教育の理想を求めて

自分の形を作れ


学生時代、よく自分の形を作れと指導された。
仕事を始めても、仕事の形を作れ。
また、仕事を進めていくうえで、形を作れ。
最終的には、どういう形にするか考えろとよく指導された。

我々は、仕事というのは、形で覚えるものだと躾けられてきた。
しかし、団塊の世代は、このような考え方を形式的だと、意味もなく否定してしまった。
そのために、我々以後の世代は、形式を嫌い、頭から否定してしまうようになってしまった。
形式は旧套墨守とか、封建的だとか、因循姑息、頑迷固陋だとか言われて頭から否定された。
しかし、形式は、古い事ばかりではない。
仕事には、始まりの形がある。終わりの形がある。
一日の生活にも形がある。
朝起きた時の形、出掛けの形、食事の形、帰宅の形、寝る時の形。
車に乗る時の形、家を出る時の形、掃除の形、炊事の形。
形はどこにでもあるし、何も、決まった形があるとは限らない。
ただ、自分なりの形を作っておかないと、生活や仕事のリズムが崩れたり、無理、無駄、ムラ、偏りが生じて、見落としや忘れ物をしやすくなる。

形がないと確認がとりにくくなったり、取れなくなったりする。
車を運転する時、家を出る時、形があると何かを忘れたり、見落としたりした場合、感覚的に気が付く。し忘れたことがあると何か腑に落ちなくなるからである。

だから、自分の形を作る事で、漏れや見落としがないよう体に覚えさせるようにしろと指導された。

また、仕事には、指示の出し方の形、指示の受け方の形、報告の出し方、受け方、会議の仕方、会議の形、連絡の仕方、連絡の受け方、連絡の伝え方、話の決め方、始末のつけ方、組織の形、打ち合わせの形、叱り方の形、指導の形、褒賞、罰則の形、辞令・任命の形、式典の形、整理整頓の形等、数々の形がある。
計画も形があり、予算にも形があり、予定にも形がある。

形には、不易、変易、簡易がある。

要するに反復し、繰り返すような作業や仕事を洗練し、定型化したものが形であり、それを普遍化した事が作法である。

よく話が煮詰まってきたら形を考えろと言われた。
締めの形が決まらないと仕事にけじめがなくなるのである。
また、仕事に係るもの全体に共通の認識を持たせることができなくなる。

仕事には、きれいな形、汚い形があり、それが全員の士気やモラルに微妙な影響を与える。

仕事の多くの部分は、反復繰り返す事である。変化する部分というのは限られている。
変化する部分に仕事を合わせれば、仕事の安定性が損なわれる。
形が定まっていなければ、その都度、仕事のやり方、組織の在り方を決めなければならなくなる。
それでは、仕事に偏りやムラが生じる。
思い付きや気まぐれに仕事が振られる事にもなる。

また、形は、個人の嗜好や思想が大きく影響する。
だからこそ、ある程度決まった形を自分なりに作ることが求められるのである。

形が古いとか、新しいからと言って物事の本質にかかわるとは限らない。
事の正否善悪に、新旧老若別はない。
ただ形式が本来の目的や働きを失うと形式だけの働きが残る。形式そのものにも力があるために、その場合は形式主義の弊害が生じるのである。

形には、力がある。
だから形骸化した形は、毒をもつのである。

形骸化した業務は速やかに、解消する必要がある。
しかし、それは形が悪いのではなく、形を形骸化する事が悪いのである。



基本は形にある。
形を重じる。
形に学び、形を学び、形で学ぶ。
形について
形式主義
民主主義という仕組み

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