教育の理想を求めて


差をつける事


平等だ、人は皆同じだなんて口では言っても、学校は、やれ偏差値だ、合格率だと生徒に差をつける事に汲々としている。
結局差はなくならないし、すべての人間を同等に扱う方が逆差別というか、差別的に思える。
皆、人それぞれ差がある事は、認めている。
むしろ差があるからこそやる気も出る。
力がある人間も、やる気がある人間も、同じに扱ったら、力がある奴、やる気がある奴から潰れていってしまう。

差をつける事、それは重要な事である。それ故に、合理的な理由をつける必要がある。不条理な理由で差がつけられたらたまらない。

昔、芸術大学で実技試験で抜群の成績なのに、英語や数学が合格点に達しないために、何年も落第し続けた人がいるという。
こんなのは理不尽な差別である。

教授陣は、何としても合格させたかったそうだが、結局、あきらめざるをえなかったという。

何を学ばせたいのか、どんな才能を求めているのか、教える側の人間が選択する事さえ許されない。
学校の成績というのは、本質的な意義を失っている。
学校の成績が試験の結果のみを根拠としているからである。
試験の結果が、何を代表しているのかが明らかにされていない。
試験が何の目的で何を評価しようとしているかが、明確でないからである。

まず試験の目的が選別という以外判然としていない。
成績は、試験を解く能力しか判定できない。
生徒の性格とか、価値観とか、人間性とか、勉強の目的、生き方等は試験の結果からはわからないのである。
医者を志す者が、難病で苦しんでいる人を救いたいという動機なのか、単に金儲けなのか、自尊心を満足させるためなのか、親を安心させるためなのかは、試験の結果から判断する事はできない。

生徒の何をどのように評価するのかが明らかにされていないからである。
試験に合格したければ何も考えずに勉強に打ち込んだ方がいいだろう。
しかし、それでは、純粋に医学を志している者は救えない。
人の意思や思想、志なんてどうでもいいのである。どうでもいいからどうでもいい事になる。
だから、学問において理想だの意欲だの何の価値も持たなくなってしまうのである。

試験の結果だけで人に差をつけるのは理不尽である。
その理不尽であることがまかり通る世の中なのである。

結局のところ差をつけること自体が悪いと決めつけるわけにはいかない。
しかし、極端な格差は、人権を否定する事にもつながる。また、経済的に見てもお金の流通の阻害要因となる。
極端な格差は、お金の所在に偏りを生み、一方において余剰な資金を抱える層と一方において生きる事さえ難しいくらいの貧困層を生み出す。
この様な極端な格差、人と人との間に超えられる壁を作るような格差は否定されるべきなのである。

問題なのは、理不尽な差別と極端な格差である。

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