清く、正しく、美しく


 現代社会では、清く、正しく、美しくという言葉は全否定である。この世の中は、醜悪で汚れきっている。それが現実だというのが通り相場である。更に、強さも唾棄すべき事柄である。清く正しくなんて言うと斜に構えておまえは、何も現実のことを解っていないと仲間から諭される。諭された挙げ句によってたかって引きずり降ろされる。引きずり降ろしておいてやっぱり汚い世の中だと嘯く。違う違う、そうやって引きずり降ろす奴が汚いだけである。彼等にとって真面目に生きる奴は目障りなのである。自分の醜さが際立ってしまうからである。弱々しく、媚びへつらう者を望んでいるのであり、誇り高く、気高い人間は邪魔なだけなのである。正義や公義など無縁な我利我利亡者である。なぜならば、骨の髄まで負け犬が染みついているからである。俺はなんて駄目なんだと諦めるのは容易いし、楽だ。しかし、それでは生きている甲斐がない。

 現代日本の似非知識人にとって現実というのは、とにかく、汚く、汚れた、醜いものでしかない。清く美しいものがあったとしてもそれは偽物でしかない。その様な偽物は、早く汚してしまった方が良い。理想なんて幻想に過ぎず、理想に取り憑かれるから災いに巻き込まれるのである。神ですら、汚れた存在であり、子供も父母の欲望の果てに生まれた存在でしかない。
 この様な原罪思考が現代人の根本を支配している。アメリカの恋愛ドラマを見ていると、純真な愛を追い求めている癖に、やっている事ときたら快楽の追求に過ぎない。だからいつまでたっても愛は成就しない。そして、真実の愛など存在しないと訴えている。またまた、それは、言行が不一致なだけのである。相手に自分だけを愛するように求めながら、自分は、数多くの快楽を得ようと欲張っているだけなのである。真実の愛が得られないのは当然の報いであり、自らが招いているのに過ぎない。
 現代人は、何かというと愛だ愛だという癖に、爪の先ほども愛なんて信じていない。いつよりも、愛なんかより、性欲の方が勝っているのである。だから、愛に飢えている。まったく馬鹿げている。愛を求めるのならば、愛を信じるべきである。

 確かに、理想を実現する事は困難かも知れない。だからどうだというのか。理想はこの世にはないかも知れない。だからどうなのか。いずれも理想を棄てる理由にはならないし、夢を信じない理由にもならない。理想や夢を棄てるのは、自分が弱いからに過ぎない。
 大体、求めている理想や夢が、有名になって、金を沢山も受けると言った最初から不純なのである。夢や理想に公がなく、私利私欲に過ぎないのである。
 自分が弱いから、自分が汚れいるからと言って他人の強さや美しさを汚す理由にはならない。

 現実をなぜ、殊更に醜くする必要があるというのであろう。なぜ、理想を高く掲げてはならないのか。
 己が、なんの努力もせずに、どうせ駄目さと怠惰な生活をおくるためには、現実は見にくく、理想なんて実現できないと諦めるのが早い。結局、何もしない言い訳のために、現実を醜いものだと決め付けているに相違ないのである。
 現実が醜かろうと、理想が高ろうと、どうだって良いことだ。自分が清く、正しく、生きていくことの障害にはならない。自分と戦って、戦って勝ち抜くこと以外に、何の意味もない。







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