師弟関係(師と先生)

 昔の教育は、師が全てだった。良き師を求めて、遍歴の旅をしたのである。良き師に出逢えれる時は、人生にとって最良の日となるのである。ある意味で、師を見つけることが修業の全てだったと言っても過言ではない。師は求める者であり、与えられる者ではありません。だからこそ、師弟の絆は強かったのである。
 地域コミュニティも良き師を捜し、高額の報酬で招聘したのである。

 この時代の教育といえば第一に道徳であり、人格形成であった。今の教育は、作業であり、労働に過ぎない。それは、教育者自身がそのように卑しめたのである。

 教育は、思想であり、哲学である。教師は思想家であり、哲学者である。
 教育に客観性を求めること自体間違っている。教育は、主観的なものである。だからこそ、保護者と社会、そして、教師との間に深い共鳴・共感が必要なのである。親は、自分にとっての一番の宝物を一時と言えど、預けるのである。意に背くような教育をし、染め上げられたら堪(たま)らない。

 教育というのは、特別な仕事である。誰にでもできるという仕事ではない。人間とし、その人を信頼し、受け容れられるかどうかが一番の問題なのである。ところが、現行の教育においては、それが、許されない。これは、一種のファシズムである。

 少なくとも教育者には、志が必要である。志をもって先ず世に問うのである。その志が社会に受け容れられてはじめて教育者たりうる。

 志すとは、今自分にはできないけれど、将来必ずできるようになってみせるというようなこと。今、世の不正をただすことは、できないけれど、必ず将来自分の手で世の中をよくしてみせるとか。今は、自分には能力がないけれど、必ず、将来、能力を身につけ、世の為人のためになる。そのために修行をするといったことが、志である。世の中が悪いのだから、自分には、力がないから仕方がないと諦めてしまえば、志を立てることはできない。

 教育というのは、特別な職業である。なぜならば、教育には、志が問われるからである。単なる労働ではない。だから、人格を無視した所に採用基準をおいてはならないのである。では、誰が師を選ぶのか。それは、最終的には、生徒である。しかし、未就学児に師を選ぶ力はない。故に、ある程度、物事をわきまえられるようになるまでは、保護者と社会が代わって選ぶのである。
 教育というのは、ただ単なる作業ではない。知識や技能を習得していればできるというものではない。何よりも人格が問題なのである。

 教育は、聖職でなくなり、教育者は、ただ単なる労働者になったのである。なぜならば、教育者は、志を問われなくなったからである。保護者や社会と志を共有できないものの教育は、有害なのである。それ故に、思想信条の自由が問われるのである。自分の思想信条を明らかにし、それを社会と保護者に容認されなければ、教育者として採用すべきではない。なぜならば、教育は、私的な労働ではなく。公の仕事なのである。それが、他の仕事と決定的に違うことである。公に背くようなことは教えてはならない。それは、公教育の鉄則である。

 戦後、教職員の思想の自由と結社の自由が保障された。だからといって、それが教育の場を政治闘争の場にして善いという事を意味しているわけではない。
 元々、教育者は、思想家である。しかし、同時に、保護者や地域コミュニティの委託を受けて子弟の教育をしているのである。保護者や地域コミュニティの意志を無視して、勝手に思想教育をすることは許されない。それも、反家族的な教育や反体制的な教育をするのと教職員の思想信条の自由とは、別の次元の問題である。

 教育の場を実験場にされたら堪(たま)らない。家を建てるのに、施主の意向を無視して勝手に大工が建てるわけにはいきません。食事をするのに、料理人が勝手に作って出せばいいで、客は、黙って食べるでしょうか。ところが、教育は、保護者も生徒も文句一つ言う事すら許されません。それを不思議にも思わない。家や食事どころか、教育は、自分の子供を任せるのである。それなのに、親の意見は一向に聞かれず、信頼も尊敬もできない相手に自分の生き方とは相容れないような思想を吹き込まれる。そんな理不尽なことが果たして許されるのだろうか。

 尊敬という言葉が教育の現場から失われようとしている。
 師という言葉、敬意と尊敬をもって使われた。尊称である。三尺下がって師の影を踏まず。仰げば尊し我が師の恩と師への思いを綴ったものです。しかし、今は、師への思いは、薄くなりました。大体、かつての師は、人生の師と言われ一生影響を与え続けたのです。しかし、今は、学校にいる時に過ぎません。

 志がなければ、先生になれても師にはなれない。でもしか教師と呼ばれて久しい。先生にでもなるか。先生にしかなれない。そう言う人間である。しかし、でもしか先生に教わる者は、堪らない。教師という職業は、失業対策でも逃げ込む先でもない。ひねくれた人間が教育すれば生徒はひねくれる。そう言う教育者を教育の現場から排除するのは、親の勇気である。

 師に求められるのは、人格である。教える事、自分が担当する教科は、三年もやれば覚えられる。しかし、人格は、別である。
 現行の教育では、人格は、求められていない。

 教育者は、求道者であるべきである。一生、教える事を通じて、学び続ける覚悟が、必要である。

 教育は、教育者の意識改革から始まる。教師の意識が問題なのである。自分は、人を教えてやるのだという高見から人を見下す姿勢が問題なのである。それでは、先生になれても、師にはなれない。人にものを教えるというのは因果な商売である。人を教え導くためには、自らが人を教え導くものを持ち続けなければならない。自らが手本とならなければならない。自らに規律、戒律を課さなければならない。それは、一種の業である。一生学び続けることに依ってしか、その因果から抜け出すことはできない。先生と言うだけなら、資格を取ればなれる。しかし、それは、たまたま、教職としての仕事を得、それを生業にしているに過ぎない。本当の師になるためには、常に、自分を磨き続けなければならない。それほど崇高な仕事なのである。世にある者、全てが師である。生徒は、生徒であると同時に、師でもある。その気持ちによってのみ救われるのである。

 人間とは、何か。人生いかに生きるべきかという、根本理念が今の教育には、欠けている。だから、良き師が育たないのである。教育は、文化である。その文化が歪んでしまえば、教育は、歪むのは、当然の帰結である。

 かつ、士大夫が学んだのは、道徳と歴史である。そして、庶民が学んだのは、読み書きそろばんである。どちらも生きていく上で必要なものだった。
 では、士大夫は、なぜ、歴史を学んだか。それは、人生いかに生きるべきかを知るためである。
 
 教育の歪みは、学校や教育者に一番の負荷をもたらせる。そう言う意味では、学校や教育者が一番の被害者である。

 学校教育の歪みを一番受けているのは、学校と、教育者なのかも知れない。特に、学校は、特殊な社会であることを自覚しておく必要がある。

 先生は生徒に依存しているが、生徒は先生に依存していない。しかし、先生は生徒に依存してもらはないと学校は成り立たない。そのために、学校では先生に権威を持たせてその地位を確立しようとする。そこから、権威主義が始まり、人間関係がゆがめられる。

 いろいろな教育論や制約が、親も教師も社会も臆病にしている。自分達の経験をもっと信じるべきなのだ。

 いじめで問題なのは、生徒間のいじめではなく。教師と生徒間のいじめである。学習の根本は、真似である。だから、いじめは、生徒に対する教師のいじめが反映されている。教育者が子供をちゃんと叱れないから陰湿ないじめが流行る。その根本は、教育者が、自信をなくし、教育の本分を見失っていることである。
 虐めの原因を作っているのは、教師である。その事実に皆、目をつぶっている。しかし、虐めの原因を作っているのも、虐めているのも、実は、教育者であることが一番多い。親が躾と虐待の区別がつかないように、教育と虐めの境目が解らない教師が多くいるのである。それを自覚しないと、いじめの問題は解決されない。

 教育というのは、本来、受ける側が、教える側に頭を下げてお願いするものだ。それに、何を学びたいかは、学ぶ側が決める事である。今は、義務教育とか言って教える側が、強制的に、教えることも教え方も決めてしまう。その上で手取り、足取り教える。だから、教わる側は、教わってやっている教えられているという気持ちになる。結果、教師より、生徒の方が偉そうになるし、また、教師の方が下手になることになる。先生を尊敬するなんて夢のまた夢。これは、おかしい。人が一生をかけて体得したものを、一朝一夕で、身につけようと言うことの方が虫がいい。日本人は、本来、人に教えを請う時、門前に三日三晩、土下座して、許しを請うたものだ。

 かつては、弟子が師匠の身の回りの世話をするのは当たり前だった。むしろそれこそが重要な教育の一環としてとらえられた。そして、それは、師に対する畏敬心に支えられていたのである。その畏敬心の根源は、師たる者の人格である。

 師と弟子とは、強い絆で結ばれいている場合が多い。時として、それは親子の情愛をも凌ぐ事すらある。その証拠に、師弟愛は、多くの文学作品にも取り上げられた。結婚式の際、誰かしら人生の師と呼べる人、恩師を招くのが、日本の習わしですらあったのである。その強い絆が、今断ち切られようとしている。





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