教育の理想を求めて

落とし処


我々は、打ち合わせや会議をするときは落とし処を考えておけよ。用意しておけよと言われたものである。

今は、落とし処なんて構わない。構わないどころか死語にすらなりつつある。
だから、落とし処が見つからずに会議も打ち合わせも漂流する。
漂い続けるだけで最後には遭難してしまう。

落とし処を作るとか、準備するとか、用意するというのは一つの形である。
落とし処というのは、打ち合わせや会議のゴールである。
落とし処というのは明確な決まりがあるわけではない。
ただ、参加者が皆合点がいって納得できる結論のようなものである。
つまり、打ち合わせや会議の目標のような事である。

落とし処というのは実務に直結しているところである。仕事への落とし処である。実務に直結していなければ、仕事には落ちていかない。

打ち合わせや会議でもうこれ以上話しても、打ち合わせても先へ行かないという点がある。
ある意味で、必要な話や準備してことを言いつくしているのである。
それ以上話しても結論が出ないとか、意味がない、煮詰まってしまい、堂々巡りし、だんだんイライラして感情的になり始める。

そういう状態に陥る事をあらかじめ想定し、そうならないうちに一定の結論に落とし込む、それが落とし処である。そして、そこから、いつ、どこで、誰が、どの様に決めるのかを詰めたうえで、次につなげる。それが一つの形なのである。次を定め、足元に落として足元を固める。相する事でけじめをつけるのである。
落とすというのは、仕事へ落とす事である。

例えば一任を取り付けるのも落とし処である。

基本的には、次回を定める。そのうえで、次回までにやってくることを決める。
落とし処は具体的要件である。
曖昧で抽象的なところに落としたら次にまでやってくることが不明確になるから、後の段取りも仕事も決められなくなる。即何もできなくなる。何もできないままに当日に向かい、直前でお茶を濁す事になる。結局焦点もずれるし、作業の継続性も途切れる事になる。

仕事には流れがあり、前後左右がある。その仕事の流れ、延長線上に落とし処はある。
よくあるのは、結論があいまいなまま、結論を出さずに散会してしまいその後何をしていいのかわからなくなるという事態である。

道筋は自分たちでつけなければならない。
学校のお勉強のように、先生に決められた道筋を辿っていけば、自然とある程度のところまで行けるというようなものではない。

落とし処というのは、妥協点であり、決着点であり、目安である。
今日はこの程度の話にしておくとか、最後の結論まで行くとかいう目安である。

その日の打ち合わせでどの程度の話をするのか、結論を出すのか、誰に決めさせるのか、そういった目安である。

話の持っていき処。自分が何をしたいのか。何をさせたいのか。その構想がなければ、打ち合わせなんて時間の無駄である。会議は話し合いではない。ただ話せばいいという訳ではない。

例えば、資料はあるのか。準備を終わっているのか。現在自分たちの置かれている位置はどこか。どこに向かおうとしているのか。結論を出せる状態か。結論が出せない状態に落ちいたらどこに落とせばいいのか。今日は話を聞くだけなのか。それとも、何らかの結論を出さなければならないのか。あと何回ぐらい打ち合わせの時間が持てるのか。勝負時か。まだ勝負に出るには早いのか。
落とし処とは、そういった勘も必要である。

会議も打ち合わせも合目的な事である。
会議も打ち合わせもチームワークである。
参加者全員に何らかの役割がある。
その点を理解しておかないと打ち合わせや会議は落とし処を見失う。





                content         

ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2016.6.22 Keiichirou Koyano
教   育