反権威と体罰の関係


反権威と体罰の関係



 集団をまとめ、規律を持たせ、統制を保つ力は、権力である。権力は、権威より生じる。
 権威を生み出すのは、イベントとシンボルである。

 権威の極値は神である。

 集団に規律がなくなれば、個人の力によって他を組み伏せる以外に集団を統率することができなくなる。
 故に、規律が失われた時、体罰は抑制を失い、暴力となる。

 我々より、上の世代、即ち、団塊の世代は、反権威、反権力に冒されている。反権威、反権力を言っていれば、間近いがないと錯覚している。
 彼らは、無秩序、無規律、反道徳、無軌道、混乱、暴力、革命を好む。つまり、アナアキーである。
 一見して、彼らは、暴力を否定しているようで、実は、暴力的なのである。
 非暴力と言っても組織や社会の持つ力を認め、容認しなければ、個人の暴力を肯定していることになるのである。
 そこに団塊の世代の欺瞞がある。

 人と人との差を認めなければ、人を人として認めることはできない。

 儀式や礼節を否定することは、法を否定することに繋がる。
 儀式や祭礼をぶち壊し、礼節を否定し続けた。

 少し前、あれる成人式が問題となった。
 しかし、子供達を批判する前に、誰がそんな子にしてしまったのかを考えるべきである。
 自分達が、良いから、良いからと言った彼等は礼儀も作法も弁えない人間になってしまったのである。
 常識も、良識も、良心も道徳もない人間に育てたのは誰か。
 成人になってから、それを改めようと言っても手遅れである。

 そして、指示、命令を封建的として否定した。
 それは、組織や社会を否定することでもある。
 彼等にとってあらゆる権威や権力は、悪の権化なのである。

 誰が、反権威、反権力という思想を我々に植え付けたのか。
 それは、日本という国の独立を危うくしたいという勢力である。
 何をそれが意味するのか、その点をよく考えよう。

 今の学校教育は、組織や差を真っ向から否定している。教育者は、秩序や道徳に背を向けている。しかも、無自覚にである。無自覚だからこそ恐ろしい。

 例えば、強要、強制は悪いと学校では教える。
 だから、体罰をせざるをえなくなる。

 組織は、指示、命令で動く。強制、強要がない指示、命令は、かえって弊害になる。大体、強制、強要を否定するのは、法を否定することでもある。
 そうなると無法になるから、暴力が横行するようになる。力の強い者に従わざるをえなくなるからである。
 指示、命令を下すのは、指示、命令者が責任を持つという意志表示でもある。翻って言うと、指示、命令を出さないのは、無責任だという事である。
 正式に指示が出なければ、非公式に処理することになる。非公式に処理をすれば、責任は、処理をした者に発生をする。要するに、自主性とか自発性なんて責任逃れのためのきれい事にすぎない。部下を守りたいならば、責任者は、明確に指示を出すべきなのである。
 自主性、自発性を重んじるのは良いが、自発性、自主性に従って行動することを許したら、組織は、その時点で崩壊する。
なぜならば、指示、命令によって組織は機能しているからである。自主性を重んじてなんて言って指示を出さなければ、組織は機能しなくなる。それは組織ではなく。集団に過ぎない。
 和をもって尊しと為すといって何でもかんでも話し合いで決めるという事は、全てを全員位置で決めるという事を意味する。人の意見は、人それぞれ違うというのが、期間決定の大前提である。ユダヤでは、全員一致は神の決定として否決される。何でもかんでも全員一致にしろというのは、最初から成り立たないのである。全員一致が意味を持つのは、最初だけである。
 頭ごなしに決めるから、部下は安心して反論できるのである。頭ごなしに決められないとなれば、上司と部下の意見が違った場合、上司は、部下と意見が一致するまで、部下を説得し続けなければならなくなる。自分の意見を撤回しなければ、組織が動かなくなるとなれば、部下は、自分の意に反して自分の意見を自分で変えることになる。その結果、上司にしてみれば、部下は、自分の意志で自発的に行動したことになり、問題が生じても部下の責任になる。
 全員が反対しても指示者は決断をし、指示を出す。それによって自らが自分の指示、行動に責任を負うのである。
 決断というのは、一つに決めることである。故に、決定したことには、決定者が全責任を負うこととなる。決定者は一人である。組織の構成者は複数である。一対多だから、一に合わせるのが道理である。だから、意見が分かれた時、決定者に合わせるのである。
 上目目線、指示者は強制権を持つ。故に、他の構成員から見れば上に見える。
 空気読めない。指導者が迎合的になれば統制は保てなくなる。
 偉そうしてはならないとも教える。偉そうにするのは、その組織の責任者は誰かを明確にするためである。
 偉そうと言うのが虚勢であってはならない。
 組織を動かすのは、決断である。責任ある者は、自らの責任の範囲内で決断をし、指示を出す。それが責任をとるという事である。

 統制や規律などという言葉は死語である。





                content         


ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2013.4.4 Keiichirou Koyano

教   育