誉める事と叱る事

 練習しなければできないことがある。多くの人は、その点に、気が付いていない。簡単な挨拶だって、挨拶の練習しなければできない。挨拶しなさいと言葉で指摘するだけでは、身に付かないのである。
 挨拶ができる人には、簡単なことでも、挨拶のできない人にとっては、大変な苦痛なのである。
 それも、三歳の子供でもできるような事が、二十歳を過ぎてもできないとなると、これは、かなりの重傷だと思わなければなりません。しかし、誰も教えてこなかったんですから、当人を責めても、仕方がないのです。
 一流の料亭では、接客の基本を最初にきちんと教えます。ところが、大衆食堂では、何も教えずにいきなり叱る。
 不思議なことに、一流といわれるところでは基本は、採用は厳しいのに、できてないという前提で考えている。大衆食堂では、採用はそれほど厳しくないのに、基本はできていると考える。教えなくてもできる者に対して基本から教えているのに、教えなければできない者にたいして、何も教えない。それではできなくて当然であり、差は開くばかりである。多くのことは、できなくて当たり前なのである。ところが、できて当たり前だと言って叱る。それでは、子供は言うことを聞くはずがない。
 成人式でのトラブルが良い例である。教育もしないで、躾が悪いと言ったところで、教育をしていない人間が悪いと言われるのがオチである。学校では、言葉による教育しかしていないのである。社会に出て何もできないのは当然である。
 挨拶ができない。口のきき方が悪い。報告の仕方が解らない。仕事の準備ができない。整理整頓ができない。計画が立てられない。相談しない。お礼ができない。行儀を知らない。マナーが悪い。常識がない。段取りができない。手順が悪い。接待ができない。接客ができない。出迎えができない。見送らない。人前で話ができない。宴会がきらい。指導できない。教わり方を知らない。酒の飲み方を知らない。付き合いが悪い。人付き合いができない。後片付けをしない。友達ができない。恋愛ができない。手紙が書けない。指示が出せない。打ち合わせや会議できない。何を、どう決めたらいいか解らない。伝票が切れない。仕入れができない。購買ができない。物が作れない。掃除ができない。電話のかけ方を知らない。料理ができない。服装がだらしない。化粧が悪い。
 いいですか、今、言ったことは、学校では教えていないのです。じゃあ、誰が、躾たんだ。そうです。誰も躾ていないのです。それで、馬鹿の、間抜けの、今の若い者はといったってはじまらないではないですか。彼等の言うとおり、教わっていないからできないのです。

 「学はあってもバカはバカ」(川村二郎著 かまくら春秋社)という本がある。その中で、著者は、「私は、世間でエリートと呼ばれているバカを、たくさん知っています」といっている。こうも言っている。「立派な大学を出ていても、役に立たない人がいます。私は、そう言う人を『学はあってもバカはバカ』といいます」

 あの人は、一流の大学を出て勉強はできるけど、馬鹿です。言葉を重視した教育ならば、そう言う人がいることは、充分、考えられるのです。一流大学を出ても挨拶一つできない。箸の上げ下ろしも満足にできない。常識がない。そう言う人間が増えているのです。何の不思議もありません。今の学校とはそう言うところです。

 多くの人が、挨拶の仕方や口のきき方は、練習や訓練を必要ないと思っているふしがある。しかし、挨拶の仕方、口のきき方、接客の仕方は、練習し、訓練しなければ身に付かない。むしろ、挨拶や口のきき方、接客の仕方こそ、練習や訓練が必要なのである。
 ちなみに、喧嘩や虐めにも訓練が必要である。喧嘩や虐めは、訓練をしていない者がすると相手を無用に傷つけ、酷いときは、相手をしに至らしめる。しかも、喧嘩や虐めは、相互作用であるから、自分をも傷つけてしまう。喧嘩や虐めは、両刃の刃なのである。

 練習や訓練で必要なのは、誉めることと叱ることである。
 誉め上手、叱り上手という言葉がある。誉めることは、差の人間のやる気、意欲を生み出す。叱ることは、自制心、抑制心を養う。そのいずれもが重要な働きをする。
 誉め方や叱り方も練習しなければ身に付かない。訓練しなければ身に付かないのである。誉めることも叱ることも一歩間違うと相手に間違った認識を与えてしまう。
 人間は、周囲の人間の反応を見て自分を知るのである。誉め方や叱り方を間違うと、自分の像が歪んでしまう。歪んだ自分の像に基づいて判断を下せば、必然的に間違った判断を下すことになる。
 コンプレックスや劣等感がその人の人格に与える影響は、その劣等感の捉え方の質によって違う。自分の像に歪んだ感情を持てば、劣等感は、マイナスに作用する。

 つまり、日常的に繰り返される称賛と叱責によって人は、自分を知り、自分の生き様を決定しているのである。誉めることと叱ること、それは、教育の原点である。

 意識は、自己の内面に描かれた世界(イメージ・描像)を土台にして築かれる。この様な描像・イメージは、過去の経験とその時の状況、自分の感情、感覚に結びつけられて形成され、記憶される。良いイメージを持たずに悪いイメージしか描けなければ、能動的な積極的な行動を触発することはできない。例えば、失敗したことばかり思い浮かばなければ、どうすれば成功するかの鍵はつかめない。意識は、最初に土台にしたイメージにとらわれる傾向がある。悪い事ばかり考えると良い方向に意識を向けられなくなる。
 つまり、良い印象に基づかないと、発展的生産的な考え方ができない。故に、快適な印象や成功のイメージを持つことが大事なのである。

 良い描像か、悪い描像かは、外部の評価に依存している部分が大きい。つまり、外部の評価がそのときの印象と結びついて、確定する。そして、誉める事は、快適な印象を強化することなのである。

 しかも、この様な描像は、言語的にしまい込まれる、つまり、保存されるわけではない。映像や音、匂い、感触と言ったものが複合的にしまい込まれるのである。
 誉めるという行為も叱るという行為もこの様な記憶を形成するために、重要な働きをしているのである。

 人は、自分が生きていく上に役に立つことが明らかであったり、自分のためになることだと自覚できれば、叱られても、受け容れることができる。しかし、なぜ、自分が叱られなければならないのかが、明らかでなかったり、納得できなければ、従わなくなる。それが、集団を統制する目的だけにあるとすれば、反抗的になるか、無気力になるのは必然的である。叱るにせよ、誉めるせよ、その目的を明らかにする必要がある。しかし、その目的が学校には、最初からない。そうなると、学校・学級が崩壊する原因は、学校・学級の根底に最初から存在することになる。目的は、観念ではなく。現実である。だからこそ、目的は、押し付けるものではなく、教わる者自体に、見いださせるものでなければならない。だからこそ、教育は、教わる側にある程度の選択肢がなければ成り立たないのである。
 学校を選ぶ権利も、先生を選ぶ権利も、学課を選ぶ権利も与えられていなければ、教育は、成り立たないのである。そんな状況でいくらゆとりを持たせても、休日を増やしても実効力はあがらない。




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