E 暗記・暗唱


 暗記、暗唱は、学問にとって障害でしかない。この事実を思いっきり自覚させられたのは、私が、大学に入って、教授に、受験勉強で覚えてきたものを全て忘れなさいと言われたときだ。物理学の方程式は、自分で考案し、導き出すものであり、暗記していては意味がない。自分で導き出すから理解できるのだ。だいたい、物理の法則は、仮説に過ぎない。そんなものを暗記して何になるのか。
 我々が日常会話を交わすのに、国語辞典一冊暗記している者は、ざらにいない。だのに、英語の受験では、英語辞書一冊くらいの単語を暗記させられる。
 小説を一冊暗記させたら、文学の面白さや味など失せてしまう。暗唱には、情緒、情感が入り込む余地がないからだ。歴史の年号に、何の意味があるのだろう。歴史から何を学ぼうとするのか。歴史の年号や人名を暗記する事で勢力を使い果たし、歴史から人生や世の中を知る余力がなくなってしまう。歴史は、面白い。その面白さは、年号の暗記にはない。歴史が味気ないものになり、歴史嫌いを作り出すのが関の山だ。
 暗記・暗唱は、受験の技術に過ぎない。
 覚えない方がいい事だってある。忘れることも大切である。

 科学というのは、相対的であることを前提としている。相対的であるという事は、常に、比較対照していくことである。つまり、科学的教育というのは、比較対照の余地を残した教育と言う事になる。丸暗記を前提とした教育には、この比較対照の余地が残されていない。つまり、教科書が絶対的なのである。だから、丸暗記をさせる事ができる。科学的なことを前提とした教育というなら、現行教育は、最初から、破綻している。
 科学的学習姿勢の基本は、比較対照にある。それも、自己との延長線上で、自己と対象とを比較対照することに意味がある。歴史を例に取ると、自分の生き様と歴史上の人物との生き様とを比較してみる。自分の生きている時代と過去とを比較して、未来を予測する。
 過去をどう見るかによって、歴史の勉強も変わってくる。以前、読んだ本の中に未来は、不確かだ。しかし、過去の方がより不確かだ。なぜなら、未来は、直接確かめることができるが、過去は、直接的に確かめることができないからだというのがあった。確かに、過去は、不確かなものだ。それを絶対的なものとして学校で教えている。だから、歴史の授業は、丸暗記になる。歴史は、見る人によって全く違うものになるというのに。

 歴史から何を学ぶのか。歴史から学ぶのは、年代や人名ではない。歴史観であり、人生いかに生きるべきかである。

 歴史的な出来事を学んで得るものは、十人十色、皆、違う。そのいずれが正しくて、間違っているかの判定はつけにくい。それでは、学校は困る。そこで、歴史教育は、年代や人名を重視することになる。しかし、それは、歴史を学ぶ目的から甚だしく逸脱している。それは、教える側の都合であり、学ぶ側の人間にとっては、意味のないことだ。こんどは、学ぶ側が、なぜ、歴史を学ぶ意義を見失ってしまう。教える側も説明ができない。そこで、妥協が生じる。つまり、試験に受からなければ、いい学校に行けない。いい学校に入れなければ、いい会社に入れない。これは、処世の話であり、あまりに志が低い。結局、学問は、妥協の産物となり、試験を受かるための手段となる。子供がそこから学ぶのは、妥協と処世である。結果、子供たちは、自分の本心を隠して、世におもねり、人を欺くようになる。
 いくら、ゆとり教育といったところで目的を逸脱していたら何もならない。無意味である。理念ばかりが先走り、実態がない。なぜ、何のために、誰のための教育なのか。肝心な教育するための目的、心が見えない。魂のない教育ほど醜悪なものはない。

 ただ、記憶力を競うだけの勉強では意味がない。記憶する事と考える事とは、違うのである。いくら英語の単語を記憶したところで、実際に英語が使えなければ意味がない。車のメカニズムにやたら詳しくても、運転もできなければ、修理もできないと言うのでは、何にもならない。
 歴史の勉強は、歴史的出来事を実際の自分の生き方に生かしてこそ意味がある。年号を暗記させることには、何の意味もない。それで歴史が嫌いになったり、歴史の意味がわからなくなったりしたら逆効果である。

 使っていなければ、記憶は薄れていく。せっかく何日も徹夜して暗記した事でも、使わなければ、一年もたたないうちに忘れていく。また、忘れなければ大変である。辞書を引けば解ることは、記憶する必要はない。必要さえあれば、就学前の幼児でも英語が話せるようになる。必要な事は、記憶するのではなく、覚えるのである。記憶しているだけでは、何の役にも立たない。

 性に対する知識を持つ前に、異性との付き合い方を覚える必要がある。性の知識ばかりが豊富になっるのは、かえって弊害だ。人を愛することを覚えさせないで、なぜ、性の知識ばかりを教え込むのであろう。それは、性犯罪を誘発することである。教育が犯罪を誘発するのであれば、教育そのものが犯罪行為である。人を愛すれば、性の知識は、自ずと身につける。妙に隠す必要もないが、知識ばかりを教え込むのは間違いである。

 暗記や暗唱に頼る教育は、それ自体で、教育者の敗北を意味する。生きていく為に必要な事を必要なときに覚えさせていくのが教育なのである。
 そして、生きていく為に覚えておかなければならないことは沢山ある。
 挨拶の仕方。口のきき方。人との付き合い方。社会の仕組み。礼儀や作法。しきたりや習慣。冠婚葬祭。手紙の書き方。犯罪の手口。世の中に出て注意する事。道徳。こういう事は、学校では教えてくれない。どこへ行っても困らないようになる為に、覚えるのである。
 そして、それらは、記憶するのではなく。現実の生活の中で記憶されていくのである。なぜなら、生きていく為に、必要な事柄だからである。
 少なくとも、覚えておいて欲しい。学校だけが、全てではないという事を・・・。

 丸暗記や暗唱も必要な場合もある。例えば、一つ一つは、意味がないが、いくつかの要素が、何らかの法則によって結びつくと、全体として、重大な意味や働きを持つ体系は、一つの全体として記憶した方がいい。そのうえで、生きていく上に重大な意味を持つもの、実際的な体系は、丸暗記した方がいい。逆に、不必要なことは、丸暗記する必要がないし、かえって邪魔になる。例えば、一連の仕事の段取りや手順、挨拶の仕方や礼儀作法、口上と言ったものである。単語を記憶するのは、意味がないが、センテンスを記憶するのは意味がある。方程式を記憶するのは、意味がないが、論理的展開を記憶するのは意味がある。つまり、一つ一つにさしたる意味がないから、全体として、頭の中に入れておく必要があるからである。しかも、これらの事は、生きていく上で必要なものが多い。このように、構造的なものは、丸暗記した方が効率的である。暗記・暗唱というのが必要なのは、実生活に役立つ事、つまり、実生活や現実という裏付けがある場合、丸暗記したことは、役に立つうえに、定着するのである。

 仕事だの、スポーツだの、機会の操作と言った事は、一々、理屈を考えるよりも覚えた方が良い。暗記や暗唱しておく必要な事も沢山ある。

 だから、暗記や暗唱は、どんな場合も駄目だというのではない。暗記や暗唱には、それなりの意味や働きがある。それは、認める。しかし、教育が、暗記や暗唱に頼るようになったらおしまいだ。暗記や暗唱の本来持つ意味や働きすら失われてしまう。暗記や暗唱に頼らない教育があって、暗記や暗唱も意味を持つのである。




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