洗    脳

 会議を開くと何でも反対する人間に出逢うことがある。そう言う人をよく観察すると本当に反対しているのではなく、表面的に反対していたり、条件反射的に反対したり、一定の結論や決定が出されるのを怖れて反対しているケースがある。
 こういう人とは、議論しても無駄なのである。なぜならば、彼が問題にしているのは、そこで示されている内容ではなく。発想法にあるからである。議論することが目的であるような思考回路が組み込まれていて、問題を収束するための思考回路を持たないからである。こういう人間と議論していると賛成・反対の立場が、いつの間にか逆転していることすらある。しかも、そのことにすら気が付いていないのである。
 そう言う場合は、会議では、必ず反対するものだという思考回路が埋め込まれている可能性を考えた方が、良い場合がある。

 日の丸に生理的な嫌悪感を持つ者もいる。生理的でなくても、何かの時、拒絶反応がでてしまう。当人達は、なぜなのか、理解できない。一種の違和感、内心の抵抗が刷り込まれているのである。肯定するかしないか、理性的な議論をすることができない。とにかくあるレベルに来ると受け付けない者がある。これは、理屈ではないんだよと言ったら、それは、刷り込みである。これでは、まともな議論などできはしない。

 客観的という欺瞞。何でもかんでも、客観的であれば、事実であり、真実であるという嘘がまかり通っている。主観的というのと、客観的というのは、視点の相違に過ぎない。自己が主体的存在である以上、自己の認識は、主観性から逃れられない。客観性というのは、他人の意見ほどの意味しかない。ならば、自分の意見を述べるときに客観性を出すのは、他人の意見を引用して自分の意見を正当化しているに過ぎない。言論や教育を生業にしている者が、客観性を楯にするのは、自分が無責任であることを喧伝しているようなものである。客観性という言葉を使って、相手の警戒心を得のは、現代的洗脳の常套手段である。

 客観性は、科学神話の一つである。科学は、主観的な学問であり、客観的学問ではない。だからこそ、科学は、仮説が前提なのである。客観的だから、真実だという科学者がいたら、それは、似非科学者だと思えばいい。
 客観的なものとして数字を使う者がいる。しかし、数字ほど、主観的に操作できるものはない。数字は、その前提となるもの、根拠になるもの、そして、数字の使い方に対する厳格な検証がなければ、客観的とは言えない。数字に騙されてはいけない。

 科学者の主観的な意志がなければ近代科学は、発展しなかった。

 我々は、合理的とか、論理的とか言う説明に弱い。論理的、合理的に説明されたものは、それだけで正当性が保障されているかの如き錯覚を引き起こすからである。
 詐欺師に合理的に説明をされると、冷静になって考えれば明らかにおかしいことなのに、信じ込まされてしまうというのは、典型的な例である。それは、論理の意味を理解していないことに原因がある。論理そのものに正当性はないのである。
 この錯覚は、洗脳をする時に、頻繁に利用されるから充分に気をつけなければならない。論理的に正しくても間違っていることはいくらでもある。いくら論理的道筋が正しくても最初の命題が狂っていれば、そこから導き出される結論は、明らかに狂ったものになる。また、たとえいくら正しい命題でも論理的道筋が違えば、違う結論が導き出される。
 会計が良い例である。現実には、同じ事なのに、会計上に現れた結果は、正反対なものになることはいくらでもある。

 論理というのは、言葉と言葉、命題と命題の連想に過ぎない。命題と命題は、裏付けがあって連続性や整合性が証明される。

 論理というのは、筋道の事である。つまり、経路である。それが最短距離かどうかは、地図の様な全体像を示したものを見ないと解らない。しかし、論理には、全体像を表すような地図はない。ただ、経路だけが示されているのである。

 愛と純潔を結びつけることも愛と性欲とを結びつけることもできる。命題や言葉をどの命題や言葉に結びつけるかは、その命題や言葉から何を連想させるかによって決まる。何を連想するかの条件付けの最初は、外部から為されるのである。そうやって複数の命題を何らかの外部からの条件付けによって連係付けられて論理はできあがる。そうやって形成された論理は、思考の経路に過ぎない。思考の全体像は、論理を柱にして構築されているのである。

 以前、会社からゴルフの練習場に行くのに、いろいろな人に送ってもらった。その時、同じ場所から同じゴルフ練習場にいくのに、それぞれ皆違うコースをたどっていたことがある。一人一人にそのことを言うと、全員が自分の辿ったコースが最短距離だと主張した。論理も同じなのである。しかも、論理は、全体を表す地図を持たない。どの経路が最短なのかは、最後まで解らないのである。ただ、その人が通った経路だけが解るのである。しかも、論理は、迷路のように入り組んでいる。新しい経路を辿るときは、それがゴールに辿り着けるかどうかも心許ないのである。しかもその経路は、極めて経験的、情緒的なものである。

 会議でなんても反対する人間の例で説明すると、次のようなことが考えられる。
 自分の意見を持つという言葉と人と違うことを言うは、等号記号で結びつけられる命題ではない。また、人と違うことを言うと言う命題と反対する言う命題とは、等号記号で結びつけられる命題ではない。
 しかし、自分の意見を言いなさいといって、人と同じ意見を言うと、それは自分の意見ではないと皆の前で叱られ。言葉を言い換えて同じ事を言うと、反対意見ではないと恥をかかされれば、これらの命題は、一連の思考パターンとなって埋め込まれる。一度埋め込まれると、それがその人にとって、論理的な考え方になる。

 自分のためにという言葉が、だから、俺は、国家や会社のために何も協力しないと言う結論にもなり、国家、会社のために働くのは、ひいては、自分のためになるのだという風にもなる。並べ方も重要である。俺は、自分がやりたいからやるのだ。それで世の中や国が良くなった割り切るのとのと、国や会社に貢献でき、それによって自分も良くなったと自分に言い聞かせるのでは、ずいぶん違う。前者は、自分がやりたくなかったら、やらないし、動機もあくまでも私的なものに限られてしまう。それに対し、後者は、公への奉仕の精神が宿る。同じ自分のためにといっても正反対である。このように、論理とは、関連づけや並べ方で全然違うものになる。

 本来、思想や価値体系は、全体や統合、一貫されものてはじめて意味が理解できる。断片や部分からは、判断できないものなのである。断片的な知識や部分的な思考パターンを教え込まれても、全体的な意味を解釈することはできない。思想の全体像は、思考回路が完成され、ある種の命題を与えられて姿を現すのである。

 洗脳をする場合のキーワードは、分割、部分、無意識、分散である。つまり、細切れにし、バラバラにして相手の思考パターンの中に埋め込み、相手が無意識に、それを再構築し、ある特定の思想を持つか、行動規範に支配されるように仕込むのである。

 では、学校教育は、どうか。先ず、時間で細切れにしている。年間どころか、、一日単位、時間単位、分秒単位でバラバラに分割されている。断片的な知識や思考パターン、動作を習慣的に繰り返させている。一貫したものでなく、部分的にしか教えない。例えば、試験だと、決められた問題を決められたように解くと言った具合に。何かを最初から最後までやり通させるという事はしない。しかも、毎日違ったことを教えられる。ご丁寧にも、注意深く重複しないように注意するのである。それでいて、一日の行動パターンは、同じ事を繰り返され、習慣化される。典型的な洗脳である。
 学校で、教育者が間違ったことを教え続けても、誰もチェックすることはできないのである。例えば、仮説を絶対的な真理といって教えるような場合。

 先ず、思想ではないといって相手の警戒心を解く。(メディアの言う公正中立が、これに相当する。あり得ないことをさもあり得るように言うのは、欺瞞である。最初から欺瞞があるのだから、メディアの言う事に信憑性がないのは当然である。)
 主題とは関係のない、日常的な問題で信頼関係をつくる。
 基本的には、意識や言葉に現れる部分は、偽装、仮装する。
 次、断片的、部分的な行動パターン、思考パターンを繰り返す。(同じ事を繰り返し言い続ける。やらせる。)
 相手の行動や思考パターンが、送り手に対して順なものにする。
 その上で外界からの情報や外界と接触を断つか、送り手の意見以外を受け付けないようにする。
 相手の情動を不安定なものに、一方的な情報を無条件に取り入れるような状況を作る。
 光や音による強い刺激によって、相手の思考力を奪い。(テレビやテレビゲームは最適)
 特定の言葉や概念と正負のイメージを感情や情動に直接、結びつけるのである。
 こうすると、人間は、自分の意識で自分をコントロールすることができなくなる。何らかのキーワードや命題、象徴を与えられると自動的な行動を起こすのである。そして、その行動を終えた時、自分が何をしたのか思い出せないことすらあり得るのである。今日の厄介な問題は、洗脳を施したものすら無自覚だと言うことである。

 強い固定的な言葉や忌み事、嫌悪感や嫌なイメージを相手に与えることで洗脳するケースもある。洗脳というのは、否定的なことを持ち出すことで効果が発揮される。

 実務は、極めて論理的である。それは、個々の命題には、作業という実体が伴うからである。

 言葉狩りというのは、巧妙で、凶暴な言論弾圧、言論統制である。言論弾圧を平等とか、反差別という美名の下に行うのが狡賢いところである。これも洗脳の常套手段である。言葉狩りが教育やテレビと言った公共的な場面でされていることが重要な意味がある。公共的な場を通じて洗脳が行われていることを意味するからである。

 否定された言葉、抹消された言葉、無視されて言葉、反対に肯定された言葉、強調された言葉、置き換えられた言葉、補足された言葉をつなぎ合わせてみると背後にある思想が浮かび上がってくる。
 背後に潜む勢力が何を企んでいるかが、明らかとなる。

 では戦後、どのような言葉が否定されたであろうか。先ずそれを上げてみよう。
 否定された言葉。軍国主義。封建思想。国家。国旗。国歌。家族。圧政。戦争。形式。正式。歴史。神。道徳。儒教。礼儀作法。規律。規則。組織。秩序。権威。権力。右翼。人種。差別。忠誠心。優等生。真面目。従順。服従。抑圧。弾圧。統制。古風。復讐。暴力。戦い。仇討ち。報復。敵討ち。男らしさ。女らしさ。侵略。喧嘩。いじめ。同族会社。血縁。貴族。ブルジョア。金持ち。成金。階級。皇国。修行。修養。研鑽。研修。
 抹消(消極的否定)修身。大東亜。植民地。帝国。家長。後進国。親孝行。鬼畜米英。原住民。姫。王子。
 肯定の言葉としては、解放。自由。平等。民主主義。革新。革命。人道主義。平和。反体制。反逆。反抗。反戦。科学。合理主義。現実主義。写実主義。話し合い。自主性。独創。個性。独立。自立。批判精神。言論の自由。プライバシー。欧米。性。欲望。成功。夢。男女同権。平和憲法。敗戦。約束。契約。株式会社。

 一体、これらの言葉からどのような思想が浮かび上がって来るであろうか。
 一つ一つの単語の意味は、正しくても、組み合わせると全く違う思想が姿を現すことがある。
 例えば、強い否定として、愛国心。権力。日の丸。体制。軍国主義。暴力。圧政。抹消された言葉として、国防。植民地。強く肯定された言葉として、平和憲法。解放。民主主義。自由。反戦。読みとれるメッセージは、愛国心は、軍国主義を生み出した。アメリカ軍は、日本国民を軍国主義から解放した。日の丸は、軍国主義の象徴である。
 思想の是非を問題にしているのではない。キーワードを組み合わせると思想が再構築されるという事である。問題は、これらのメッセージが無意識下で再構築され、国民の行動を規制していることである。 
 そして、個々の単語の妥当性よりもそれが組み合わせて作り出されるメッセージの方が恐ろしいのである。

 否定的なキーワードと肯定的なキーワードを同時に刷り込むと強い作用を引き起こすことがある。服従は悪いというキーワードと反逆というキーワードを何らかの運動に結びつけて刷り込んだ場合、激しい行動を引き出すことがある。

 それでは、どのような思想が浮かび上がるかを項目によって上げてみよう。
 国家に関連した言葉で否定されたのは、愛国心。権力。体制。国防。国旗。国歌。忠誠心。伝統。帝国。日帝。軍隊。軍国主義。国粋主義。国家主義。全体主義。民族。靖国神社。規律。統制。神国。治安。義務。圧政。従軍慰安婦。国家に結びつけられたイメージは、弾圧。抑圧。侵略。強圧。暴力。右翼。武力。戦争。残忍。裏切り。背信。封建的。秘密。嘘。大本営発表。警察。取り締まり。支配。暗い。悪い。非道。残虐。過去。大量虐殺。虐待。粛正。封印、抹消された言葉、植民地。黄色人種。人種差別。欧米列強。覇権。列強。簒奪。大東亜。正義。国際情勢。奴隷。南進主義。日露戦争。日清戦争。国家利権。国家権益。経済封鎖。飢え。肯定された言葉は、民主主義。解放。自由。平等。平和憲法。抵抗。反逆。自立。革命。反体制。反権力。反権威。反戦。権利。独立。肯定的に結びつけられたイメージは、解放。明るい。伸び伸びとした。オープン。公開。豊か。成功。夢。新しい。革新。進歩。科学的。合理的。未来。正直。文明。
 家族に関したもので否定された言葉は、家。家族制度。家族。家長。家名。家事。お袋の味。ぬか漬け。大黒柱。親父。言いつけ。跡継ぎ。跡取り。総領。血族。親族。親類縁者。嫁。姑。婿。仲人。許嫁。見合い。血縁。大家族。しきたり。掟。躾。家事。親。孝行。育児。結びつけられたイメージは、暗い。古い。遅れている。封建的。隠微。陰惨。おどろおどろしい。いじめ。いびり。憎しみ。抑圧。争い。閉鎖的。狭い。辛い。来るし。閉じこめられる。退屈。平凡。対立。不仲。血。死。呪い。無理矢理。神話。伝説。怪談。犠牲。男尊女卑。地方。田舎。差別。経済的に自立していない。不自由。不平等。不公平。拘束。隷属。服従。不幸。貧しい。不合理。不条理。抹消された言葉として、仕送り。面倒。世話。暖炉。温かい。肯定的な言葉としては、自立。自由。生き甲斐。近代的。都会的。個人。尊重。肯定的な言葉に結びつけられたイメージは、はつらつ。明るい。快活。格好いい。自由。新しい。華麗。
 個人に関して否定された言葉は、名誉。誇り。礼儀。作法。貞淑。貞操。純潔。純真。素朴。道徳。志。真面目。規律。誠実。忠誠心。親孝行。勇気。正義感。質素。清潔。平凡。忠実。素直。普通。否定した言葉に、結びつけられたイメージは、暗い。古い。失敗。弱い。貧乏。ダサイ。かっこ悪い。抹消された言葉は、修身。切腹。武士道。修行。修養。二宮金次郎。肯定的な言葉は、自立。独立。自由。抵抗。反抗。反逆。革新。個人。独創的。自主的。欲望。金。学歴。フリーセックス。性の解放。欲望。肯定的な言葉に、結びつけられたイメージ、成功。豪邸。豪華。格好いい。アメリカンドリーム。快楽。楽しい。

 こうしてみると、日本国に対するイメージは、血塗られたものである。極端な話、日本の国民は、軍国主義の被害者であり、騙されていたとか、日本の女性は、不幸だという決めつけが最初からされている。その前提に立って、日本の戦後がある。この様に総括したのが、日本人ならばまだ良い。押し付けられたものだとしたら、冷静に検証する必要がある。

 否定された思想は、仁義礼智忠信孝悌の否定。武士道の否定。修身斉家治国平天下の否定である。教育勅語の否定。家族の否定である。そして、有色人種、黄色人種、アジア(特に、儒教的、神道的なもの)、日本的なものの全否定である。

 否定的に植え込まれた言葉に、無条件に、生理的に受け付けないようなレベルにまで深く植え付けられている言葉すらある。これらの言葉は、使うことすら許されない。できない。下手をすると辞書からも抹消されかねない。

 暴力がいけないといって、幼児期に一方的に暴力を否定し、どんな理由であっても暴力をふるった方が悪いと決めつけて叱るとどのような価値観が形成されるであろう。仮に、暴力をふるった理由が相手側にあった場合、自分の玩具を奪われたり、大切にしていたものを壊されたりした場合、それでも、原因を明らかにし、悪い事は悪いと状況に応じて双方を叱らずに、暴力をふるった側だけを叱ると、叱られた側も叱られなかった側も人の物を壊したり、奪ったりすることは正しいことだと受け取る。同時に、どんな事をしても暴力を相手がふるいさえすれば、自分は、許されると解釈する。特に、泣いたら暴力をふるわれなくても振るわれたのと同じ効果があると悟った子は、相手を挑発し、相手が我慢の限界を超えるまで、相手をいたぶるようなケースが起こるであろう。それがいじめである。いじめの原因は、実は、教師の方にある場合が多いのである。
 このことは、喧嘩両成敗の問題で、過去に問題になった。武士が自分の面目を失って戦ったとしても、喧嘩両成敗では、双方とも罰せられる。それでは、武士は、自分の名誉のために戦わなくなり、臆病になるというのである。この様に、思想というのは、単純な事柄の中に潜んでいるのであり、言葉よりもその背景となる状況から読みとるべき物なのである。
 暴力が悪いからてっいて、人を傷つけたり、相手の物をとったり、壊したり、また、嘘をつくことが許されるわけではない。教育者は、双方の話をよく聞き、状況を正しく把握した上で理非曲直を明らかにし、行為に応じた処置をこうじなければならない。

 いじめというのは、無意識にされるから怖い。無意識にされるというのは、潜在意識に埋め込まれた価値観によって為されるから、コントロールしにくいのである。そして、自覚もされにくい。いじめている当人に自覚が乏しいのは、それが原因である。

 それが、国家・国民レベルにまで浸透すると、国家の命運まで左右しかねない。そして、いつの間にか、自分の意志では何も決められない状況に追いやられ、ロボット化されてしまうことである。ニートとは、何か。引きこもりの意味するところわ。自殺やいじめ、幼児虐待の意味するものは何か。性や道徳観の乱れは何か。洗脳の怖ろしさである。

 教育というのは、一種の洗脳である。だから、洗脳が悪いと決め付けると教育そのものを否定する事に成りかねない。問題なのは、個人的な動機や思想によって相手や保護者、社会、国家の合意を得ないままに、無自覚、無意識に行う洗脳である。むろん、背後に何等かの組織や思想団体、カルト集団が存在するのは、もっと危険である。しかし、当人が、無自覚無意識な洗脳もそれにおとらず危険な行為である。

 問題なのは、洗脳によって人と人との関係が断たれ、一人一人が孤立化することである。日本人としての一体感が失われ、容易に他国の支配を受け容れ嬉々として隷属することである。

 欧米人というのは、いかに、他民族を支配する技術に長けているかという事である。
 猿の惑星の猿のモデルが日本人だなんて聞くと戦慄する。

 一人一人を孤立化し、更に、一人一人が自立できないようにしておいて組織や指導者を頼らなければ生きていけないようにする。
 それは、ある種の運動、反社会的運動やカルト集団が組織化する時に、行う常套手段である。
 それを社会全体にまで浸透させたのが、共産主義といえる。
 自分が社会に順応できない、適合できない部分があるとしたら、自分も何等かの形で洗脳されたと思って間違いない。
 なにせ、学校がそう言う洗脳の場と化しているからである。汚染されていない日本人は、いない。

 例えば、高齢者問題というのは、根本は、文化の問題であり、一人一人の価値観、道徳に還元されるべき問題である。
 ところが、現代社会では、お金や物の問題にすり替えて価値観や道徳観を蔑ろにしている。いくら立派な施設を作ったとしても、子供達が親に対する愛情や道徳を持たなければ、社会が公徳心を失えば、それは目先を変えた姥捨て山を作ったにすぎない。一種の監獄である。
 誰も尋ねてこない老人ホームなんてどんな恐怖映画よりも怖ろしい。中でどの様な非道が行われても誰も感知できないのである。しかも、それを福祉の美名の下に行う、それが、現実なである。

 福祉を語るならば、老いについて語るべきでなのである。でも、政治家は誰も老いについて語ろうとしないのか。年老いていくというのは、悲劇なのか。人間老いることが宿命ならば、なぜ、実り豊かな晩年を迎えられるような社会にしようとしないのか。それが死生観に繋がっていくのである。人生観を語るのならば、なぜ、家族について語らないんですかね。

 老人ホームは象徴的であるが、ひきこもりや派遣なんかの問題も然りである。
 究極的に言うと家族の絆を断ちきることである。
 家族という単位は、東洋的な共同体の単位ですよ。東洋的と言うより民族的と言っても良いかも知れませんね、それを断ち切ってしまえば、人間関係は解体する。解体した上で国家が、直接、人民を統治する。これは個人主義ではなく。全体主義である。
 今の全体主義者というのは、巧妙に個人主義に擬態し、自分すらも騙してしまう。

 弾圧者が弾圧されているというのも常套手段である。つまり、相手の側になりすますのである。言論の自由を楯にとって相手側の言論を封じ込める。反体制的な言論は自由にすべきだが体制側の言論は制約すべきだとなる。
 敵対組織の忠誠心を否定しながら、団結と言葉を換えて忠誠心を要求するのも典型的な手段である。

 日本人は、自分から進んで監獄へはいるように仕向けられているのである。
 先日、ある与党の政治家ですかテレビで言っていたが、子供手当の財源は、元々、配偶者手当や扶養家族手当、旧子供手当を廃止することで確保されている。要するに、家族という単位に渡していた手当を子供に直接渡すだけだと言っていました。それが、全体主義である。
 組合出身というか、所謂、学生運動派というのは、旧家族制度が憎くてたまらないみたいである。そう言う思想の持ち主があらゆる階層に浸透してしまった。これから、日本が解体へと向かい、やがて全体主義者に支配されるようになるのであろう。


洗脳2
戦後教育と洗脳



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