教育の理想を求めて

決めるという事


決めるという言葉の意味が解っていない。
決めるという事は行為の一つである。
我々の世代は、遊びは一人ではできなかった。広場だの公園だのに子供たちが集まって、まず何をするかを決めた。言い出しっぺがいて何ごっこする者この指とまれと、仲間を募ったり、誰かが声をかけて何をするかを決めた。次、鬼ごっこならば誰が鬼になるか、またどんなルールにするかを決める。こういった集団行動をそれこそ学校に入る前から遊びの中で身につけてきた。
今の子はテレビゲーム等があるから、一人で遊べるのである。
集団の中でも一人で遊べる。我々の子供の頃はその場に仲間に入らない子がいたら排除された。子供の世界にも暗黙の掟が存在したのである。今は、それを一括りにして虐めとして片づけてしまっている。

決めるという事は行為の一つである。
決めるという事は観念ではない。行いである。しかし、決断そのものが目に見える行為ではない。意識上の行いである。だから目に見える形にする必要がある。
特に、組織的に決めるという事は目に見える形にしない限り、組織は認知できずいくら決めたと言っても組織的な動きにはならない。
第一に、組織は、自分一人では決められない仕組みになっているのである。

組織においては、一人で、一度に、一か所で決めるという事はできない。
一人では決めた事にならない。
組織は、一人で決められないようにできている。

決める為には準備が必要。
決めた後には後処理がある。
決める為には、段階がある。
決める為には、段取りがある。
決める為には、手順、順番がある。
決める行為には階層がある。
決める為には手続きがある。

組織的な意思決定を体系化したものが事務であり、手続きであり規則である。

組織的決定は、一度にはできない。
手順手続きに従って段階的、かつ階層的に決定されていくのである。
いきなり王手をしても詰まないのである。

いくら合意に達したからと言って正式な手続きを踏まない限り、組織は決定として認識しない。合意に達した事をそのままに放置すれば、組織は、決定したのか、決定していないのかがあいまいな状態に置かれることになる。
また、合意事項は、すぐに乱れ、勝手な解釈を生み出す原因ともなる。
決定事項、正式な手続きによって凍結しておくべきなのである。

誰が決めるか。
いつ決めるか。
どこで決めるか。
何を決めるか。
決めた後に何をするかをあらかじめ決めておく必要がある。
決められているか。
決めてあるか。

まず何を決めなければならないのか。

方針を決める。
当座の目標を決める。
目標に基づいてザックリとした大枠を決める。
原則を決める。
当座何をするかを決める。

何をやるを決める。
何を決めるかを決める。
誰が何を決めるかを決める。
誰が責任を持つかを決める。
役割を決める。
誰がやるかを決める。
何を、いつまでにやるか決める。

一口に決めると言っても決める事は沢山ある。
一つの仕事は、決断の塊だと言っていい。
始めは、決断しなければならない事が整理もつかないままに、乱雑にある。
それは、乱雑にいろいろなものが乱雑に散らばった部屋のようなものである。
部屋を片付ける場合、予め、収納する場所や収納するための道具や棚、物を用意しておく必要がある。
仕事も同じである。
決断すべき事を用途、目的、大きさなどに分類し、収納する物や場所を用意しておかないと体系的に片付ける事ができない。
それが計画であり、計画を具現化した計画書のような書類である。

決めると言っても何を決めるのか、それを正しく理解しておかなければならない。
よくある錯覚は、決めるべき事の本質を理解していない事である。
例えば野球のマネージャーは、野球ができるようにする事が仕事なのであって、野球をする事で守備位置とか、配給とか、打順とかを決める事はできない。
同様に、会議の事務局は、会議を開けるように準備するのが仕事であって、会議でどのような発言をするか、会議をどのように進行するかを決める事はできない。

有能だけれど他人の意見を聞かない者と、無能だけど他人の意見に耳を傾ける者がいたら、圧倒的に後者の方が指導者に向いている。
逆に前者は、有能であればあるほど、指導者には不適格である。

指導者は、人の長所を見抜いて適材適所に配置する事が仕事なのである。
ピッチャーをキャッチャーとして使ってはならないし、キャッチャーをピッチャーとして使ってはならない。勝ちたいと思うならいくらピッチャーをやりたいという者がいても、そのものがピッチャーに不向きなら、ピッチャーに起用してはならない。何を優先すべきか、その人の持つ能力と実力を優先すべきなのである。情実で采配したら、チームは崩壊してしまう。
組織を納得させられるのは、動機と結果の整合性にしかない。

組織は、一人ひとりの人間の限界を前提として成り立っている仕組みなのである。

他人の力を認める事の出来ない者は、自分以上の仕事を組織にさせる事はできない。

自分の事を相手は嫌っているのだという理由で相手の意見を聞かなくなる。
それは、自分が他人より劣っていることはないと思いたい劣等感のなせる仕業である。

組織では補佐する者の役割も重要である。
指導者に何かを決定してほしければ、指導者が決定できるように準備するのは、補佐役の仕事である。

補佐役を誰にするかは、指導者が最初にやる仕事であり、最終的に仕事の正否を決める事でもある。
よく裸の王様と揶揄される指導者を見受ける。それは、王様の責任だけではなく。補佐する者の責任でもある。

裸の王様になるのは、イエスマンをばかりを集めるからとは限らない。指導者を補佐する役の物が、有能な人間を排除する事に依って結果的に指導者が孤立してしまう場合がある。






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