教育の理想を求めて

リーダーシップ



今の日本に求められているのは、優れた指導者、リーダーである。
然るに、現代の教育には、優れた指導者を育成しようとする気がない。
だから、優れた指導者が現れないのである。

リーダーとは何か。

リーダーは集団を組織化し統率するのが勤めである。

リーダーの役割というのは、決断にある。そして、決断したことに対して全責任を負うと言う事である。
この点が肝心なのである。

そして、決断したこと外に表す必要がある。それが指示・命令である。
決断は、指示・命令として現されることで効力を発揮する。
翻って言うと明確な指示・命令を出さないリーダーは無責任だと言う事になる。
つまり、指示・命令に従わないで実行されたことの結果に対して行動した者が責任を持たなければならないからである。つまり、指示・命令を出さないことは、受令者に全ての責任を負わせているのに等しいからである。
それでは組織は成り立たない。
指揮を執らない、すなわち、指示・命令を出さない指揮者は、成功したことは自分の手柄とし、失敗したら部下の責任だと言っているようなことである。
だからこそ、不決断は、最大の誤判断なのである。
リーダーは、例え、間違う可能性があったとしても決断をして、指示を出さなければその責任を果たせない。

だから、リーダーには覚悟が必要なのである。

戦後の日本の教育では、リーダーは必要でない。或いは、リーダーのための教育というのは為されてこなかった。
現代の日本では、メンバーシップばかりが尊まれ。リーダーシップは疎まれているように思われる。要するに、リーダーは不必要だとするのである。

決断し、結果に対して責任を負うという姿勢は、戦後の教育では、甚だ疎ましいのである。
なるべきならば決断もせず。上下関係も認めず。能力差や個性もない方が言い。それが平等だというのが建前である。
太平洋戦争で、軍国主義的教育をした、そういう過去を抹殺すべく、武士道精神をこの国から抹殺することに汲々としてきた。
だから、戦後の日本には、リーダーは不用だというのである。

しかし、リーダーの本質は自治の精神にある。

人間は、社会的動物であり、社会には組織が必要であり、組織はリーダーによって維持されるのである。リーダーがいなければ、社会の規律は維持できなくなり、無法な状態になる。無法な状態は、弱者は常に迫害を受ける状態である。人は一人ではいきられないのである。
人は、無防備な状態で生まれ、自力では生存することできない。そして、経済的に自立できるようになるまでには長期間かかる。また、経済的に自立すると言っても分業化が進んだ現代では、他者と共同しなければ生活を維持することはできない仕組みになっている。又、年老いれば他人の力を借りないと生きていけない。つまり、人間は社会的動物なのである。
自分は誰の世話にもならず、迷惑を掛けていないという者の言い分は、勝手な思い込みに過ぎない。そういう人間が、リーダー不要論を言うのであり、意識的に言う者は革命的状態を惹起しようとして言うのであり、意識しないで言う者は彼等に踊らされているだけである。この様な思想は無政府主義に依拠しているが革命勢力の一部も革命的状況にするために、戦略的に用いる場合もある。

反権威、反権力主義者は、戦後、言論界や教育界、放送界を席巻し、学校の内と外からリーダー教育は不要、あるいは、不可能であると活動してきた。そして、彼等が教育界の主流を占めたために、リーダーシップ教育が軽視されてきたのである。
しかし、リーダーシップは、教育しなければ育まれない。リーダーシップこそ教育によって育まれるのである。
リーダー不用とする者の一部は、社会を無法状態に陥れ、革命的状態にすることを目的としているという事を忘れてはならない。

リーダーは、集団を組織化し、統率するのが勤めである。
集団を組織化し統率するためには、技術が必要である。

世の中には、リーダーシップ論というのは数多くある。
逆に、リーダーシップは教えられないという人もいる。
リーダーシップ論の多くがどちらかというと精神論的なものである。

しかし、リーダーに求められるのは、精神だけではない。

組織には規律と統制が求められるのである。
規律と統制を守るためには、権威と象徴が不可欠である。
そして、その権威と象徴を操る手段が重要となるのである。

組織は権力機構である。
どんな小さな組織にも権力は生じる。

リーダーシップには、技術的な側面もある。
早い話、組織運用術、指示・命令の出し方等である。
その他には、報告のさせ方。決定の仕方。手続き。会議の招集の仕方、教育。演説の仕方。士気高揚策。賞罰の仕方。統制の取り方等である。儀式典礼の取り方。
リーダーは、組織を動かす術の多くを学ばなければならない。
かつては、先輩から後輩へと人間関係の中で徒弟制度的に伝えてきた。

しかし、現在は、徒弟制的な指導も封建的と否定されている。
指導者そのものに否定的なのである。

組織は、仕組みである。組織は、飛行機や自動車と同様、仕組みである。

自動車の運転は、実際に自動車を運転をしない限り習得することはできない。
免許を持っているからと言って自動車の運転ができるとは限らない。
組織も同じである。組織も実際に組織を動かさないと組織の運用は覚えられない。
組織運用の訓練は、小集団、非公式、遊びから始め、徐々に大きな組織、非公式、実践へと置き換えることでリーダーとしての基礎素養を身につかせる。
なぜなら、日々の細かい判断は経験を積み事でしか覚えられないからである。
組織を実際に動かしているのは、日常的な細かい決断である。そして、部分部分の決定事項が連鎖して組織全体を機能させている。一カ所の部分でも間違った判断をするとその影響は全体に及ぶのである。個々の部分の間違いを是正し、全体の動きを統制するのがリーダーが果たすべき最大の役割なのである。

全体を統制するためには規律が必要である。規律を保つのもリーダーの職務である。
現代の学校は、全体主義とか、軍国主義と言ってこの規律を嫌う。
だから、学級の規律が失われる。
規律が失われれば、集団を維持することが不可能となる。それが学級崩壊である。
規律が失われたら暴力的に集団を維持しようとすることになる。
暴力的に規律が作られるのではなく。規律がなくなるから暴力が横行するのである。
過激な思想の持ち主は、革命的な状態を作り出そうとして規律を破壊する。それが革命思想である。
革命思想を根底に抱いている勢力は、学校から規律をなくそうとする。
規律を失わせようとする勢力は、まず、礼節を攻撃する。

リーダーがリーダーとしての役割を果たそうとしたら、組織を統制するための技術を習得する必要がある。

リーダーが心得ていなければならないのは、決め方と指示・命令の出し方、そして、責任の取り方である。

指導者は、常日頃から、指導育成していないと現れない。
なぜなら、平素の心構えがあって有事の際に活躍できるからである。
付け焼き刃でリーダーになれる者ではない。

リーダーに求められるのは、覚悟であり、強い責任感である。

決断をするための心構えや決断にまつわる技術、決断をする時の基準も重要である。
そして、それはある程度は理論化し、学習することも可能である。

リーダーに求められる心構えは、強い使命感と責任感である。

座学と伴にスポーツが教育に必要とされるのは、決断力は、座学では学べないからである。座学とスポーツを両立するそれが文武両道である。

そして指導者は、文武両道が求められる。
しかし、日本の教育は、武を捨てた。
武は、暴力ではない。武の本質は、自制心である。
だからこそ、リーダーには、武が求められるのである。

武士道と剣道は同じだと勘違いしている人もいる。武士道と武道、剣道とは違う。
武士道の根本は指導であり、武道、剣道は、武士道を学ぶための手段である。
武道、剣道を学ばない者は武士道を語れないと言う事はない。
ただ戦後の教育は、武道を否定し、武士道も否定した。
それ故に、優れた指導者が戦後生まれの世代から現れないのである。

リーダーにとって最終的に求められるのは、独立心、主体である。つまり、自分である。
リーダーには、強い自尊心とリーダーたらんとする気概がなければならないからである。
なぜなら、決断は、独断だからである。リーダーは孤高に耐え、全ての責任を自分が負う覚悟で一人で決めなければならない。

全体は、リーダーの指示の下に動く。

仲間はリーダーの為に働くのである。

リーダーの決断一つで全体は、危機に陥ることも、危機を脱することもできる。
故に、リーダーの責任は重大なのである。
危機に際しては、拙速であろうと迅速に行動する必要がある。
故に、リーダーは、不用意に自分の身を危険にそらしてはならないが、常に、危機を肌に感じる場所に身を置かなければならない。
リーダーが鈍感だと常に全体が危機に曝される事になるからである。

危機に際しては、リーダーは全員に自分の姿を見せる必要がある。

危機に際して、メンバーは、リーダを仰ぐ。
決断の時、リーダーはただ一人になる。
リーダーに求められるのは決断力である。
危急存亡の秋、リーダーは一人で決めなければならない。

リーダーに求められるのは、平常心である。
何時どの様な状況に置かれても平静、平常な心持ちで決断せよと言う事である。
逆に言えば平静から常に危機や危急存亡の秋と同じ心持ちでいよと言う事でもある。
昔の武士は、常に清潔な褌を締めていたと言われる。突然、生涯を終える時が来ようとも見苦しいところを見せないような心構えなのである。それがリーダーのリーダーたる矜恃である。
又、明鏡止水とも言う。常に磨き抜かれた鏡の表のごとく、静止した水のごとく澄み透った穏やかな気持ちでいろと言う事である。

この様な指導者の心構えは、事上の錬磨、すなわち、平素日常の中で鍛えるものなのである。特別、なにか非日常的なところで鍛えたところでいざという時に決断できないようでは意味がないからである。




決断
決断力を養うと言う事
決断を学ぶ
決められないという病
やらない理由、できない原因
組織的意志決定
やる気


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