教育の理想を求めて

必要とされるという事



誰にも必要とされていないなんて思ったら、生きていけない。
誰からも必要とされてこなかったんだなんて思ったら悲しすぎる。哀れである。

しかし、必要性という考え方を戦後の学校教育は、極力排除してきたようにみえる。
必要とされる人となれ、役に立つ人になれと教える事は、戦後教育では忌避され続けてきた。

世のため、人の爲なんて、嘘であり、きれい事。所詮、人間は、私利私欲でしか動かない。
どうせ金の爲でしょ。地位が欲しいからでしょ。見返りもない事に人は汗水なんて流さない。
人の役に立ちたいなんて馬鹿のいう事。
そういう風に学校では教えた。
だから、戦後教育を受けた者の多くは、どこか、醒めていて、斜に構えている。斜めからしか物事を見ずに、まっすぐに物事を見たり、信じたりしようとしない。

戦争に負けてからの日本の教育は、必要という価値観を徹底的に否定してきたように思える。
要するに、社会や国に必要とされる人間なれという事を徹底的に否定してきた。

日本は、戦争に負け、敵対した国によって占領された。そして、過去の日本の体制は、全否定されることになった。そのための手段として学校を反体制派の教師によって支配されることになるのである。

そして、世のため人の爲なんてきれい事で、結局、自分のためにしか生きていないんだと繰り返し、繰り返し、子供たちに吹き込まれるのである。
それは、国に必要とされる人間になれという教えが軍国主義を生んだからだとされる。
しかし、それは嘘だ。世の中や国のために必要とされる人間になれという事は、世の中や国のために犠牲になれという事を言っているわけではない。

しかし、反体制派に牛耳られた学校では、利己主義を礼賛し、人のために働くなんて愚か者のすることだと教えている。
でも、歳をとった今、俺は、この世の中に役に立ってきただろうか。必要とされてきただろうかという思いが時折心をよぎる。
それは、必要とされる人になりたい。必要とされる人でありたいという思いが本音だからだと思う。

強制は、悪だ。規律とか、統制というのは、強権、矯正につながるから駄目。命令や指示は強制、強要であるから悪である。学校で、モラル道徳は、思想教育につながるから教えるのはいけない事である。子供にも人権があるのだから、子供の意思を尊重すべきである。少数意見を尊重し、従うべきである。いかなる暴力も悪である。どのような不正に対しても無抵抗、非暴力でこたえるべきである。全人類、特に、社会主義者、共産主義者は平和主義者であり、核兵器や軍隊を持ったとしても問題ない。男女を区別することは、男女差別につながるから更衣室やトイレも一つにすべきである。この様な考え方も偏向している。

右翼的な思想は偏向的だと非難されるが、反体制的教育も偏向しているのである。公共教育で反体制思想や革命思想を鼓舞するというのは異常な事である。しかし、その異常な事が平然とされてきたのが日本の教育の現場である。

極端な民族的、国家主義的教育も偏向しているが、極端な反体制、反権威、反権力教育も偏向している。

この様な偏向教育の一つに実用性の否定がある。

ご迷惑をかけます。
お世話になります。
お陰様です。
お互いさま。
この四つの考え方が日本人の思想の根本にある。
迷惑をかけてはならないとか、お世話になってはいないなんて思想はない。

これらの働きは、相互作用である。
お互い様なのである。

これらは人間関係を支える考え方でもある。
そこから、恩や感謝という発想も生まれる。

そして、この気持ちは、ご苦労様。ありがとうという感謝の言葉にもつながります。

恩だの、感謝なんて今の先生にとって禁句。
学校の教育によって生徒たち戦場に送り出され。鬼畜のような行いをしたのだと言いたいようだ。

そして、自分たちは、子供たちの人生に影響するような教育はしない。したくない。我々は単なる労働者に過ぎない。つまりは、教育なんて何の役にも立たない。
何の役にも、社会にとっても必要でない事を教えるのが教育なのだと。
本気で、一時期、教育の現場に立っていた者たちは信じていたみたいだ。
その結果、エログロナンセンスに教育は落ちていった。

必要とは、言い換えると実用。学校で習う事は実用的でない。実用的でない事だから、学校で教えるのだと、馬鹿げた事を真顔で言う。

だから、我々は、すっかり騙されて、役にも立たない受験勉強に四当五落などと夜も寝ないで勤しんだのである。

必要性は実用性を意味する。
つまり、必要性の否定は実用性を否定していねことを意味するのである。
確かに、世の中に役に立たないからと言って学問を否定することはない。しかし、だからと言って実用性を軽視するのも間違いである。

学校教育にどっぷり浸かっていると実用的な勉強は、馬鹿馬鹿しくなる。
会話なんてそっちのけで、発音なんてどうでもいい、使えない英語を一生懸命、十年以上勉強して、卒業したら、きれいさっぱり忘れてしまう。
日本人は、馬鹿なのか、無能なのか、あれだけ全国民が勉強したというのに、ほとんどの人は日常会話だってままならず。外人から話しかけられたらそそくさと逃げだす始末。
必要な事は学ばなくて、必要でない事は大切だと学校でさんざん叩き込まれた結果である。

世の中に出たら、必要な事、役に立つこと以外、教えないし、学ぶ必要がないとされる。必要な事だけを厳しく躾けようとする。
しかし、しっかり学校で勉強してきた子、素直な子は言っている事が理解できない。なぜなら、学校の先生から教わった事とは正反対の事を言われているからである。

だから目的と必要性とが結びつかない。そのために、必要な事を学び、必要な事をせずに、不必要な事を学び、必要でない事ばかりしようとする。結果、世の中からはみ出していくのである。
それが戦後教育の成果。引きこもりだの、ニートだの、うつ病だの、登校拒否だの、いじめや学級崩壊というのは、戦後学校教育の赫々たる成果である。

世のため、人の爲にならない役立たずを大量生産することが、反体制派教師の目的なのである。
なぜならば、世の中から受け入れられない者たちこそ革命成分だからである。

でも、歳をとって自分が何のために生きてきたのかを振り返った時、誰からも相手にされず。必要にも、必要ともされていないと気が付いたら、取り返しのない後悔の念に囚われる事になる。

なぜなら、必要とされる事こそ、生き甲斐の源だからである。

役に立つ人間になれるか否かは、結果でしかない。大切なのは、世のため人の爲、役に立つ人間になろうとすることなのである。






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