成績は悪かったですね


成績は悪かったですね


 いやあ試験というのは苦手でしたね。今でも変わりませんが・・・。
 生理的に受けつけないというか。拒絶反応がでてしまってね。
 大体、他人に試されるというのが嫌いなんですよ。
 狭い教室に押し込められて、一方的に知識を押し付けられるのにも閉口した。
 昼過ぎになると眠くて仕方がなくなる。

 だから、成績は悪かったですね。

 最初のうちはやればできると思ったんですが、成績が悪くなってくると焦りだしたですよね。
 でも、その段階になるといくら頑張っても、なかなか、成績は良くならない。終いには、ビリから数えた方が早いくらいになってしまって。それで結局、これは、やっぱりやっても駄目だと認めざるを得なくなってしまった。ところが、不思議なことにいくら頑張っても駄目だと悟った途端勉強が好きになった。物理学が面白くなったんですね。
 勉強というのは、意識の問題ですよ。
 あれ程嫌だ嫌だと思っていた勉強も、自分が興味や関心のあることに向けた途端、面白くて堪らなくなる。

 今の社会では、学校の成績は、絶対的ですからね。成績が悪くなると人格まで否定されてしまう。ダメージも大きいし、立ち直れなくなり危険性もある。一生、何等かの劣等感を背負って生きていかなければならなくなったりする。心に受ける傷も大きい。
 大体、学校の成績が悪くなると子供達も逃げ場所を失うこともある。何せ、学校以外に生きる場所がないと思い込まされていますから・・・。昔だったら、成績が悪くなったら、家の手伝いをさせられるか、小僧に出されてしまった。
 それに、社会に出ても、いろいろな可能性が残されていた。職人になることだって、商売人になることだってきた。それが今は、成績が悪くなるとお先真っ暗になってしまう。もう真っ当な人生が送れないかの如く思い込まされる。
 これらは、成績が悪かった人間にとって実感ですよね。
 成績が悪かったお陰で、親から小言ばかり言われたし、育て方を間違ったと泣かれた経験もある。そうなると親子関係だってぎくしゃくしますよね。

 学校教育が全てであるような言い方をするから子供達の可能性や才能の芽を摘んでしまうことになるのである。大切なのは、生徒一人一人の人生であって成績ではない。
 成績は、その時その時の生徒の成長度合いを知るための指標に過ぎない。

 学校が全てだと信じ込むと、学校以外に生きる道があることが信じられなくなる。学校なんか行かなくても何とかなると思えなくなるのである。学校から逃げ出したら、負け犬、敗残者である。別に、社会に出たら、学校だけが全てじゃあないとすぐに解るんですけどね・・・。
 それより世間知らずになる方が余程怖い。

 なぜ、成績が悪かったのか。今から思い返せば、勉強の本質を見誤っていた気がする。
 だから、やっては成らない事は全てやった気がする。だからやっては成らないことは解るが、肝腎のやって良いことは解らない。
 涙が出てきますよ。
 なぜ、成績が上がらないのか理解できなかったし、どうしたらいいのかも解らなくなった。自己嫌悪ですよ。
 でも学校を卒業して解ったのは、教える側はも、教えている事の意味がよく解っていなかったと言うこと。
 勉強をすることの本当の意味が忘れられているから、勉強が上っ面だけのものになっているという事。つまりは、本質的なところをかえって避けて通っていると言うことに気がついた。だから、学校の勉強が暗記の様な、問題を解くための技術だけでしかなくなってしまっている。生きていく為に必要な事とか、役に立つことではなくてね。だから、無用の用なんて格好を付けているけど、本当は、自分が何をやっているんだか、何を言っているのやら見当がつかなくなっている。
 だから、試験勉強という視点を外したら途端に勉強が好きになった。本来知りたいことを自由に探求しはじめたから・・・。そうしたら、なぜ、勉強がうまくいかなかったのかの原因もおぼろげに解ってきた。
 要するに、動機が不純だったのだ。
 数学だって数学の専門家が今の数学の教え方では、数学の本質が理解されないどころか、障害にすらなると警鐘を発している。ところが、今の学校の先生ときたら、アインシュタインに物理学を教えようとすらする。ものすごい権威主義なのに、自分達は、反権威だとおもっいこんでいる事が凄い。
 教育は、教育自体が目的化してしまっているのである。教育本来の目的がどこかへ行ってしまっている。しかも、それを商売の種にして多くの人が生活をしている。だから、教育本来の目的なんてどうでもよくなっているのだ。

 良い学校か、悪い学校かの基準が、良い大学?に対する合格率なっている。その為に、中学、高校が大学受験の予備校化している。しかも、良い大学かどうかの基準は、ブランドが基本なのである。
 偏差値と言ったおかしな基準が学校を支配することにも成る。

 人間形成は二の次になる。偏差値では、人格や倫理観は測れない。

 教育者が尊敬されないのは、手段である教える事を目的としてしまっているからである。それで自縛的になって、身動きがとれないで居る。
 学校の先生自体が教育の目的を見失っているのである。先生が尊敬されない環境を自分達で作っておいて、自分達を縛っているのである。

 日本テレビのネプ&イモトの世界番付で紹介。
 学校の先生を尊敬する国ランキング(51カ国)
 1位:タイ・インドネシア・ブラジル・トルコ・フィリピン・ルーマニア:100%
 2位:イタリア:99.1%
 3位:ベネズエラ:99%
 32位:アメリカ:93.6%
 36位:シンガポール:92.7%
 46位:フィンランド:85%
 50位:韓国:65.5%
 最下位:日本:41.8%

 日本が最下位というのが問題と言うより、その比率ですよね。どんなに悪いと言っても他の国は半分を切ることはない。半分どころか、なんだかんだいってもアメリカだって90%以上ある。それが、半分以下ですよ、日本は・・・。

 かつて、教師は、聖職と言われ、人格を最も問われた。だからこそ、教育者にも生き甲斐があり、やりがいがあったのである。
 それが今では単なる労働者になり果て、教育者としての使命などどこかへ追いやってしまった。でも、そのほとんどは、自分で蒔いた種です。

 先生も又人間である。生身の人と人とが、真っ正面からぶつかっていく。それが教育である。だからこそ、教育の過程を通して生徒は先生を尊敬していくのである。
 先生が、生徒、一人一人の人生から逃げ出してしまったら、教育なんて成り立ちようがないのである。

 問題なのは、学校教育の有り様を一律一様だと言う事。一律一様というのは、集権的なものになっていることを意味する。こんなに統制的なのはない。統制的だというのに、権威を否定している。だから、目標を見失って漂うのである。
 戦前のことを封建的だと言いますがね。戦前の方がまだ学校に個性があった。
 生徒達にもいろいろな選択肢が残されていた。
 民主主義とか、平等と言うけれど、自由主義国の本家、本元である。欧米だって学校は目的に応じて特徴がある。
 日本の学校は、商業学校や農業学校、工業高校と言ったところで、教えている事には大差がない。大学だって教えることは大体同じである。
 何でも、総花的、総合的で、同じ事を教える事が公平、平等だと思い込んでいる節がある。
 学校の個性が否定されていること。その結果、受験生の選択肢の幅、特に基準が狭くなっている。平等と同等とは違うのである。
 つまり、学校自体が目的を見失っているとしか言いようがないのである。

 子供達の意志というものが無視されている。
 一見、子供達の意志を尊重しているような振りをするが、結局、親や学校の都合の方が優先されている。勉強のことばかり考えていればいいという事自体、学校の勉強以外の道を閉ざしていることになる。
 しかも、偏差値や成績で、進路が限定している。又、進むべき道も予め決められていて、一定の範囲内でしか選択できない。迷ったら、成績が悪くなる。成績が悪くなれば後は修羅場である。
 結局、学校の勉強が全てになる。子供達は、自分の人生なんて斟酌している暇は与えられないのである。
 なにか、普通高校に行って大学に行くことだけに価値があるように思え、それ以外の選択をすることはおちこぼれを意味するかの如く決め付けている。
 子供達に選択肢なんてないも同然である。

 養老猛は、自分達が学生の時は、大学に行くと馬鹿になるよと言われたという。かつての大学は、本当に勉強をしたい人間だけがいったものだ。
 大学へ行くこと以外でもいくらでも生きる道があったし、また、大学へ行かなくても一流の人間になれる選択肢を残しておくべきなのだ。
 学生という者の人格を認めずに、ただひたすらに親や学校の言うなりにしておいて、学校の成績に責任を持てと言われても土台無茶である。
 二十歳どころか、小さい頃から自分の人生に責任を持たせるように躾るのが、本当の教育である。成績だけで、偏差値だけで、人生が決められてしまうような状況を早く抜け出すことである。子供達の為にも親のためにも・・・。
 自分で自分の生きる道を考え、悩み、模索し、決めていく。それこそが一番大切なのである。
 その機会を子供達に与えることそれこそが教育なのである。






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