哲学を学ぶ


哲学を学ぶと自殺するという間違った認識があります。

しかし、これだけは、ハッキリ言っておきます。
哲学と自殺とは全く関係ない。哲学と自殺を結びつけるだけでも、哲学を知らない者と言って過言ではありません。
哲学を勉強している者がたまたま自殺したと言うだけです。
ただ、自殺するようでは哲学なんて最初から勉強する力がない。
哲学は、第一に存在論。第二に、認識論。第三に論理学がしっかりしていないとなりません。
その為には、言葉の定義がしっかりしていないとダメです。
本当に哲学を勉強しているかどうかは、
立論、つまり、一つの命題、一つ一つの言葉の定義がしっかりできているかどうかで解ります。
言葉の定義は、先ず身近なところから始めます。
言葉の定義の仕方はいろいろあります。
語源からするもの。また、辞書に頼る者もいます。
しかし、僕は、直観的に命題を設定します。
定義は、主語述語がハッキリしていなければなりません。
日本人は、これが下手なんです。また、直接的な表現でなければなりません。
そして、論理的な展開を覚えます。この論理的展開も経験が必要です。
一つの命題を立てたら、そこから、何十万ステップも論理的展開をしなくてはならない。これがハードなんです。
だから、自分を厳しく律しないと精神的にまっいてしまう。
自殺するなんて、自分に甘すぎる者です。
哲学書をいくら読んでも哲学者にはなれません。
それは哲学学者です。
きちんと立論ができて哲学者なのです。

哲学は、世捨て人にはできない。
古典や他人の著作ばかりを研究しても学問は、成立しない。
医学部の人間は、医学書の古典や死体の解剖ばかりをしているであろうか。
医学が発達するのは、生きた人間を相手にしているからである。
機械工学の研究者は、古い書物を分析しているであろうか。
過去の遺物を再現することが仕事であろうか。
哲学の題材は、日常生活の延長線上にある。
小難しい理屈や、抽象的な観念を指して言うのではない。
人々の悩みや苦しみこそ、哲学の題材である。
恋愛をし、病に苦しみ、そして、死の影に怯える。
だから、哲学は必要なのである。
難解な理論によっては、人々の相談にも乗れない。
似非学者がしたり顔に批判する、一見陳腐な道徳訓にこそ哲学が隠されている。
物事の真理は、当たり前なところにしかない。
当たり前なことを説明しようとするとどうしても難しくなる。
しかし、本当に物事の真理を究めた者達は、それを解りやすく話してくれる。
ことさら難しくするのは為にしているだけである。
筋道を立てて、道理を説明するそれが哲学である。
哲学は、生きた学問である。
生きている世界をこそ相手とすべきなのである。




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