教育の理想を求めて

感  謝



家内が自分が今日も頑張って生きていけるのは、皆のお陰なんだ。自分一人では生きていけない事に気が付いたの。だから、皆を集めて自分の感謝の気持ちを伝えたいと言われて、正直困った。

家内は、純粋に感謝の気持ちを伝えたいという。
感謝の気持ちが純粋なのはわかるけれど、どうすればその思いを相手に伝える事ができるのか。

言葉にしてしまうと味気なくなるし、金や物にしてしまうと途端に醒めてしまう。

大体、感謝をしているといっても、誰でも彼でもという訳ではないだろうし・・・。
感謝している人というのは、やはり、特別なのである。
全ての人に平等に感謝しているなんて言ったら、感謝している意味がなくなってしまう。
感謝という言葉自体が特定の人に向けられた言葉なのである。

夜、疲れて帰ってきた日、ご苦労様という一言。
その一言で明日も頑張れる。挫けそうになった時、そっと背中を押してくれる。
寒さに震えながら部屋に入ってきた時、差し出された暖かな飲み物。
自分ひとりではないんだと思わせてくれる。

当たり前だと言えば当たり前な事なんだけど、そこに込められた感謝の気持ち、それが大切なのだと…。

勘違いしている人がいるけれど、優しさだけに感謝しているわけではないし、何かをしてくれたから感謝をしているという訳でもない。
厳しく叱ってくれたり、教えてくれることだって感謝に値する。

だから、かつて弟子は師に感謝をしたのだ。

感謝しろなんて感謝は強要できる事ではないし、できる事でもない。
今は、大感謝祭なんていって感謝の安売りみたいなことをするけれど、それだってどこか違う。
ありがとうって自然口に出た時、感謝しているのだろうし、本当に感謝している時は言葉にも出ない。

お客様だからとか、生徒だからとか、子供だから感謝しろというのではないけしど、感謝すべき事は感謝すべきなのであって。
自然に嗚呼ありがたいなと思う事が大切なのである。

勤労感謝の日とか、母の日とかあって、その日は働いている人や母に感謝しろというけれど、感謝なんて感謝しろと言われたからってできる事ではないし。それで、母親って花一本もらったら嬉しいんだよね。

母親は子供に感謝しているのだと思う。横ですやすやと眠るこの横顔を見ていると、力いっぱいしがみついてくる子供を抱いている時、本当に幸せだと思い。なぜ、自分が生まれてきたのかを思い知らされる。
だから、母親は、子供の爲ならどんなにつらい事でも耐える事ができるのだと思う。
それを親が子のために働くのは当たり前だとか、義務だとか言ったら身も蓋もない事である。
法で取り締まらなければ、親は親でなくなり、子は子でなくなってしまうような国は人でなしの国である。
子が親に感謝しろというけれど、それは、母親が子に感謝している思いを万分の一でもわかってあげてという事の裏腹に思える。

母の日なんて母に感謝する日と決められてしまうとだんだんにありがたみも失せてしまう。確かに、ありがたみは失せてしまうのだけれど、カーネーション一本もらうとそれでも嬉しくなる。それが母親なのである。

いつもは、鬱陶しいとか、煩わしいとか、やかましいとか、煩わしいと思っていても、試験に合格したり、試合に勝った時、真っ先に知らせたい人。そういう人が感謝している相手なのだけれど。
試験に落ちたり、試合に負けた時、周囲の者は、よくやったねとか、がんばったねとか声もかけられないし、当人は当人で感謝している相手にありがとうという事言いづらいから。お互いに気まずい思いをして、ついありがとうと言えずに、いつまでも引きずったりする。
それって本当は感謝しているんだよね。感謝している気持ちを伝えられなくて。

嬉しい時、哀しい時、報告をしたくなるのは、ほめてほしいからであり、慰めてほしいからであり、叱ってほしいからである。それは感謝している証。

皆のお陰で、皆がいてくれるから、明日も頑張れる。それが感謝するという事なので・・・。

この世の中には、一人ぐらい感謝している人が誰だっているだろう。
仮に一人も感謝している人がいないとしたら寂しすぎる。一人も感謝している人がいないなんて人生は、寂しすぎるじゃあないか。
人の感謝する気持ちを素直に受けられないのも寂しい事だ。相手が感謝しているというのだから素直に受け取ればいいのに。

人に感謝する気持ちがあるから、他人と一緒に生きてもいける。
なぜなら、それが人としての本源的な感情だからだ。
感謝する気持ちがなくなってしまったら、人は人でなくなってしまうし、家族は家族でなくなってしまう。感謝する心があるから、人とかかわっていこうと思うのだし、助け合おうという気が起こるのだ。
それがたかれば、愛にも恋にも変じる。

素直に相手の感謝を受け入れ、それをまた、素直に周囲の人に返せたり、どんな時だって頑張る事ができる。
自分が臨終の時、ありがとうって素直に言える人が一人でもいてくれたら、それだけでもいいい人生だったと言える気がする。

今の人は、感謝という事を忘れかけている。
感謝という言葉の意味は分かる。否、わかっているつもりなのかもしれないが、感謝と言葉の真意がわかっているかどうかがほからない。

感謝の気持ちを皆に伝えたいと思い。何かの企画を建てようと思ったとしよう。

私は、皆に感謝している。
その感謝の気持ちを皆に伝えたい、どうしたらいいのか。
何か企画を立ててと依頼を受けた時、わかりましたと引き受けるが、では何がわかったというのか。

感謝している事、感謝している事をむ伝えたいというのもわかる。
ではどうしたら、感謝の気持ちが相手に伝わるのか、その一番感じな事がわかっていない。
わかっていないのに、わかったつもりになって一人合点している。
しかし、どの様にそれを伝えたらいいのか。そこにその人その人の考え、思想が表れる。
何か手紙みたいなものを書いて言葉で伝えればいいのか。パーティを開いて豪華な景品を出すのか。相手を驚かす企画を立てるのか。「お金」を渡すのか。それとも・・・・。
心温まるという事はどういうことなのか。
皆、わかったというけれど、一番肝心な事がわかっていない。
わかっていないと感じた時、パソコンに向かい、あるいは、インターネットで検索をするのか、それとも皆を集めて助けを求めるのか。ただ一つ言える事は、自分一人では、なかなか皆に感謝の気持ちは伝えられないという事である。なぜならば、感謝というのは、それ自体多くの人に向かって発信される事だからである。

なんで俺の気持ちがわからないだと相手を責めるのは見当違いだし、強制的に集めたら、感謝どころの話でなくなってしまう。

今の学校教育で一番嫌な事は、感謝する必要はないし、感謝するなと教え続ける事である。
親にも先生にも感謝する必要はない。その延長線上に、会社にも、国にも、世間にも、感謝するする必要がない。そして、神にも感謝する必要はない。
母親が、子供を育てるのはそれが仕事なのだし、先生が生徒を教えるのは、金のためだ。だからと感謝する必要なんて寸毫もないと学校で教え続けている。
その結果、子は親を尊ばなくなったし、生徒は先生は、尊敬しなくなった。家庭も崩壊することになっているし、学級も崩壊するのである。

感謝なんて、本来自然な感情である。生かされていることに感謝し、食べる事ができる事に感謝し、突き詰めると神様への感謝である。

ありがとう。明日も一緒に頑張らうねと素直に言えるようになりたい。それだけなのである。

今日は、言葉や態度ではうまく伝えられないかもしれないけれど、家内の感謝の思いを素直に受け止めて持って帰って、それをそっと身近にいる人にそっと伝えてほしい。


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