして、親しみやすさの根源だった気がします。
これから少子高齢化の時代になると年寄りは捨てられていくように思えるのです。
年寄り、長老という言葉があるように、長生きすればそれだけで人々の尊敬を得られたのも今は昔かもしれません。

最近の医師には、教養が失われてきつつあり様に思われます。
私は、医師である前に一己の人間であってほしいと願うのです。
私は、最近医者にかかるのにある種の恐怖を覚えています。人として扱ってもらえないのではとしり込みするのです。
いたわりという事が期待できない。
日本人は、何か一番大切なものを置き忘れつつある気がします。
今、医療というと問題にされるのは、制度や施設の事ばかりです。道徳とか情は二の次です。

美しく年老いるには、美しく年老いる事の出来る世間がなければならないと思うのです。

私は、人は皆いつかは死ぬのだと思うのです。私は、臨終のとき、嗚呼、俺の一生に悔いはない。いい人生だったと言えるような死にざまができるかどうかだと思うのです。
ところが今の医学は、ただ延命ばかり計って、結局、最後にその人の人生や生き様を否定してしまうような事を平然としている気がするのです。
一分一秒でも長生きさせることが大切なのか。人の尊厳を守ってあげる事なのか。
日本人は、死に際して辞世の句を詠んできました。
そこに日本人の美学があると思うのです。
花は桜木、人は武士と…。
また、桜の季節が巡ってまいります。
花を愛で、散りゆく桜に自分の人生を重ね合わせたのが日本人です。
その日本人の美学を現代医学は踏みにじろうとしているようにさえ思えます。
歳をとる事は醜い事ではありません。少なくとも日本人にとって・・・。
吉田松陰がどんなに短い人生にも春夏秋冬の四季があると死に臨んで語りました。
秋、冬を楽しむゆとりをもって生きていきたいと私は思うのです

現代社会において医療は、巨大な産業になりつつあります。
しかも、公的保険制度をどうすべきかの問題が隠されている。
医学部は、あらゆる学問の中でも最難関な学問であることは間違いがなく。学校で一番頭のいい人間が進学する分野です。
確かに、医師は、エリートです。最も勉強ができると言っていい。
機械化やAIがすすめば、残されている分野は、医学の分野である。そして、それは四苦に人間が真正面に取り組まざるを得ない事を暗示している。

医者というのは、なぜ、あんなに横柄で高飛車な態度をとるのだけう。
兎に角偉そうにして、人を見下したような目で患者を診る。
まるで悪い事をして叱られているような気分にさせられてしまう。
病気になること自体悪い事ではないはずである。
ストレスのたまる仕事であることはわかるし、聞き分けのない患者がいる事も確かだ。

先生商売という事もある。
先生商売というのは、医者も、政治家も、教師も、皆が、黙っていても地位や職業に対して敬意を払ってくれる。払うものだと思い込んでいる節がある。
だから、何かと説教臭くなり、人を見下した態度をとりやすい。

医師というのは、病をなおせばいいと思っているかもしれないが、病は、生病老死、四苦の内の一つである。病を治すという事は、後の生老死をも癒す事でなければ意味がない。
病を治すという事は、生と向き合い、老と向き合い、死と向き合う事でもある。
病を治すという事は、心を癒す事でもある。病を治すと称して、生きる事に絶望させてしまったら、病が治癒したとしても残酷な事である。
病を治癒するという事は、病人に生きる希望を持たせることでもある。その事を忘れた医術は、医術の名に値しないのである。

人は、皆、最後には自分の死と向き合う事になる。
その場に立ち会うのが医師である。



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