教育の理想を求めて

平等とは


人は、皆、違うのである。こんな当たり前な事が今の教育者はわかっていない。
平等とは、この違いを前提として成り立っている。人それぞれの個性を否定したら平等なんて成り立たない。
差をつける事が間違いなのではない。何に基づいて、どの様な差を、どの様につけるかが問題なのである。
要するに、人種とか、民族とか、宗教とか、家柄だの、出自、親とか言った不当な根拠によって差をつける事が問題なのである。実力、能力、実績、資格、知識、技術、経験といった正統的な根拠によって差をつけるのは平等に反する事ではない。
人は、違うのである。男と女は違うのである。男と女を同等に扱う方が差別的である。男と女の違いを前提としたうえで、公平に扱い、評価する事には、当然の事であり、差別とは違う。例えば、女性の参政権を認めないのは差別である。しかし、ゴルフで男女差を認めて女性にハンディを与える事は差別ではない。
差をつけること自体が悪いというのは、異常な思想である。
なぜ、そのような異常な思想がはびこるのかというと、その根本は学級制度にある。
むろん、学級制度そのものが悪いと言っているのではない。学級制度は、きわめて特殊に環境に基づいているという前提と学級制度にも良いところと悪いところがあるという事を自覚しておく必要があると言いたいのである。
学級制度の歴史というのは、比較的浅い。
一定の年齢の一定の人数を単位の子供の集団を、社会から遮断し、隔離して、同じ教科書によって特定の先生が同じことを教える。一つの学級の所属する者は、同じ条件で同等に扱う。そして、何らかの試験によって成績をつけ、一定の条件を満たしたものは次の学級に進級させ、一定の条件を満たしていない者は、再学習をさせる。
この様な仕組みが学級制度であり、この根本にある思想は、近代工業生産の手段である大量生産、流れ作業、標準化の思想である。
こういう状況というのは、きわめて特殊で、異常である。
困るのは、特殊で異常な状況が、普通で正常な状態だと思い込んでいるのである。特に、学級制度と試験制度が合体してそれが一般社会の常識にまで浸透している事である。
学校、学級というのは、特殊で異常な環境にある。まず、それを前提として認識しておく必要がある。
日本人は、平等という事を観念としてとらえている。つまり、天は、人の上に人を作らず。人の下に人を作らずといった観念である。
故に、平等を教条的な観念として理解している。問題なのは、その教条的な平等という観念を現実の世界へそのまま適合しようとしている事である。
日本以外の国では、差別というのは現実である。現実の差別と闘う事で平等という概念を戦いとってきた。だから、自由だって平等だって血生臭い思想である。自由か然らずんば死か。そう叫んで獲得してきたのである。自由も平等も革命思想であり。現在もそれは変わらない。
日本人には、その系譜がない。戦争に負けてある日突然、今日から、皆、平等だと言われ。平等という事をあたかも日本以外では実現している、平等は、普遍的真理であり、現実なのだと錯覚している。それは自由や平等もあたかも自然法則と同じ真理であり、絶対的な法則なのだと思い込まされてしまった。
そして、そのまま学校へ持ち込んで、学級制度の中に取り込んだのである。
だから、トランプ大統領の出現やイスラム国の主張が理解できない。
自由化や民主化は、自然の摂理であり、無為自然に振舞えば、当たり前に成立する。要するに、自然になる事なのである。共産主義者に言わせれば唯物史観に基づいて共産主義国になるのは必然なのである。
しかし、物事はそれほど単純ではない。自然の摂理によって民主主義実現するなんて思っているのは無政府主義者か、ある種の信徒である。
人は皆違うし、日本の外の世界では差別は現実なのである。
そういう前提に基づいて日本国憲法を見る必要がある。
日本国憲法の前文は理想主義だという識者がいる。しかし、あの前文をよくよく読んでみると、日本人以外は、人道主義的で、平和主義的で、理性的、理知的で賢い。日本人は野蛮なのだから、日本以外の国を信じて武装を解除すれば万事丸く収まると言われているような事である。
そして、現代の日本の自由は単なる家畜の自由に過ぎないのである。
学級という柵の中で飼育された家畜みたいなものである。

教科書に書いてあるから正しいとは限らない。

私が子供の頃は、まだ、軍人上がり、軍隊経験者が沢山いた。そういった人間の中には、鉄拳制裁とか、シゴキとか、暴力的で、理不尽な指導方法をとる者もいた。しかし、それは、規律を否定する理由や言い訳にはならない。
組織は、規律によって守られている。規律がなければ、指導者、責任者は私的な力によって自分の立場を守らなければならなくなる。
規律の乱れは、リンチや私的制裁の一番の原因なのである。

組織が規律を保てなくなれば、責任者や指導者は、虚勢を張らざるを得なくなる。
我々は、責任者、指導者に聖人君主であることを求めているのではない。神のごとく全知全能であることを求めているのではない。
責任者、指導者も人の子である。長所欠点があるのが当たり前である。それが許せる範囲かどうかの問題である。
正しい決断ができる事を求めているのである。指導者や責任者は厳しい緊張感の中に常にいるのである。その点を考慮しなければいい指導者は現れない。

人は、違うのである。年齢によっても違うし、体格も違う。性格も違えば、考え方も違う。能力にも差があるし、実績、経験、技術や知識も違う。男と女は違う。立場も違えは、やり方も違う。言葉だって違う。信じる事も違う。
それを何もかも同じだとしたら平等なんて成り立たない。
その差、違いを前提として平等は成り立っている。
前提が違うのである。

立場の違いによって権限にも違いが生じる。

権力がなければ社会は成り立たない。権限が明確でなければ責任はとれない。
規律や秩序を否定するのは、世の中を混乱させ、革命的状況を醸成しようとしている勢力で、その証拠に、彼等は、自分たちが権力を掌握したら真っ先に手を付けるのは、粛清であり、組織の引き締め統制である。
彼等は規律と秩序の重要性を熟知しているのである。
国としての規律や秩序を失い、独立が保てなくなったら、どうなるか、それはイラクやシリア、アフガニスタンの現状を見ればわかる。

我々は、見落としてはならないのは、戦争の惨禍は、戦争当事国だけが受けるのではなく。戦場となった国も被る。むしろ、一番悲惨なのは、戦場となった国々なのである。そして、独立を保てなくなり、自分の手で自分の国を守れなくなるというのは、自国を戦場と化すことを意味するのだという事を忘れてはならない。
言論界を牛耳る者の何人かは、自国が侵略された時、自分の妻子を捨てて逃げると公言してはばからないのである。彼らの意見が我が国を代表する考え方だというのなら、どうやって我が国の独立や国民の権利財産を守る事ができるというのだろうか。



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