なぜ勉強をする必要があるの


なぜ、勉強をする必要があるの




僕は、教育の本質は、あなたもあなたの子供も幸せにする事だと思います。
ただ、学校教育を批判しても幸せになれるわけではありません。
教育で、一番、大切なのは、幸せに生きていく為には何が必要なのかを教え導くことです

私は、学園紛争世代です。
我々の仲間は、反戦、反体制、反権威を標榜して、学校の変革をしていたつもりなんです。
でも、当時から僕は、団塊の世代や闘争派に対して疑問を投げかけてきました。
我々の世代の多くは、学校や親の世代を批判し破壊しただけで、次の世代の人達に何も創造的なことを残せなかったし、
未だに、自分達の責務を果たそうとしていない。

大切なことは、あなたやあなたの子供が幸せになるためには、何を学ぶべきかなのです。
一つは、人として如何に生きるかという事だと思います。
何が生きていく為に、また、幸せになるために、必要なのか。大切なのか。
生き甲斐とは何かです。
次に、生きていく為に、また、幸せになるために、難しく言えば自己実現をするために

どの様な仕事をすべきなのか。どの様に生計を立てていくかです。
お金は大切です。しかし、金儲けのために生きているわけではありません。
お金儲けは手段です。しかし、生きていく為に、必要な手段です。
根本は、自分が、どんな生き方をしたいかです。
この事を学校ではチャンと教えてくれない。

学校は変なところです。
世の中に出て必要なことを身につけさせると言いながら、
実際に教えていることは、世の中に出て役に立たないことばかりです。
つまり、肝心なことは何一つ教えてくれないんですね。
お金儲けを馬鹿にしながら、経済的に自立しろと教えている。
それでは、社会人として自立した人を育てられません。

例えば、年金や保険の見方とか、カタログの読み方、
人とのつきあい方、悪いセールスマンの見分け方、
どうしたら、地道に生きていけるかなんて教えてくれません。

大切なのは、自分がどんな生き方をしたいかです。
職人になったって良いし、農業をやっても良い。
要はチャンと経済的に自立することを学ばせることなんです。
そういう人としての生き方なんて教えてくれません。

経済的に自立していれば、変なところで世の中に迎合する必要がありません。
そのためには、何らかの形で修業をすることです。
手に職を付けておけばいざというときに困りません。
商売の仕方が解れば、どんな苦境に立ったって困りません。
良い学校を出たところで、
何らかの組織に帰属していかなければ生きていけないのならば、
本当の自由は手に入れられません。

職人や農業を現代人は馬鹿にしますが、彼等こそ創造的な仕事をしているのです。
大体、サラリーマンというのは常に定年を意識して生きていかなければならないのです。
定年によってリセットされてしまう人生なんてつまらないじゃあないですか。

最近、アパートマンション経営の勉強をしていますが、
賃貸アパートマンション経営は、十万、二十万という単位から経営できるのです。
ただ、そのためには、本当に勉強をしなければなりません。
でもそういう事こそ本当に勉強しなければならないことだと思います。

自分が生きていく為に必要な事や役に立つことを学んでいる人達は、猛烈に、そして、夢中で、生き生きと嬉々として学んでいるのです。学んでいることが自分にも他の人にも役立っていることを自覚しているからです。

人生いかに生きるか、そして、どうしたら幸せになれるか。
それこそを学ぶべき何です。
そうしたら、不真面目な生き方なんてできなくなりますよ。
一時の快楽のために、自分の一番大切なものを捨ててしまうような生き方なんてできなくなりますよ。

金持ちになる事が幸せなんでしょうか。
それとも一生定職に就かず、アルバイトみたいな仕事をして終わってもいいのでしょうか。
じゃあ定年までサラリーマンとなって勤め上げれば報われるでしょうか。
でも、人生を決定する重要な時期というのは、結構、早く来て、短いんですよね。
その時、本当に自分の生き方を考える機会を与えてあげないと。
なぜ、いじめに遭った時、それを自分の手で解決できずに、自殺していく子がいるのでしょう。
それは学校という狭い社会でしか生きられないように錯覚させているからだと思うのです。
幸せは、自分の力で勝ち取ることだと私は思います。
そのためには、自分の力や未来を信じられるような環境を子供達のために作ってあげるのが、
我々、大人の使命だと私は思うのです。

生きる事を学ぶべきなのだと思います。
生きる事を教えるべきなのです。
以前は、親から子へ生きる事を教えてきた。
養老孟司が「馬鹿の壁」の中で大学に行ったら馬鹿になるよと言われたと書いています。
昔はそうでした。
学ぶというのは、生きる為に役に立つこと、必要なことだと皆知っていたのです。
だから目的もなく大学に行くことは、無駄なことだと思われていたのです。

美術系の大学だって技術は教えられても美術は教えられません。
絵を上手に描くことを教えることはできても何をどの様に描くかは教えられない。
それが芸術です。

一緒に生きる事を子供と学べば良いのです。
そして自分も生きる事を学べば良いのです。
僕は、学問と遊びとを一緒にするのは、学問は世の中の役に立たないことと刷り込まれているからだと思います。
一緒に生きる。
一緒に働くことを学べば良いのです。

料理一つとっても自分達が食べたい物を子供と一緒になって調理して食べる。

だから、家族で生活の話をしていました。
ご飯の作り方とか、掃除の仕方、それから家族としての作法とか礼儀。
それも生きる為の作法や礼儀ですね。
仕事だって親から子へと教え継がれてきた。
家を建て替える時は、親だけで決めるのではなく、家族会議を開いて決めるべきですし、
そしてそのときは、皆して建築の勉強をすべきなのです。
仕事の話だって家族皆で話してきた。
家の手伝いも子供達はしていた。
むろん、封建的でしたけれど(それは僕は改めるべきとは思います)、
たけど、子供だって、皆、家族の一員だったのです。
今は家族バラバラです。
親が失業して家計が大変でも、子供には関係ない。
だから、家族が一致団結して家族を守るという事はなくなりました。
家族の誰かが困っていたら皆で助け合うなんて事はなくなりつつあります。

英語を学ぶという事は、本来、胸をときめかす事です。
英語を学べば、何処の国へも行ける。外国に友人ができる。何よりも、多くの海外の人と交流する事ができるようになり、自分の世界が広がる。
ところが、学校で英語を学ぶと、多くの人は、失望し、やがて絶望し、その上で、英語に対する劣等感を植え付けてしまう。そして、外国人を敬遠するようになる。
最近、コンビニに多くの外国人を見受けるようになりました。彼等の多くは若くて正規の日本語教育を受けてきたようには見えません。それなのに、流暢な日本語を使って日本人でも難しい接客をしています。
それにたいして日本人は何年英語の教育を受けますか。
日本人は劣等民族なんですか。
違います。英語を学ぶ真の目的を見失っているからです。
だから学ぶ喜びを得られないのです。

今の教育は、愛を教える前に性を教えてしまう。
だから家族が崩壊してしまう。
生きるという事は、人を愛することです。
快楽を得ることではありません。
キリストだって人はパンのみのために生きているわけではないと言っているです。
一緒に働き、一緒に生きていくことを教えれば良いのです。
それは生きる喜びであり、また、悲しみでもあります。
共に生き、共に生活していくこと、愛する事を学ぶのです。
お金を儲けることも性も手段です。
生きる目的ではありません。
人を愛すること、人の為に働くこと、それが喜びになった時、
人は幸せになれるのです。
何のために働くのか、誰のために金儲けをするのか。
それを知らなければ、金儲けは金儲けに過ぎず、性は快楽に過ぎません。
働く喜び、生む喜びは、愛するが故です。
それを教えるのが真の教育です。

教育というのは、人生を見つめ直す事だと思うのです。
今の大人達は、自分の都合をただ押しつけているだけの気がします。
子供の方を見ていない。
教育者が生徒と向き合っていないことが問題なのです。

自分が先ず生き生きと生きる事です。



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