思想、哲学とは


思想哲学とは



 思想、哲学とは何か。

 思想だの、哲学などと言われると多くの人は、難しく捉えてしまう。
 しかし、普段日常的に話している考えを少し洗練したもの。つまり、一般化した表現に置き換えているのが思想であり、哲学である。
 例えば、俺は浮気はしないと言うのも立派な思想であり、哲学である。貞操が固い思想を一穴主義という。反対に、快楽こそが生き甲斐というのも思想である。快楽主義である。俺は結婚なんてしないというのも又思想。独身主義である。快楽なんて邪悪だというのも思想は、禁欲主義である。
 この様な男女間の在り方に対する認識を土台にして婚姻制度は構築される。よく保守的な婚姻制度とか、革新的な婚姻制度というような表現をされることがあるが、保守的であるか、否かは、その人その人の主観の問題である。大切なのは、制度の基盤となる思想がどの様な基準で、どの様な手続によって、誰が決めたのかである。
 つまり、制度の土台には、必ず思想が存在している。

 教育制度も然りである。何等かの思想を土台としていない教育制度はない。中立的思想、客観的思想というものはない。思想は、あくまでも主観的なものである。故に、中立的教育制度、客観的思想に基づく教育制度はない。況(いわん)や、無思想の教育制度など存在しようがない。
 それこそ欺瞞である。

 教育の根本思想に関しては多くの人は妥協をしない。厳しく躾るべきか、放任主義をとるべきか。体罰は是か、非か。価値観の問題であり、例え、夫婦間でも一致しない。それが、夫婦喧嘩の種になり、結局、離婚の原因になったりもする。
 子供に対する教育方針は、なかなか、夫婦間でも、親子間でも一致しないし、妥協もしない。それほど、教育思想というのは堅固なのである。
 つまり、思想や哲学というのは、価値観の土台であり、生きていく上での行動規範の根拠なのである。故に、思想や哲学なくして自律的な生き方などできないのである。
 この思想や哲学を養成する場が学校であり家庭なのである。ところが今、学校や家庭が、思想や哲学を育成するような環境にない。だから、人々の生き方が定まらないのである。生き方が定まらなければ、定まらないから、ひきこもりや鬱病にもなりやすくなる。また、自制心も脆弱になる。一貫性のある生き方ができなくなるのである。

 我々が生きていく上で、その時その時の状況に合わせて判断しなければならないことは沢山ある。
 今晩の食事は何にしようとか。友達との約束を護るべきか、それとも、仕事を優先すべきかとか。相手のためには嘘をつかなければならないことがあるのか、あくまでも正直に話すべきなのかとか。友をとるべきか、彼女をとるべきか。困った人がいたら、何が自分の家族を犠牲にしても助けるべきなのか。募金に協力すべきなのか。神を信じるべきなのか。逃げるべきか、止まるべきなのか。毎日、毎日、いろいろと判断に迷うことばかりである。そして、最終的に決断する場合、最も肝腎な要素は、その人その人の価値観である。

 こう考えると思想、哲学というのは、我々の日常的な考え方の基本、思考過程を洗練化し、一般化したものと言える。難解に聞こえるのは、日常的な考え方や思考過程を洗練化し、一般化する過程において生じるのである。
 また、素朴で根本的な問い。例えば、存在するとはどういうことか。人は、なぜ、生かされているのか。俺はなぜ、生まれたのだろう。また、人間いかに生きるべきかという本源的な問いが思想や哲学の根本に含まれているからである。
 思想や哲学の始まりは、極めて、素朴で、純真無垢な問い掛けなのである。物心が付いた時に誰でも感じるような基本的な問題なのである。
 純朴な問いを深い思索によって練り上げたのが、思想や哲学である。しかし、生きている上で、誰しも、何等かの思想や哲学を持っている。そうでなければ、自分の生き方を統御する事が不能だからである。つまり、思想や哲学は、自分を自分らしく制御するための基盤なのである。

 思想や哲学が最も現れるのは、教育であるが、それ以外に、恋愛観や死生観にも顕著に現れる。

 恋愛について、人は、妥協しない。好きになったら命懸けである。誰が反対しても自分の意志を貫き通そうとする。そして、最後には、自分の価値観、つまりは、思想や哲学の問題に行き着く。つまりは、誰のために、何のために自分は生きるのか。又、何によって自分は生かされているのか。
 だからこそ、恋愛観には、思想が如実に現れる。故に、小説の題材にも、映画の題材にも、また、歌の題材にもなるのである。

 生きるか死ぬかの状況に直面した時、人間の内面の価値観、即ち、その人の思想や哲学が露骨になる。
 戦争や災害に遭遇した時、人は、思想的になり、哲学的になる。
 そうでなくとも、死期が近づけば、誰しも、自己の存在に対する本源的問いを発する。それこそが哲学なのである。言い替えると哲学する事なのである。

 戦場において名もなき兵士の手紙や特攻隊として散っていった学徒達の手紙は、それ自体が哲学書であり、思想書である。

 この度の東日本大震災の際に殉職した警察官や消防士達、役場の職員の行動は、その行為自体が思想であり、哲学である。又、災害復興に尽力する自衛隊や消防士の決断は、その人一人一人の哲学や思想にこそ根拠がある。
 自分の命を省みずに、津波警報を出し続けた人、津波が押し寄せているのに、最後まで避難誘導をし続けた人、原子力発電所の事故処理に志願していく人、それは根源的な思想に基づいている。
 反対に、この災害を利用して大儲けしようとするのも、又、詐欺や掠奪、窃盗をしようとするのも、その人の思想や哲学が為せる業なのである。
 
公に殉じるのか、それとも、私欲を優先するのか。
 それは是々非々の問題と言うより、思想、哲学の問題である。

 だからこそ、思想教育や哲学教育の重要性がある。それは、人々の行動の根源にあるからである。

 思想や哲学というのは、何も難しいことを言うのではない。ただ、日常的な生き方を洗練し、一般化し、体系化した表現にすぎないのである。
 思想や哲学というのは、生きることそのものだからである。むしろ難解な思想や哲学こそ問題なのである。

 暴力についてどう考えるか。
 指導者の在り方はどうあるべきか。
 人としてどういう生き方をすべきか。
 国家とは何か。権力に対してどう接するべきなのか。
 正義とは何か。悪に対してどう立ち向かうべきか。
 法とは何か。法に対してどうあるべきか。
 規律や秩序をどう考えるのか。
 男と女の違いをどう捉えるか。
 男と女の関係はどうあるべきなのか。
 親子の関係、家族の関係をどう思うか。
 結婚についてどう考えるか。
 親になるとはどういう事か。
 社会の在るべき姿とはどんなことか。
 社会や組織をどう受け止めるべきなのか。
 隣近所の人とどう付き合うか。
 社会人としての常識をとは何か。
 人間関係はどうやったら築けるのか。どう付き合ったらいいのか。
 価値観の違う人間とはどういう風に接したらいいのか。
 礼儀作法をどう考えるか。
 目上の人、年上の人にどう接するべきなのか。
 友とは何か。信じ合うとはどういうことか。
 助け合うとはどういうことか。
 国旗、国家をどう考えるか。
 権力や権威とは何か。
 歴史、伝統、風俗習慣をどう認識するか。
 自然や環境をどう見るか。
 神を信じるか。
 自由とは何か。平等とは何か。
 道徳とは何か。
 権利とは何か。義務とは何か。
 人生いかに生きるべきか。
 やって善いこととやってはならないこととは何か。
 何が正しくて、何が間違っているのか。
 人として為すべき事は何か。

 以上のようなことを社会に出る前に未成年者に身につけさせることが教育の本来の目的なのである。
 こう考えると、教育とは思想そのものなのである。
 然るに、今の教育は、無思想で良い、或いは中立であるべきだという。
 それこそが最大の欺瞞なのである。
 教育者が教育本来の使命を頭から否定し、責任回避しているに過ぎない。
 又、それ故にこそ、自分の私的な思想、特に極端で、過激な思想を教育の現場に持ち込まれるのである。




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