聖と俗(賤商主義)


 金儲けの話は、卑しい事だみたいな考え方が、教育者にはどこかある。教育を金儲けのネタにしてはいけないという事から、金儲けに関して教えるのは、卑しい。果ては、金儲けの話は、下品だといった考えである。これは、教育者というよりも、公の立場に立つ者の姿勢としてある。しかし、結局、金儲けは、避けて通れない。金儲けの話が卑しいのではなく。避けて通ろうとするから、卑しくなる。そうでなければ、卑しく見えるのである。
 金儲けが全てではない。それは、正しい。しかし、だからといって金儲けを否定するのもおかしい。オール・オア・ナッシングではない。金儲けは、大切である。しかし、この世には、金で片づかない問題もある。これは、二律背反な関係にある話ではない。両立できる話である。重要なのは、バランスである。だから、モラルが必要なのであり、教育が必要となるのである。
 
 学問に携わる者は、学問というのは、神聖なもので、世俗的なものとは、無縁だと思い上がってはいないだろうか。しかし、学問とは、本来、俗ぽっい、世事なものである。俗ぽっくて、世事なものだからこそ、大事であり。必要なのである。

 学者は、世事に疎いことを尊ぶ気風がある。それが美徳であるようにすら思っている。しかし、それは、勉強不足を誇っているような者である。経済の解らない経済学者である。

 特に、この傾向が哲学をやる者に多いのは、残念なことである。哲学ほど、俗なことを扱っている学問はないのである。結局、日々日常的な揉め事や争い事の背後にある原因を探求するのが哲学なのであるから。最も人間くさいのが哲学なのである。だからこそ、哲学は、満身創痍になる覚悟がなければできないのである。

 哲学を難解で小難しいものにしてしまったのは、日本の哲学学者の罪である。野暮なのである。哲学というのは、本来、日常的な志向を洗練したものにすぎない。普段我々が日常的に使っている言葉で表現できないとしたら、それは、その哲学者の敗北である。解っていないのである。仕事や学校を決める時、恋愛観や人生観を語る時、誰でも哲学を語っているのである。人生訓のようなものでも一種の哲学である。哲学とは、それほど、身近で簡単なものであるはずなのである。
 教育の在り方も哲学である。喧嘩をさせるべきか、否かは、哲学的な問題である。ところが、多くの教育者は、訳知り顔に、高邁な理論を駆使する。その為に、教育の目的が訳の解らないものになってしまった。現実離れしてしまったのである。哲学なんて、高邁なことではない。本来は、下世話な事なのである。だから、万人に理解でき、万人に役に立つのである。

 最初から高邁な理想など子供たちに押しつけたところで意味がない。子供たちが持つ単純素朴な好奇心に、応えていくことから始めるべきである。だいたい、子供の素朴な質問にこそ物事の真理が隠されている。それに、真摯に応えられない者が、どうしてこの世の深遠なる真理を語る資格がありようか。

 一方で子供扱いをしながら、一方で、高邁な理想や理念を、子供たちに、押しつけていこうとする。それは、親のエゴであり、教える側のエゴである。自分でも、解らないことをさも解った風に教えようとする。さもしい根性である。

 高等数学は、現実の社会ではあまり役に立たないと言いながら、数学的思考が役に立つと強弁する。知識や技術は、使っていないと忘れてしまう。学校でしか使わないようなことを教えて何になるのだろう。人生は、短いなんて、一方で最もらしいことを言っておいてである。

 役に立たない知識とは、価値のない知識です。つまり、学校では価値のない勉強をしてきた。価値のない勉強だから、強制してきたのです。
 そこには、何を相手が求めているのかに対する思いはどこにもない。自分の考えは、神聖のものであるから、それを教えてやるといった、高見から見た教育である。子供達と同じ視線で見た学問ではない。

 そして、先生は、子供達の素朴な質問に応えようとせずに、自分の教えたいことを教えているのである。これでは、子供達が、学校に行きたくなくなるのが当然である。

 学問は、神聖であり、功利主義的なものは卑しい。実用的な世界は、功利主義的なものだから実用的なものは、卑しい。だから、学問の対象にはならない。そんな考え方がはびこっている。だから、民間企業に就職した者よりも研究室にとどまって研究している者の方が上等な人間であるかの如き錯覚がある。しかし、優劣は、つけがたい。強いて言うならば、民間に勤めている者は、市場で自分の研究が常に検証され続けているという点である。

 産学協同や産学官協同、産学複合体のようなものを学問の堕落のように思っている学者や言論人がいるが、それこそが、学者の思い上がりなのである。賤商主義の現れである。学問は、実際の社会に役立ってこそ価値があるのである。

 よく経済を尊べというと拝金主義的な考え方と誤解する者がいる。経済を尊ぶことと拝金主義とは違う。むしろ、対極を為す思想である。経済を尊ぶ者は、質素倹約を旨とする。拝金主義は、ともすると成金主義に陥り、意味もなく金を浪費することにもなる。経済というのは、元々、経国済民、経世済民という意味である。つまり、国を治め、民を救うという事である。経済に疎い者は、無闇に金に汚くなるか、浪費家になるかのいずれかである。

 金の為になら、どんなことでもすると言う奴は、金の価値、経済の意味を知らない証拠である。

 大多数の者は、世俗的な世界に住んでいる。また、世俗的な世界に生きていかなければならないのである。世事のことを卑しく思っていたら教育はできない。
 生きた学問というのは、世の中で活用されている学問である。文字通り生きているのである。死んだ者の言った言葉を解釈するような解剖学的な学問ばかりをしても、生きた学問を教えることはできない。




                content         


ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2005.2 16Keiichirou Koyano

教   育