教育の理想を求めて

差があるのは当たり前


差があるのは、当たり前である。
違いがあるのもあたり前。

スポーツ選手でプロとアマで差があるのは当たり前だし、違いがあるのも当たり前。
誰も、その差や違いを認めないというのでもないし、待遇処遇に差がある。違いがあるの差があるのは、認めているのである。ただ、それによって極端な収入の差が生じた場合は、話は別である。差が悪いと言っても能力の差が悪いなんていっているわけではない。収入に極端な差をつけるのは問題だといっているのである。

男と女に差があるのは当たり前だし、違いがあるのも当たり前。
男と女が同じだなんて考えている人間がいたらそれは異常である。
場合によっては変態である。
男と女は違う。それを前提として差別をなくしていかなければならない。
子供を産むという事は少なくとも男にはできない。

優等生と劣等生にも違いがあるし、差もある。だからどうだというのだ。
ただ、偏差値を絶対視して直列的に人を並べるからおかしいのである。
学校の成績が悪くても絵や音楽に秀でている者は沢山いる。
スーポツが得意な者もいる。ガキ大将もいる。
成績で全人格を評価しようとするからおかしくなるのである。

差があるから悪いのではない。差があるから不平等なのだというのは飛躍である。
差があるから平等だともいえる。

強いて言えば、平等というのは、神の前の平等でしかない。人は神の前では一個の人間として平等なのである。
神の前の平等とは、死の前に平等という意味でもある。

指導者は、他の人間と違うのも当然である。差があるのも当然である。
何でもかんでも平等だとして指導者を認めないのは、平等の意味をはき違えているのに過ぎない。
指導者は指導者である。組織に一人しかいないとしてもおかしくない。ごく少数の人間によって組織が統制されているからと言ってそれ自体で独裁だとか、全体主義というのはおかしい。
平等だと言って全体主義や独裁者になった者もいる。
全体主義か、独裁主義かは、仕組みを見れば解る。

ごく少数の人間が中枢を担う事で組織が動いているのは、事実であり、その事実を前提とするから民主主義は成り立っているのである。

差や違いがあるのは当たり前。
差や違いがあるのは解っているし、そのことで差や違いがつくのも仕方がないけれど、それが途方もない差であったり、差や違いによって差別されたり、また、それぞれの差や違いが生かせなくなるのが問題なのだ。
適材適所。それぞれの差や違いを生かせるような仕組みを作る事が大切なのである。




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