教育の理想を求めて


自由の大切さについて2


前略 先生だって、親だって迷惑はかけるさ。
先生だって人間だもの、たまには、間違いや、失敗をする。
先生で一番多い間違いは、思い違いや決め付け。
だって、一人で何十人もの生徒の面倒をみているのだから、思い違いがあったって仕方ない。
でも、思い違いされた方は、許せない。
でも、先生だって人間なの、その辺は生徒の方も寛容にならなければね。

昔、先生は神様だった。だから、いろいろな制約があって自由になれなかったの。
先生が神様だった時代、先生は、間違いが許されなかった。こんな不自由なことはない。
じゃあ、今の先生は自由かな。
昔と違う制約が一杯できて不自由なんじゃないかな。
先生だって人間なんだよ。泣きたくなるときもあるし、失敗することもある。
でも、人間だから、人を教える事が出来るんじゃあないかな。
だから、先生だって生徒に迷惑をかける。

迷惑をかけていないと言う思いは、俺は、誰の世話にもなっていないと言う錯覚になる。
おまえなんかの世話にならないになる。
誰の世話にもならないになる。今の年寄りに多いだろ。
意固地なんだよ。
そして、誰の世話もみないになる。
自分の親におまえの世話にはならないなんていわれたら哀しくなるだろ。
でも、結局、親の面倒をみなければならなくなる。

最初から出来ない条件を付けてやっていいよと言うのは、本当は、やってはいけないと言うのと同じ事さ。狡(ずる)いよ。
迷惑をかけずに生きられないことを承知していながら、迷惑をかけなければ何をしても良いというのは、何もしてはならないといっているようなものさ。
だから、相手は反撥して、俺がおまえにいつ迷惑をかけた。
俺は誰の世話にもなっていない。
だから、俺はやりたいことをやるんだと言い出すんだ。
こうなったら始末におえなくなる。

昔の日本人は、お世話になります。お陰様でと挨拶したんだ。
そして、お互い様ですよって返してくれた。
日本人て素敵だろ。優しいだろ。
最後に、迷惑かけました。有り難うございますというんだ。
挨拶って大切だろ。

迷惑をかけたくないと言う気持ちは解るけどね。
迷惑をかけざるをえないと言うのが現実なんだからね。
迷惑をかけずに生きていけるのなら、気楽なことはない。
人を頼りにすると言ってもあてにならないし。
でも、いずれは、人に迷惑をかけることになるんだから、それなら、最初から世話になるねとことわっておいた方が良い。

今の親は、子に向かっておまえの世話にはならないって強がりを言うの。
でも、結局、歳をとったり、病気をしたら誰かの世話にならざるをえない。
野垂れ死んだって迷惑はかける。
だったら、他人に迷惑をかける覚悟をしようよ。
そして、お世話になりますと感謝するんだ。

それでも、人に迷惑をかけるというのは嫌だよね。

先生だって生徒に迷惑をかけるの嫌だから、生徒の世話をやくのとってもしんどいと思うよ。
だから、最初に先生お世話になりますって声をかけようよ。迷惑かけます宜しくってね。
先生に、卒業する時、親に結婚する時、お世話になりましたと言えるような生き方をしような。
迷惑をかけてはいけないではないんだ。
迷惑かけます。お世話になります、宜しくお願いしますと言う気持ちになれないのがいけないんだ。
そして、お互い様ですよと返してあげられないのがいけないんだ。
人の世話にならないで生きていける人間なんてどこにもいない。
何かに挑戦しようと思ったら、周囲の人間、特に、親しい人間に迷惑をかけることになる。
迷惑をかけることを恐れていたら何も出来なくなる。
その自覚がなければ自由なんてなりたたない。
だから、最初に迷惑をかけますと宣言するんだ。
特に、自由になりたいならね。

大体、迷惑と言うけど、何が迷惑なの・・・。
迷惑の意味も解らずに、迷惑がっても意味ないよ。
そんなの口実に過ぎない。
ただ、本当の自分を知るのが怖いだけさ。

先生はね。良い先生ほど生徒の面倒をみる。世話をやくんだな。

迷惑というのはね。自分が迷惑だと感じる事さ。
だから、先生に世話をやかれると迷惑だと感じる人間がいてもおかしくない。
テレビの学園もので熱血教師が居ると大体、生徒は迷惑だと感じるの・・・。
それでないとドラマにならない。
そして、お節介やかないでよ。私があなたにどんな迷惑かけたといい。
とどめに、大概、干渉しないで、ほっといてという。
普通の先生は、そこでたじろぐんだ。テレビドラマの先生は、それでもお節介を焼く。でも、現実にそんな先生がいたらすぐに首になるよね、きっと。
だから、先生は、大変なんだ。良い先生ほど生徒に首をかけて迷惑をかける。
それを承知しておかないとね。良い先生に巡り会えないよ。

自分を知ると言うことは、自分の悪い所や、欠点、過ちを指摘されなければならないんだ。
でも、それって凄く辛い。
欠点なんて指摘されると、自分のこと全否定されたようで、こいつ俺のこと嫌いなんじゃないかと思う。
いじめられたって訴える奴もでてくる。
注意をしたら嫌われたりもする。
そうなると、相手の欠点や間違いを注意するのが嫌になる。
折角、間違いを直してやろうと思っているのに、逆切れされたのではね。
人に注意をしたり、叱ったりするというのは、勇気がいるんだ。
なるべくならしたくない。
だから、注意をしたり叱るというのは、嫌いだからではなくて、好きなんだよな。
嫌いだったら出来ないよ。
注意をしたり叱ったりしする事が先生に許されていないとなったらどうやって教育しろと言うの。生徒のことを心配すれば、注意したり、叱る。それこそが教育ってものでしょ。
それを否定してしまったら、先生は手も足も出せなくなる。
だから、人に注意されたり、叱られたら、有り難うと言うくらいな気持ちにならないとね。
注意された、叱られたと言って腹を立ってていたら、
どんどん友達が居なくなる。良い先生もいなくなる。
誰も、本当のことも言ってくれなくなる。

突っ張ったって何の解決にもならない。
弱い自分を誤魔化しているだけじゃあないか。
格好悪いだけだよ。
いくら強がり言ったって人間は一人では生きていけないんだ。
一人で生きていけないのなら助け合って生きていこうよ。
最後まで・・・。死ぬまで・・・。
それが真の友だ。

よく何のために勉強をするのと聞くと自分の為にと言われるだろ。
この自分の為というのが曲者なんだよね。自分が解っていれば、問題ないけど、自分が解らない、自分が何をしたらいいか解らないから悩んでいるんだよね。自分というものがわかっていないのに、自分の為にと言われても困る。
だから、大概、自分の為にと言われたら苛々する。段々、腹も立っている。自分の為にと言われても肝腎の自分というものがわかっていないのだからからと反撥だけが残ってしまう。
自分が何をしたいか、どんな生き方をしたいかが、解らないから聞いているのに・・・。
これでは逆効果になる。
自分の為に勉強するというのならば、先ず、自分を知る事が先決だという事を忘れては駄目だよ。

自分の悪い所や欠点、間違いを指摘されると頭では理解できても感情では許せない。
カッとなって頭に来る。
指摘が的を射ていればいる程ね。悔しいってなる。
だから、素直になれない。
でも、何が許せないの。
自分の悪い所を指摘した相手。
違うよな。自分が許せないんだよな。
自分で自分を許そうよ。そして、有り難うって言おうよ。友達じゃあないか。
悪い所を指摘されて腹をたてるのは、君たちだけじゃあない。
先生だって、親だって同じ。むしろ、歳をとった方が、認められにくくなる。だから強引になる。
自分の悪い所や間違いを認めてあらためるというのは、本当に死ぬほど辛いことさ。でも、それをしなければ本当の自分を知る事は出来ない。

そして、自由になるためには、我慢も忍耐も必要なんだ。

誰だって良いところばかりではないよ。
嫌なところや悪い所はあるよ。
でも、それを認めなければ、改めようないじゃないか。
それじゃあ、いつまでも成長できない。
良いところばかりでなく悪いところも見なければ本当の自分を知る事は出来ないよ。
他人は誤魔化せても自分は誤魔化せないのだからね。

いじけて、相手の目をみたり、顔を見て話せなくなるのは、そこに自分の姿が写っているからだよ。
自分の弱点や間違いを認めるのが嫌なんだ。
でもね、欠点や悪い所も含めて全部自分なんだ。だから、良いところばかりでなくて、欠点や悪い所も認めようよ。
欠点や悪い所だって見方によっては、長所にも強味にもなる。
大体友達が褒めているのに、けなしていると思って怒る奴も多いよ。

何時か、自分と向き合わなければ・・・。
自分を見つめ。
怠惰な自分と対決し、逃げ出そうとする自分に克たなければ自由にはなれない。

苛めは確かに悪いよ。
でもね、もっと悪いのは、苛められたって言って自殺したり、引き込んだり、いじけたりすることだよ。
自由にとって一番悪い事は、自己否定。
自分は、なんて駄目なんだ。俺は馬鹿だから。俺は何をやったって駄目だと思い込むこと。
自分なんてどうなっても良いとか、どうせやっても無駄だ、誰も俺のこと解ってくれないと決め付けること。
ハッキリ言って自分は駄目だと思うのは、楽なんだよ。努力しなくて済むから。
自由にならなくて済むから・・・。
でも、そう思った時から、どんどんと自分が悪くなる。
投げ遣りになるからね。無責任にもなる。
廻りに迷惑をかけていることにも無自覚になる。
自暴自棄になる。
第一、自分が嫌いになる。

これ、全て、自分の経験談ね。

でも、自分の人生って自分で変えられるんだよ。
そのことに気がついた時、僕の生き方は変わった。

自分の人生は自分で変えられる。
自由にもなれる。
不自由にもなれる。
それは自分が決める事。
良くも悪くもね、自分の人生は自分で変えられる。
能力だとか、才能に恵まれなくたって前向きな人生を送ることは出来る。
馬鹿だとか、間抜けだという事には関係ないんだな。
よくね。人生のお手本というと偉人だの天才だのをあげるけど、ああいう人は、もの凄く稀なんだよ。憧れるのは良いけど、果たして参考になるかな。
でもね。昔の職人は、自分の仕事に誇りを持っていて俺は日本一だと自惚れていた。
これって自由だよね。
自分の仕事に自信があって誇りがあるんだ。
頑固だけどね。そう言う素敵な親父が沢山いた。
今の親父は、自分の仕事に自信が持てず、誇りも持てず悩んでいる。
自由じゃあないよね。
どんな人間だって、自分の中では、日本一にも世界一にもなれる。肝腎なのは、自分が納得のいく人生が送れるかだよね。
自惚れだって、自信過剰だって言われても良いじゃないか。

僕も学生時代、受験で先生におまえは、自信過剰だって言われた。成績が悪かったからね。でも言い返したんだ。自信過剰でも良いじゃないですか。それで迷惑するのは、自分なんだから。先生、学校は、自信をなくさせるところですかって。お陰で苦労はしたけど、後悔はしていない。

注意されたり、叱られたりした時、一々、苛められたと感じていたら、自分を知る事なんて出来ないよね。
有り難うって思わなければ、そう言う先生に出逢えたら、感謝しなければ・・・。
尊敬に値するよ。だって嫌われるの覚悟して注意してくれたんだからね。

どんなに否定をしても、自分の存在を否定しきれるはしない。
自尊自重の精神がない者は、自由になれない。
自分を卑下し、卑屈になり、自虐的にしかなれないような人間は自由になりようがない。
どんな欠点や醜いところがあっても、自分は生かされているのである。
他人がなんと言おうと、自分は自分である。
注意されたぐらいで自分がぜん否定されたなんて思い込むのは、考え違いだ。
もっと誇りを持ちなさい。

自分さえよければと言うのが間違いというのなら、
自分一人我慢すればいいと言うのも間違いなのだ。
苦楽を共にし、皆が一体となった時、自由は実感できる。
それが組織であり、家族なのである。
組織や家族は、自分の個性や能力を引き出し、自由にしてくれる。
自由になるために大切なのは、連帯であり、友愛なのである。

ウザイというのは、嫌な言い方だよな。
鬱陶しいという意味だろうけど、人を不用意に、無意味に傷つける言葉だよ。
折角、自分のことを思って注意してくれた相手に失礼だよな。
相手の好意も、自分の気持ちも踏みにじる様な言い方だよな。
自分を卑しめるような言い方は辞めようよ。

自由人は、規律と礼節を重んじる。克己復礼だね。
自由人が従うのは、内心の規律です。だからこそ外部からの強制を嫌い、礼節を重んじるのだ。
そして、自由人が重んじるのは、名誉と独立。

大人になると言うのは、自分の考えや意志で生きていけるようになるという事かな。
つまり、自由になることだよね。

子供、子供と言うけれど、中学二年にもなったら。もうある程度、自分の生き方に責任を求められても良いと思いますよ。
大人は狡いんです。そして、子供もね。大人は、自分が都合が悪くなると急に子供扱いしたり、無視したり、逆に、子供は子供で、まだ子供だからと言い訳をする。
でも、急に今日から君は大人なんだなんて言われると困るだろ。いきなり、責任をとれなんていわれるのもね。
昔は、十五才で元服したし、小学校を出たらすぐに働きに出された。家の手伝いも子供の頃からさせられた。
結局、自分の人生なんですよ。どんなことあったって自分の人生は、自分で責任をとらされてしまう。それだけは忘れてはいけない。
子供だから犯罪を犯しても許されるというのは、間違い。例え、法律でそうなっていたとしても、人間として、その人の人生において結局責任をとらされていってしまう。法的に罰せられないからといって犯罪を犯したら、何等かの社会的制裁を受けざるを得なくなるんです。
大人の言いなりになって、自分の意見を何時までも持てないと、大人達がやった不行跡のツケを結局払わされることになりますよ。
中学二年にもなったら自分の考え、自分の意見をしっかり持ちましょう。少しずつ大人になる準備を始めないとね。
大人になるってどんな事って言えば、自分なりの考え、自分なりの意見を持つこと。
多少間違っていても良いじゃないですか。まだ、多少は時間があるんだから。
では、何時大人になるかって言うことだよね。
もし、強いて言うのならば、今だよね。自分の考えを持てたときだよね。
大人か、大人でないかというのは、本当は年齢なんて関係ない。
自由か、自由でないかと考えた方が良いかも知れない。
自分の人生に対して自分が責任を持っている人は大人なんだよ。
それに対して、幾つになっても自分の人生に責任を持っていない人いるだろ。
親になったのに、親としての自覚がない。こういう人は大人とは言えない。
だから、皆の感想文読んだら、皆の方が大人なんじゃないかと思ったよ。
だから、もっと自分を信じて。自分の可能性や未来を信じて、前を見ようよ。
苛めなんて糞喰らえだ。負けるな。苛めてくれて有り難うと言うくらい強くなろうよ。

人は、生まれたばかりの時は、不自由なのである。自分以外の人間の世話にならなければ、つまり、迷惑をかけなければ生きる事すらかなわない。人は、最初から自分一人では生きていけないように神によって造られているのである。

誰もが最初から思い通りの生き方なんて出来ない。
思い通りの生き方が出来ないから、苦しみもがきながら自由を求めるんだ。
失敗や挫折を味わった時こそ、自分の限界に気がついた時こそ、自由に憧れるんだ。
不撓不屈の精神こそ自由人の精神。
落第した時、試合に負けた時、商売に失敗した時、友達に嫌われた時、好きな人に嫌われた時、自分はなんて駄目なんだと全てを投げ出したくなる。
でもそんな時こそ、自分を信じなければ立ち直れなく。
だから、苦しい時こそ人は自由を求めるんだ。
この苦しみから自由になりたいとね。
そして、障害に立ち向かっていく。自由になるために。その原点にあるのが自分。
だから、怠惰な自分に克たなければ・・・。

逃げたら駄目だ。逃げたら自分でなくなる。
諦めたら駄目だ。諦めた時から自由ではなくなる。
自由か、しからずんば死かと、自由人は叫んで、今日の世界を築き上げたんだ。

何で勉強するの。
幸せになるためじゃないか。
不幸になるために、勉強するわけではないよね。
いい点を取るために勉強するのでもない。
成績は目標だけど、目的ではない。手段と目的を間違えてはいけない。
目的は、自分が、いいかい、自分が、幸せになるためなんだ。
自分が不幸になって言い訳をしても、その言い訳を誰にするの。
そうさ、自分にしか出来ないじゃないか。
自分に自分が言い訳しても仕方ないだろ。
ここまで言うとわかるだろ。
何で自由になるの。幸せになるためさ。
自由って皆一人一人が自分の幸せを実現する事なんだ。            草々
平成二十四年二月二十七日





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