英才教育に関して

 韓国で、八歳の子が飛び級で、大学に入学になったことが話題になっている。この話を聞いて家内が、親のエゴだと嘆いていた。勉強ができるからと言って何も、八歳の子供を大学に行かせる必要がない。勉強が好きならば、学校に通いながら、好きにさせればいいと言うのである。たとえ、低年齢で大学を卒業しても社会人として生活ができるわけではない。子供は子供よ。それほど勉強ができるのならば、何も焦って大学へ入れる必要もない。八歳の子供を大学に入れるのは、その子の意志ではなく、親の意志よと言うのである。

 確かに言われてみるともっともなことである。少年期は、むしろ、情操教育、人格形成に重要な時期である。同世代の子供達と切り離し、自分とかけ離れた世代の集団に入れることの方が余程弊害が多い。

 勉強をただ、早い時期にやればいいというか、受験戦争の延長線上でしか捉えていない証拠である。教育本来の目的が見失われているから、この様な発想が生まれるのであろう。ただ、早ければいいと言うのではない。教育の本質は、成長である。

 友達や仲間との交歓を通じて得るものも沢山あるはずである。また、数学や物理だけが学問ではない。自然に親しんだり、いろんな人と出会って話し合う事も大切である。せっかくの才能も偏向した世界に浸ってしまえば、むしろ偏ったものになってしまう。
 順応性が高ければ高い程、周囲の環境に影響されるのである。

 なぜ、それほど慌てる必要があるのであろうか。成長は、速度を競うことではない。他人より早くできたからと言って偉いわけでも、優れているわけでもない。他の人の倍時間をかけても他人より優れた仕事をした者はたくさんいる。早いと言っても、ただ、早熟なだけの者もいる。もし仮に優秀だというのならば、焦らずとも実力を発揮することはできる。

 むろん、逆に、他の人間の歩調を合わせて、抑制する必要もない。ただ、速度だけを競うような教育は、かえって弊害だと言っているだけである。
 受験勉強の中で、学校教育は、本質を見失っている。飛び級や早期入学を頭から否定する気はないが、教育は、ただ成績だけに現れるものではない事を忘れてはならない。その人間の情操や人格、社会人としての適正も、当然、問われるのである。

 早く上級の学問をすることよりも同世代の仲間との集団生活によって社会性や人間関係を培(つちか)うことのほう大切ではないのか。また、青春や仲間との語らいの時間を奪う権利が誰にあるのか。

 それこそ何のために、八歳かそこらの子供が大学に行く必要があるのか。その本質的なことを議論せずに、八歳の子供が大学へ入学するだけの能力があることだけを騒ぎ立てても本末の転倒である。

 結局、不幸になるのは、周囲の大人の思惑に振り回されて当人なのである。




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