教育と思想

 思想や哲学は、結局、日常の判断に集約される。子供を叱るべきかどうか。どう人を愛するか。人生いかに生きるか。だから、哲学を実現するのは、教育なのである。

 現代人は、思想は、文言で表すものだと錯覚している。しかし、本当の思想は、生き様で表す物である。ファッションも思想表現である。特に、民主主義は、制度や仕組みで思想を表す。

 難解なことやよく解らないことを言っている方が哲学的だと思いこんでいる傾向がある。よく解らないお経の方が、高尚でありがたく感じるようなものだ。愛国心や世の為人の為などというのは、程度の低い大衆的教訓のようなものにしか思っていない。そこに俗に言う知識人の奢り、思い上がりがある。
 先に述べたように、本来、哲学も、思想も日常的な考え方を洗練した体系にすぎない。日常会話の延長で語られるものこそ真の思想であり、哲学である。さもなければ、庶民の生活に生かすことはできないのである。

 教訓や説教、小言を軽視、甚だしくは、馬鹿にする傾向がある。しかし、教育というのは、生活の場で日常的に繰り返し行われるべきものである。

 真ん中も左から見れば右翼なり、右から見れば左翼なり。

 難しいことをありがたがっているくせに、感覚的に思想や哲学を、簡単に色分けしてしまう。右翼というと、暴力的で、民族主義的、国粋主義的と決めつけて毛嫌いする。逆に、反体制、反権威を気取っていれば、進歩的と見なされる。
 右翼とは、元々、フランス革命の際、国民会議の議長の右翼にジロンド派(保守派)が座っていたことに由来がある。別に国粋主義者や全体主義者ばかりを指すわけではない。たまたま座っていた席の傾向に過ぎない。
 ところが、愛国心というと何でもかんでも右翼だと決めつける。フランス革命当時は、左翼の方が過激で、狂信主義的だった。
 
 保守というならば、護憲を党是とした旧社会党であり、革新というならば、改憲を主張した自民党である。
 問題は、その時代のムードに流されずに、真実を見極める目を養うことである。

 戦後は、反体制、反権威主義を標榜していれば、安全である。更にその上に公平中立であればいい。あるテレビキャスターの口癖に、彼等の言い分にも一部、解るところが良いと物わかりの良いところをみせる。しかし、結局は、自分の立場を曖昧なままにして話を締めくくる。何が言いたいのかさっぱり解らない。要するに、公正中立とは、自分の意見がないという事である。そうやって自分を安全なところに置いて、他人を批判、誹謗する。それは、戦前に、体制を擁護した連中と根本に置いて変わらない。時代の流れに身を任せ、主体性がないだけである。

 教育者が反体制的では、国家は成り立たない。

 世の為、人の為、国のためという発想は、思想や哲学だと戦後の自称知識人は、思いこんでいるらしい。しかし、残念ながら、思想哲学の根源は、世の為、人の為、国の為である。なぜならば、それがなければ思想も哲学も根無し草になってしまうからである。

 今の子供は、要のない弥次郎兵衛のようなものだ。それは、世の為、人の為といった人生における基本的考え方の礎石、根っ子が持てないことに原因がある。
 その言い訳に、戦前、国のためにと多くの教え子を戦場に送った云々と言う事がある。だからどうだというのだ。それは、戦争で死んだ者は、犬死に、無駄死にだったという決めつけ、思いこみに基づいている。戦争の犠牲者を侮辱していることに過ぎない。むしろ、同じような事態になった時、信念もないままに戦場に送り出し事に繋がり。或いは、侵略者に、虫けらのように殺されてしまう結果を招くだけだ。
 それは、戦争から何一つ学ばず、反省もせず、安易に、戦争が悪いと、戦争の責任にして自己の怠慢を誤魔化しているに過ぎない。

 戦前の思想や教育が悪いからといって思想や教育全般を否定してしまうのは、行き過ぎである。
 国家は思想がなければ成立しない。況や、教育が無思想ではあり得ない。ビジョンなき民主化は無政府主義につながる。国の仕組みや成り立ち、基本的な考え方を教えるのは、当然のことなのである。
 
 一度過ちを犯すと人は、罪悪感から逃れるために行動が先鋭化する。それは、戦後の教育にも現れているし、学生運動、過激派による後遺症のような形でも現れている。我々の世代はよく戦後というのは、太平洋戦争後という意味と大学紛争後という意味の二つがあるという。それは、戦後の虚脱感と大学紛争後の虚脱感に共通したところがあるからだろう。

 民主主義といいいながら最も民主主義的でない論理で教育が論議されている。
 教育改革でも、極右と極左が親や子供と関係のないところで、議論をして問題を起こしている。生活者としての視点、親としての視点がもっと重視されてしかるべきなのである。
 その意味でも、まず、学校や先生を親に選ばせ、その上で、カリキュラムや教科書の選択に対し、親や子供の意見を反映させられるようにする。このように親の選択肢を増やすべきである。
 すくなくとも、親の意見ぐらいは聞かなければ。まるで親の意見は無視している。親を教育の素人だと馬鹿にしているみたいだが親は、子育てのプロであり、教育は本来、子育ての延長線でとらえるべきだ。

 なぜ義務教育なのか。
 民主主義は、制度、仕組み、手続き、法によって表現される思想だからである。だから、民主主義の思想を実現するためには、参政権を持つ者は、民主主義の制度、仕組み、手続き、方を熟知していなければならない。
 日本は、与えられた民主主義である。しかし、真の民主主義は自分達の力で勝ち取る者である。

 日本は、民主主義国といいながら、民主主義も自由も全く信じていないように見える。体制派の人間は、国粋主義や全体主義を信奉しているようであるし、反体制主義者は、共産主義や社会主義を信じているようである。どちらも民主主義や自由主義を騙りながら実際の所は、民主主義や自由主義に否定的だ。これでは、教育の現場から民主主義や自由主義が排除されるのが当たり前だ。

 表現の自由、言論の自由、思想・信条の自由に対するジャーナリストの姿勢も問題である。自由や平等を口にする時、何をもって自由とし、何をもって平等とするのかを明らかにするのは、言論人として当然の義務である。しかし、自分の定義ではなく、他人の定義や言葉を引用しながら、自分の立場を明らかにせず、自分に都合のいいように解釈する。一方で検閲を避難しながら、言葉狩りやメディアの力を借りて、反対意見の言動を検閲する。
 自由も平等も個人主義においては、自己を基礎とした概念である。基本は、自己概念であり、規制する側の問題ではない。同時に、放送局やメディアは、それ自体が一定の思想の基に成立しており、その機構を利用して表現をする社員は、母胎となる組織の論理を無視して表現をすることは許されない。
 テレビ局は、テレビが、視聴者に与える影響に対して、特に、子供達に与える影響に対して責任があるのである。俗に言う俗悪番組や幼児期におけるテレビの影響に対してテレビ局は、明確に規定があって叱るべきなのである。
 この様な自主規制と表現の自由とは矛盾しない。むしろ、テレビが視聴者に与える影響を無視して放送し続けることは、表現者が表現の自由を否定する事につながる。
 結局それは、テレビ局の自己正当化に過ぎない。

 世のため人のため、国のためと正々堂々と言える団塊の世代のジャーナリストがどれ程いるであろう。しかし、世のため、人のため、国のためにならないジャーナリズムとは何なのだろう。ならば、世のため、人のため、国のための堂々と言えないジャーナリストに何を期待すべきなのであろうか。それどころか、反社会、反国家、反倫理を標榜している者のお先棒担ぎや提灯持ちをするようでは、表現の自由、言論の自由どころではない。そこに、ジャーナリストの正義などかけらもない。世のため人のため、国のためどころか、国家・社会を破滅に導いている。何を自分は、正しいとしているのか、それをハッキリさせなければ、それは、ジャーナリストにとって保身にすぎない。

 自分が勤めているテレビ局が暴力的な子供向け番組を作り、卑猥で、下品な番組を作っているのを抑制させることができず、なぜ、暴力を否定し、戦争を否定し、犯罪を糾弾できるのか。

 明確な信念もなく、自己を正当化することばかりを繰り返しているのも、団塊の世代の特徴である。
 団塊の世代は、自分達が何によって立っているのかそれを自覚すべきなのである。

 個人主義をエゴイズムと、はき違えている者がいる。為にする、わざとはき違えているのではないかと思いたくなる者すらいる。個人主義とは、あくまでも個人に立脚し、個人の幸せを追求することを目的としている思想である。
 人に迷惑をかけなければ何をしても良い、それが自由なのだに代表される考え方は、個人主義的な考え方ではない。なぜならば、、大前提としての個人の幸せ、その根底にある自己善に対する視点が欠けているからである。故に、人に迷惑をかけなければ云々というのは、エゴイズム・利己主義であり、個人主義の対極にある思想である。
 個人主義の核は、自己善であり、我欲ではない。それを実現する力は、意志であり、欲望ではない。自己善を追求する為には、私利私欲を厳しく戒めなければならない。個人主義は、厳しい自己抑制が求められる。自己善の実現が、自由の実現なのである。欲が人を惑わし、自制心を失わせる。それが、人を不自由にすると厳格な個人主義者は、ストイック、禁欲的ですらある。
 故に、個人主義者の徳目は、修身である。根本は、修業である。宮本武蔵や一休禅師のような修行者、修道者更に言えば、釈迦や孔子、老子こそ個人主義者の典型である。

 学校で正式に思想や価値観を教えることは許さないが、教師が個人的に押しつけることは、思想信条の自由の名の下に野放しである。結果、偏向した思想の持ち主が我が物顔で学校を徘徊する。

 学校は、一部の教師の実験場ではない。

 学校が必要ないと思ったら、進学を諦めさせる親の勇気も必要である。




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