死への恐怖、死という現実


 我々は、近代科学が発達する以前の人間を迷信に囚われた、無知蒙昧な人間として決めつけている。しかし、例え迷信だとしても彼等は、死後どうなるかを自分達は知っているつもりであった。死後の世界を確信していた。現代人は、その迷信すら信じられないのである。
 現代人は、死という現実すら受け容れられなくなりつつあるようである。人が死んでも、その現実を理解できない。だから、それを人の性にして無理に納得しようとする。
 事故があっても、それを宿命・運命とは、捉えない。人災だと喚きちらし、何らかの賠償を勝ち取ろうとする。しかし、何らかの賠償を勝ち得たとしても、それは、生き残った者のためにであり、死んだ者のために何もなっていないことに気が付いていない。そして、死んだ者を悼む心すら失っている。
 特に、戦後の日本人には、この精神が顕著である。戦争の悲惨さ、残酷さを強調するばかりで、戦争の犠牲者達の名誉も遺志も忘れられている。結局、死んだ者は、馬鹿で、間抜けで、生き残った者は、利口なのだと言わんばかりである。それは、生き残った者の、正義で、死者への追頌(ついしょう)ではない。
 それで、本当に死者は浮かばれるのであろうか。彼等の遺志は、引き継がれるのであろうか。少なくとも、生き残った者が、自分達のために、犠牲となった死者を侮辱する権利はない。
 戦争の悲惨さに目を奪われて、彼等の言い分に耳を閉ざしてはならない。それは、真実から目を塞ぐ事だからである。
 本当に必要なのは、死者への追悼である。

 戦争とは、何か。そこにあるのは、死に逝く者と生き残った者との間にあるギャップ、溝である。そして、我々が耳にする事ができるのは、生き残った者の言い分だけである。しかし、それでは、戦争はなくならない。

 人間は、死にます。不思議なことに医療が進歩し、少子高齢化が進んだ今日、この事実を認めようとしない。事故や病死というものを認めない傾向がある。そして、医者の責任にする。

 なるほど、科学技術が発展し、乳幼児の死亡率は低下し、多くの難病も克服された。しかし、死という現実は、何も解決されていない。むしろ謎が深まったようにすらみえる。死という現実に科学技術は、無力なのである。

 本来、宗教も芸術も科学も死への恐怖から逃れるためのものであったはずある。近代科学の発達は、この死という現実を目眩(めくら)まししているにすぎない。ところが、現代人は、その事実を自覚していない。だから、既成の宗教を迷信だとしりぞける。しりぞければ、しりぞけるほど死後の世界に対する確信は薄れる。

 だからこそ、死にたいする恐怖は納まるどころか増している。現代人は、その事実から目をそむけている。だから、妙な宗教が流行る。

 所詮、最後に問題なのは、その人の死に様なのだ。なぜならば、人は、死ぬのだからか。少なくとも、ほとんどの人間は、自分は死ぬと思っているのだから。

 もし仮に、自分の死によってあらゆるものが無に帰すと信じるとしたら、その者にとって人の一生は、生まれた時から、全てが虚しいであろう。なぜならば、自分の人生はあってもなくても同じ物だと断定するようなものだからである。それ以上の恐怖があるであろうか。自分が生きていても、いなくとも結果は、同じなのだという恐怖、それが死に、対する恐怖の本性である。人は、この恐怖に耐えられない。だから、人は神を必要とする。

 死をどう考えるのか。つまり、死後の世界を信じるか。信じるとして、死後の世界をどう捉えるのかによって生き方が違ってくる。自爆テロをした人間が、よもや死後の世界を信じていないなんて事はなかろう。極悪非道なことをする人間は、死後の世界など信じてはいまい。そうでなくとも、自分の愛する者、家族を刹那的な快楽のために、捨てたり、道徳や正義などに無縁な生き方は、死後の世界を怖れる者にはできまい。では、科学は、死後の世界を否定しているのか。そこが判然としない。判然とさせないままに、自己の勝手に委ねている。そうなれば、必然的に自分の都合のいいようにしか解釈しない。結果、社会、風俗は乱れ、勝手気儘な生き方が横行する。
 だからこそ、元来が、教育は、宗教家が担っていた。死に対する恐怖でしか、真っ当な生き方を教える事ができなかったからである。その封印を現代人は、解いてしまった。そして、生み出したのが、原爆をはじめとする近代文明である。

 現代社会には、至る所に神がいる。映画の中やテレビの中にも、ビデオやゲーム、漫画の中にも神がいる。学校の中にも神がいる。神を否定する者は、自らを神とする。そして、神を否定した者にこの世は、満ちているのであるから、神は至る所にいる。
 現代人は、神を否定した。ならば現代人は、自らを神として崇めているのか。そこにまがまがしさがある。
 学校にも神がいる。教育者は、自説を絶対視して周囲の人間を見下しし、自らを神としている。教科書は、聖典である。しかも本来アンチテーゼであるべきものをテーゼとしている。男と女の差を認めた上で、いかに平等であるかを考えるべきなのである。それを、男と女の間に差はないと言ったらどうにもならない。アンチテーゼなど成り立たない。それは、死を認めないのに似ている。だから、時々、おかしな教師がでる。異端的な教えを正統的だと行う。アブノーマルが正常だと教え込む。こうなると教育も新種の新興宗教である。

 生きる事ばかりが全てではない。所詮、人は死んでいくのである。今日、運良く生き延びたとしても、明日つまらぬ事であっさり命を落とすこともある。

 死刑囚と、無期徒刑者の違いである。一方は、死を自覚し、一方は、死から逃れられると思っている。しかし、結果は、同じ死である。殺されるか否かの違いに過ぎない。人は、死の前に平等なのである。
 結果としての死を見ていたら、それは理解できない。結果は、同じだからである。要は、死に様なのである。生きるべき意義は、死すべき意義に通じる。なぜ、死に至ったかが問題なのである。戦争で死んだ者は、いたわしい。しかし、その大義は明らかである。その点、生き残った者は、無惨である。生き残ったことの意義を問い続ける。もし、ただ一人生き残った時の事を考えよう。無惨である。だから、不憫だと子を道連れにして心中する親が後を絶たない。

 子供の死はいたましい。しかし、それが現実ならば受け容れなければならない。乳児の死亡率が高い時代、高い所では、彼等は、厳粛にこの事実と向かい合う。そして、多くの子供を産むことで、子孫の繁栄につとめる。しかし、先進国と言われる国ほど、死という現実を冷静に受け止めることができない。その恐怖から、錯乱し、死者への哀悼の意を忘れる。結局、やっているのは、自分達が生き残るために必要な事なのである。

 死は逃れ得ぬ現実なのである。死をいかにして受け容れるか。また、死をいか、教えるか、それこそが教育最大の課題なのである。

 生と死。このテーマは、永遠のテーマである。そして、教育の本質は、生と死を突き詰めたところにある。人は、必ず死ぬのである。生と死を見つめて、自らの生き方を問う時、自分が学ぶべき道が見えてくる。




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