環     境


 教育は、環境である。最大の教育は、環境なのである。環境と経験によって人を育てる、それが教育である。いい環境は、最高の教師である。逆に、悪い環境は、教育に対する最大の障害である。

 子供達は、学校で教わる事はなかなか覚えないが、テレビやアニメのヒーローの名前は、すぐに覚える。また、テレビは、強制しなくとも見る。それに対し、学校は、強制しないと行かない。テレビは環境である。

 実物を知らない人間にとってテレビからの情報の方が現実感を持ってしまう。幼児には、絶大な力を発揮する。
 糖尿病の患者に、欲しがるからといって砂糖菓子を与えはしない。それも、砂糖菓子を売りたいという理由だったら、それは、明らかに犯罪である。
 ところが、テレビ局は、子供に明らかに悪影響があると解っている番組でも平然と放送する。それも、金儲けのためである。視聴率さえ稼げればいいのである。

 悪貨は、良貨を駆逐するの典型である。刺激に麻痺をする。最初のうちは、おそるおそる悪さをするが、最後は、本当の犯罪に手を染めてしまう。

 家庭では、親を口汚く罵ったりはしない。明らかに外部環境の影響である。特に、テレビの影響である。テレビ局は、自分達が与える影響を自覚し、公に認めるべきなのである。その上で、テレビの在り方を話し合い決めていくべきなのである。

 教育の根本は、学習と環境と刷り込みなのである。
 洗脳が悪いと言うが、教育というのは、多かれ少なかれ、一種の洗脳である。洗脳的手法が悪いと言われれば、教育はできなくなる。洗脳であるか、否かは、相手が自覚し、かつ、同意しているか否かの問題だ。相手が自覚も同意もしていないのに、ある種の思想を刷り込むのは、洗脳である。ならば、一番洗脳をしているのは、洗脳に一番過敏に反応しているテレビ局である。テレビによる洗脳は、無自覚な上、尚、影響は広範囲に亘る。最も危険なものである。

 教育においては、環境と目標、条件付けが大切である。環境を整え、目標を明らかにし、条件付けさえすれば、良しにつけ、悪しきにつけ、子供達は、学習し身につけていく。受験体制が好例である。大学合格という目的を明らかにし、試験勉強に専念できる環境を整え、試験教科を絞って、ある程度と件の傾向を示し、さらに、動機によって意欲を高めれば効果は絶大である。合格したら、好きにしていい、自由になれると動機付けをすればせば、夢中で勉強する。ただ、受験勉強が後がないだけである。だから、試験勉強で覚えたことは、皆忘れてしまう。使わないからである。
 環境と目標と条件付けが、受験戦争を成り立たせている。ただ、受験勉強には、後がない。受験勉強で学んでいることが、実社会で本当に役立つことならば、報われるのだけれど。試験勉強で学ぶことは、実社会では役に立たない、使わないことの方が多い。使わなければ、結局、廃れていく。忘れていくのである。ならばなぜ、徹夜をし、他のことを犠牲にしてまでも没頭させる必要があるのか。そこが問題なのだ。ただ、環境を整え、目標を与え、条件付けをちゃんとすれば、子供達の多くは、没頭していく。教育は環境なのである。

 学校は、異常で、特殊な空間だと言う事を大前提とすべきなのである。
 同じ年令の子供だけを、同じ人数の組に分け、一定の時間内、閉鎖された空間の中で同一の事をさせるというのは、通常の社会の中ではあり得ない。それを普通と言うだけでも異常である。これを一般社会で強制的にやれば、ある種の洗脳だと言われても仕方がない。この事の是非を言う前に、この点を自覚していないと重大な錯誤をきたす。つまり、集合教育の持つ危険性を見逃す事になる。
 また、学校は度厳格な階級社会はない。差別社会もない。年令による階級は絶対的なものであり、成績や偏差値により、全ての人間の序列が決められている。しかも、進路、進学も決められている。これほど厳格に序列社会は、未だかつてない。
 また、独裁的で権威主義的世界である。教室内では先生は、独裁者であり、どんな思想でも考えでも、親や当人の承諾なしに教える事ができる。学校というのは、密室社会なのである。学校の当事者が、反独裁、反権威を教えるのは、滑稽を通り越して一種の暴力である。しかも、彼等が、公平、中立を楯に取るのは、矛盾している。
 教育者は、自分の置かれている立場、教室の中では、絶対的権力者であることを自覚しないと大変な事になる。
 学校というのは、異常で、特殊な空間なのである。

 言葉では、自立、自主と教えながら、服従と慣習を習慣づける。一方で、勉強、勉強といいながらいつまでたっても子供扱いである。試験勉強は、親に依存しなければできない。経済性がないのである。受験を辞めて就職した人間は、大人として経済的に自立しているのにである。そうやって、自立できる年令を過ぎても一向に自立させてくれない。自立できない内に、年をとってしまい、大学を卒業した時は、手に職を付けるためには、年をとりすぎているのに気が付く。親と同居している限りは、生活は困らないから、ずるずると親の世話になり続ける。子供の自立を促す環境を作る必要があるのである。それは、社会空間と学校空間とを結ぶ必要があるのである。

 多様化というけれど、それは、内面の世界のことを表しているのではない。内面の世界が多様化したら、人格が分裂してしまう。多様化した環境では、自己のアイデンティティを保つような教育が必要である。環境に連続性がないと自己の内面は分裂してしまう。

 多様な社会に対応するためには、子供達の環境をなるべく一定に保つ必要がある。特に、家庭と学校との連続性を保たなければならない。その為には、教育空間を開放的な空間にする必要があるのである。

 学校をより開かれた場所にすべきである。子供の価値観は、環境が決定的な作用をもたらす。学校は、特殊な空間、環境であることを前提にしなければならない。
 閉ざされた空間である学校の空間を改善する為には、地域の活動とより密接に結びついていく必要がある。例えば、祭りである。
 以前は、田植えや稲刈りの時は、田植えや稲刈りを手伝った。家の仕事を手伝うことによって多くのことを学んだ。十五になれば元服させられ、一人前の社会人として扱われた。そう言った周囲の環境と自分の置かれた立場によって人は、成長したのである。

 教育は、チームですべきである。教育の根本は、観察と指導だからである。なぜ、観察と指導なのか、それは、教育には、環境と内面の動機が決定的な働きをするからである。環境と内面の動機の整合性を保つためには、いろいろな角度から、成長を見守る必要がある。だから、集団で教育すべきなのである。普通、集団というと教わる側の方をさすが、本来は、教える側の方をさすべきなのである。

 教育を成功させるための重要な要素は、習慣である。良い習慣を身につけさせれば、教育の目的は、九分通り達成されたと言っても過言ではない。良い習慣は、環境によってもたらされる。同様に、悪い環境は、悪い習慣の原因になる。

 習慣というのは、無意識なレベルまで入り込み、行動の志向性をあたえることである。例えば、ある一定の習慣によって勉強への志向性を高めれば、志向性が高まるほど、その子は、自主的に勉強をするようになる。反対に、間違った教え方をすれば、勉強が好きであれば、好きであるほど、勉強が嫌いになる。
 だからこそ、教育の在り方は、知識、情報を一方的に与え続けることではなく、良い習慣を身につけさせる事である。

 教科書なんて一日か二日あれば読める。それを一年かけて、一日数ページずつ教える。忍耐力がなければ飽きる。あきて、ただ時間を潰すだけになる。これは、拷問に等しい。こんな事をすれば、好きなものも嫌いになる。
 決められた時間に決められた事だけをやる。仕事はない。ただ、講義を聴くだけである。眠くなる。退屈である。それが習慣になる。
 社会では、最初に簡単に仕事の仕方が説明される。解らないところは自分で質問をするしかない。後は、自分で勉強するしかない。自分でやらなければ誰も教えてくれない。マニュアル書を一年かけて読み下すなどと言う馬鹿げた事はしない。こんな事をしていたら、何でも人頼りの悪い習慣が身に付いてしまう。

 毎日、本をひたすら読んでいたら、ゆとりなどなくなる。ゆとりを生むのは、休日ではなく。段取り、要領といった勉強の仕方、やり方であり、休み遊びではない。時間は、自分で創り出すものだ。本当に勉強をする者や仕事をする者は、寸暇を惜しんで勉強をし、仕事をする。休めといったところで休まない。そう言う人間には、休みも遊びも必要だ。しかし、そうでない人間に休めといったり、遊べというのは、無意味である。休みや遊びの意味を取り違えて堕落するのが関の山だ。休みも習慣である。

 ゆとり教育といっても教育の根本が、受験体制とかわりがなければ、教育の現場の考え方が変わらなければ、勉強時間をただ、少なくしたに過ぎない結果になる。そうなったら、ゆとりどころか、ただ、学力を低下させるだけだ。教育の現場を知らない空論に過ぎない。勉強をするため環境が変わらなければ、何にもならない。
 環境に変化がないのに、休みを増やせば、かえってゆとりがなくなるのである。

 テレビ局の思想的に統一しろとは言わない。しかし、少なくともどのような考えに立脚して編集したのかを明らかにすべきである。その時、公正中立という正義を振りかざすべきではない。それは、詭弁である。人は、自分の視点立場でしか物を語れない。なぜならば、認識は、自己の視点でしか為されないからである。ならば、公正中立といったところで、自分にとっての公正中立でしかない。他人を公正でない中立でないというのは、自分にとって中立でなく、公正でないのである。そうなると、公正中立の基準は、自分にしかない。だから、公正中立など振りかざすべきではない。同様に不偏不党というのも成り立たない。ただ、支持する政党がないというだけである。どのような視点で制作したかを明らかにできない者は、公共のメディアを使うべきではない。要求されるのは、自分がどのような考えに立って編集、作成したかを明らかにすることなのである。

 国家、国民によるテレビや教育による洗脳を問題視しながら、潜在的で表立っていない反体制派の洗脳には鈍感である。
 良い例が、人気のテレビスターは、その時代の社会の手本である。そのスターが、無軌道で、反道徳を売り物にすれば、社会の秩序が乱れるのは当たり前である。子供達の暴力を礼賛する映画を賛美しながら、愛だ平和だという、白々しさはない。それを芸術的だと言われたら噴飯ものだ。
 不倫や浮気は、美学だと言って、愛の究極の姿だと推奨しておきながら、家族愛がどうのこうのというのは、陰謀である。
 以前は、左翼といわれるのを怖れた。今日は、右翼と言われるのを嫌がる。本当に恐ろしいのは、知らず知らずのうちに刷り込まれる思想の方なのである。
 なぜ、国家体制が自らの思想を明らかにしてはならないのか。自らの思想に自信を持ち、誇りを持って教えてはならないのか。今の日本は、軍国主義国でも、国家主義国でも、国粋主義国でも、民族主義国でもない。民主主義国である。民主主義国である日本が、国家理念を教育するとなぜ、軍国主義になり、国家主義になり、民族主義になるのか。それは、為にする者が言う事である。問題なのは、自分の考えを何らかの理由で明らかにできないことである。




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