主体性と独創性


 全共闘世代というのは、どうも叛逆、抵抗、反抗を美徳だと考え、相手の意見、素直に従う事は、隷属だと単純に決め付ける癖がある。その為に、知らず知らずのうちに物事に逆らってしまう傾向がある。
 その結果、やるなと言われたことをやり、やれと言われたことをやらないと言う人間が出来上がる。とにかく、そう言うふうに躾られてしまったのである。困ったことに、当人達は、無意識無自覚で、自分は正しいと思い込んでいるのである。

 しかしこの様な反発は主体的に為されているわけではない。単なる反射的な反応に過ぎない。意味もなく逆らっているのに過ぎないのである。

 叛逆、反抗、抵抗、革命、反権威、反権力を美徳だと教えられ、また、教え込まれた。だから、何事にも反対し、逆らうことばかりしてきた。
 その結果素直さを失った。壊すことばかりを覚えて、建設することを忘れた。結果、無秩序で、荒廃した学校だけが残ったのである。
 そのくせ間違った事を指摘したり、失敗を言われるとすぐに腹を立てる。

 逆らうことばかり覚えてしまったために、素直に相手の指示に従うことができなくなってしまった。性格がねじ曲がってしまったのである。おかげで、指示命令が出しにくくなった。と言うより、指示・命令そのものを封建的だと拒否し始めたから、さあ始末が悪い。

 だから、我々以後の世代は、何かというと口答えをする。旗色が悪くなると言い訳をする。言い訳は権利だと言い出す。最後には、言い訳することばかり考えるようになる。しかも、それを当然のこととして、頑固に同じない。これが高じると組織が機能しなくなる。困って叱ると逆切れをする。手に負えない。それを主体性だと錯覚している。それは、主体性でも何でもない。ただの言い訳である。

 やらない理由、できない理由は、たくさんあげる事はできる。しかし、肝心な事は、やらなければならない事、できなければならない事がやれていない、できていないという事である。そして、その事実以外意味がないという事である。その事実を認めない限り何も改まらないし、進まない。

 彼等は、言わなければできない癖に、言えばやらない。だから何もやらない。それが、彼等の言う主体性である。

 何でもかんでも絶対服従というのもおかしいが、何でもかんでも逆らえと言うのも同じくらいおかしい。

 反抗精神を植え付けられる過程で、体制的、保守的、権威的なものは、蛇蝎のごとく否定された。むろん礼儀や作法、伝統や歴史など真っ先である。その上で、それに繋がる忠誠とか、情義とか、信義とか、誠実とか、素直とか、まともとか、真面目という事はかっこ悪い事として刷り込まれた。かっこ悪いが、更に、悪い事にエスカレートした。

 真面目という事は、僕らにとって悪であるように刷り込まれてしまった。真面目に、友達に間違った事を注意したら、真面目だという理由で虐められる。少し、斜に構えて悪ぶっている方が仲間受けはいい。

 真面目さや、真摯さや、誠実さな奴は、堅苦しく、付き合いにくい、嫌な奴で、適当で、いい加減で、不真面目で、ちょい悪がもてはやされた。
 真剣に何かに立ち向かおうとする者は、仲間外れである。正義感だの、男気など出したら、袋叩きにあう。これでは誰もがやる気をなくしてしまう。

 真面目に物事に取り組む奴は、付き合いにくい奴だとされて、村八分にあった人間は、心に深い傷を負う。だから、皮肉に真面目な人間ほど不真面目さを装うようになる。

 自分が正しいと信じる事を信じる事ができず。更に、外見的には、それが間違いだと装う。本性は、真面目なのに、不真面目を装う。これは、自己否定です。慢性的な自己嫌悪を引き起こし、危険なのは、自殺にまで追い込んでしまう。
 自分を信じるという事ができないことは不幸である。不幸の始まりです。今の教育は、自分が信じられないようにしておいて、それを巧妙に、その人自身が自覚できないようにしている。

 今、一番怖いのは、自己喪失である。それは、自分を信じる事ができなくなることである。主体性と言いながら、巧妙に、主体性を喪失させる。そう言う教育が横行している。その結果、自己分裂や自己否定、自己嫌悪に陥る者が続出ている。それを難しい精神病で説明するのは良いが、本質的には、自己を取り戻さない限り、治らないのである。

 所謂(いわゆる)、民主主義教育のキーワードは、第一に、主体性。第二に、個性、独創性。第三に平等であろう。この考え方そのものに間違いはない。しかし、問題は内容である。
 考え方は正しいのだが、それが教育になると矛盾だらけになる。矛盾だらけになる理由は、主体性や独創性、平等の意味もわからずに無闇やたらと言葉だけを乱発するからである。

 主体性も個性も自己から発する考え方である。

 皆のと違う事をやることが独創性、個性だという。その癖、全てを同じにしろと言う。教えている事が矛盾していることに気がついていない。他人と違う、つまり、他人との差を個性というわけではない。

 人の顔が皆違うように、人の本性は皆違う。人と違うことをやることが、個性でも独創性でもない。自分が自分であることが、個性であり、独創性なのである。個性的にならない方が難しい。個性だ、独創性だというなら、同じ制服を着せればいい。すぐにその人間の個性や特徴が際立つだろう。それを個性や独創性を際立たせるために、制服を廃止しろと言うのは、物の本質を理解していない証拠である。

 現代人は、干渉されることを極端に嫌がる。仕事を任せられると、相談も報告もしなくなる。任せたのだから、何も言うなと言わんばかりである。俺のものだと思いこんでいる。

 現代人が干渉をされるのを嫌うのは、仕事を任せると言う事を仕事を自分が勝手にやって良いことだと取り違えるからである。

 先日もサッカーのことで、選手一人一人の自立に任せることで、云々という事がでてきた。それを聞いて、嗚呼、また、錯覚していると私は思った。自立性に任せるとか、主体性に任せると言う事と、規律とは、相反する発想ではない。任せられたからと言って、相談もせずに、独断で事を行って良いというわけではない。もともと、組織的な行動から逸脱することではないのである。選手一人一人の主体性を信じて任されたのならば、逆に、相談や報告、連絡を密にする必要がある。なぜならば、判断、決断を任せられたのだから、共通の情報がなければ、統一、統制が保てなくなるからである。報告や連絡をしないで勝手に判断し、行動されたのではたまったものではない。それは、それまで、自立した人間として、責任ある人間として行動してこなかったからである。自立した行動には必ず責任が伴うのである。それを忘れてもらっては困る。

 任せられて最初に考えるのは、責任であって、権限ではない。権限は、何かをしようとしたときにはじめて生じる。それに対し、責任は、任せられた時から生じるのである。
 だから、報告をするのは、義務である。ところが、報告や情報を求められると、それを干渉したことと錯覚する。明らかに、勘違いであり、躾が悪いのである。

 では、主体性とは何か。自らすすんで責任を引き受けることである。自らすすんで責任を引き受ける姿勢がなくて主体性は保たれない。

 我々は、民主主義というのは、他人の意見をよく聞いく事とか、他人の意見を尊重することだと教えられてきた。しかし、そこには、大事な大前提がある。その大前提を故意か教えてこられなかった。その大前提というのは、自分の考えを明らかにした上でという事である。つまり、自分の依って立つ考え方を明らかにするということを大前提として、他人の意見を聞くことも尊重することもできると言う事なのである。自分の立場や考え方を明らかにせずには、他人の意見を尊重できない。自分が何を考えているかは、秘匿したまま、相手の考え方だけを聞くのは愚劣、卑怯である。つまり、自らの責任を先ず明らかにすることが前提条件なのである。
 当たり前なことである。その当たり前なことが守られていない。

 マスコミは、自分の考えを持たず、自分の意見もハッキリさせない。それを公正、公平、中立だという。それは、自分で自分の立場を否定していることであることに気がついていない。自分達は、自分の意見に責任を持たないと言うのに等しい。それがマスコミである。

 自由というのは、自分があってはじめて言える。自分の考えや意見を明らかにできなければ、自由とは言えない。自分達は、不偏不党、中立なのだと公言している者に言論の自由はない。それは、自分達の考えがないと言っていることと同じだからである。だから、今のマスコミには、言論の自由はない。

 自分達は、誰を支持し、誰に反対しているかを表明した上で、言論の自由は保障される。言論の自由とはそう言う概念である。

 今のマスコミの論法は、先ず、暗黙の了解、合意があってその上で展開されると思っている。マスコミの中立公平という考え方が典型である。戦争を例にとると先ず戦争は悪いという暗黙の決まり、決め事があって、その上で議論が成り立っている。そうなると、戦争に疑問を持つだけで、戦争を肯定しているととられかねない。これでは本質的な議論ができなくなる。議論が成立する余地がなくなるのである。最初から結論が決められていて、それに沿って議論が進められているに過ぎない。主体性や独創性なんて入り込む余地もない。

 主体性とは、自己の本性の中にある。故に、主体性の確立とは、自己の本性の解放であり、再発見である。

 主体性は、外部から与えられるものではない。自己の内部に眠っている可能性、潜在的能力を引き出し、それを伸ばすことである。ある意味で自己の再生である。その為には、自己を抑圧している要素を取り除くことである。
 その為には、先ず自分を信じる事である。

 大切なのは、自分なのである。皆と同じ事をしていたら、主体性も独創性も関係ない。だからといって殊更に他人と違うことをしてもそれを主体性とも、独創的とも言わない。要するに、自分なのである。隷属でも、独断でもない。自分なのである。そこに、主体性と、独創性の本源がある。横並び主義は、主体性のなさの証拠である。

 主体性というのは、自分の内部に本来備わっているのである。




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