プロローグ(教育の理想を求めて)


 結論から言えば、学ぼうとする者が、教育権を取り戻す事である。教育権は、裏返すと学習権である。学ぶものが教育権を取り戻すという事は、学ぶ権利を取り返すことでもある。
 学ぶ事の意義とは、自分が、生きる為に、幸せになる為には、何が必要かと言う事につきる。生きる為には、経済的に自立する事が、必要要件である。つまり、何らかの、プロになる事である。現在のような貨幣経済下では、金を儲ける事、金儲けができる事が、経済的な自立の前提条件になる。プロになると言う事は、何らかの専門家になることを意味している。
 金儲けが全てではないが、金儲けを蔑視していては、経済的に自立する事はできない。

 次に考えなければならないのは、誰が、教育の担い手かと言う事である。従来、学校だけが、教育をしてきたわけではない。学校だけで、教育をしてきたわけでもない。大体、学校教育が、確立したのは、明治維新以降である。つい最近である。学校だって、せいぜい百年なにがしかの歴史しかない。問題なのは、就学生が、学校が全てであるように思いこんでいることだ。時間的にも、空間的にも、社会的にも、学校が、全てであるように思いこまされていることだ。だから、逃げ出すことができない反面、卒業した後、学校の外の社会に、適合する事のできない大人を、沢山生み出す結果になる。

 これらを前提として本来の教育の在り方を考えてみよう。

 先ず、自分達の生き方や考え方に適した学校がないならば、自分達で学校を作ればいい。その場合、時間的、空間的に縛られる必要がない。自分達が何かを学びたいという意志をもった時、自分達が生きていく為に必要だと思った時に、そして、自分以外に同じ思いや志を持った人間に出逢った時に、学校は、始まる。
 何かを誰かに教えようと思って時ではなくて、学びたいと思った時にこそ、本当の学校は生まれるのである。それが、学習権である。
 学校という言葉自体、学舎(まなびや)という意味である。つまり、学ぶところなのである。

 物理的空間に拘束される必要もない。喫茶店で、共通の課題を学びたいという者が複数集まれば、その場は、教室となる。

 かつては、いろんな処に学校があった。家庭では、両親が躾をし、職場には、徒弟制度があった。青年団、若衆宿で、人付き合いや異性との付き合い方を先輩から仕込まれ、同時にその土地のしきたりや作法を教えられた。子供達は、炉端で古老から昔話を聞かされ、生きる為に最低必要な社会の決まりや掟を学んだ。その上、寺や神社で読み書きソロバンを教わり、浪曲や浪花節、講談や落語によって人々の生き方や歴史を学んだ。子供は、子供同士で、野原を駆け回り、自然から多くのことを学んだ。喧嘩をしたり、遊んだりしながら、子供同士の付き合いや社会の在り方を勉強した。この世の全てが学校だったのである。この様な多様多彩な学校によって、子供達は、自ずと個性的で、豊かに、また、均衡のとれた人格を形成してきたのである。真の学校とは、そういうものである。
 先ず、学校という閉ざされた空間から、子供達を解き放す事から始めなくてはならない。学生は、学校しかないんだという閉塞感から、自分を解放する事である。学ぶ気があればどこでも学校がある。

 教育で大切なのは、環境である。教育は、環境だと言っても過言ではない。つまり、教育の本質は、環境から学ぶと言う事が主であり、教育の役割は、学ぶ事を補助、補佐する事だからである。そして、最も、多くの事を学ばなければならないのは、社会からである。ところが、今の教育制度は、学校と社会とが不連続である。つまり、断絶されている。
 良い例が、学校の先生である。学校の教師は、社会人として一人前でなくても許される。つまり、常識や良識は、問題とされない。社会経験も必要としない。学校を出て、資格を取り、学校に籍を置ければ、すぐに学校の先生になれる。だから、学校の先生は、師ではない。
 本来は、引き籠もれない。引き籠もることが許されないのが社会である。引き籠もっていたら生きていられないのである。ところが、引き籠もられる環境がある。引き籠もることが許される環境がある。それを社会や家庭が増幅させている。
 教育には、オープンな環境が大切なのである。そして、社会との連続性、社会人との連続性が重要なのである。学生だから、許されるというのは、思い違い、甘えである。学生だからこそ、許されないのである。

 生きる勇気を与えることのできる教育こそ、真の教育である。生きる勇気を奪うような教育は、教育ではない。
 その為には、子供達に夢や望みを持たせることである。一流になった子達は、夢や望みを持っていた。囚われる気持ちがなかった。そして、最初からプロになる事を、目指していたのである。だから、羽ばたいていったのである。

 教育の世界には、妙なアマチュアリズムが横行している。特に、スポーツの世界では顕著であるが、それ以上に教育そのものにもある。プロの教師や、専門教育が排除される傾向がある。つまり、プロが、プロを育成することが否定されているところに、現行の教育が成り立っている。その根底には、賤商主義が見え隠れする。つまり、金儲けを目的にするのは、動機が不純だというわけである。金儲けは悪い事だという思いこみである。

 その典型が、オリンピックであり、高校球児である。しかし、オリンピックも結局、様変わりし、高校球児の多くは、プロに転じていく。アマチアである事を妙に強調するのは、教育者の逃げである。アマチアであれば許されることが多くあるからである。逆に、プロには、許されないことが多くある。アマチアというのは、言い換えれば、未熟だという事である。未熟だという事を強調するのは、教育の過程、成長の過程にある事、まだ、一人前でない事を強調しているに過ぎない。重要なのは、何に依って立つ、生きるかである。何で生活の糧を得るかである。経済的に、何に依って自立するかである。それを教えるのが、教育である。だから、実用や金儲けを蔑視していては、教育の役割、目的を果たすことはできない。あなたは、自分が、何によって生活の糧を得ようとしているのかを明らかにしなさい。そうすれば、自分が何を学ばなければならないのかを知る事ができる。その為に、学校に行く必要があるならば、その為の勉強をしなさい。

 以前、一人のペンキ職人が相談に来た。自分の息子は、俺は、勉強が嫌いだ。親父の跡を継いで、ペンキ職人なる。だから、学校を辞めると言っている。それに対し、女房は、高校ぐらい出ておいてと反対している。どうしたものかと。それに対し、勉強しようと思えばいつでもできる。それに対し、奥さんの気にしているのは、世間体に過ぎない。一番肝心なのは、息子さんの意志である。職人の修行は、学校の勉強より容易いのか。あなたは、早ければ、早いほど良いと言った。ならば、良き師を捜すことではないのですかと、私は、答えた。良い人生を送ろうと思ったら、妥協しては駄目です。逃げても駄目です。重要なのは、あなたの強い意志です。

 普通という言葉が、学校教育には、よく使われる。しかし、学校教育上の普通は、一般社会の普通ではない。普通は、普通ではないのである。
 現実は、一様ではない。教育者の能力もしそうも一様ではない。子供達の夢や才能も一様ではない。一様ではない、現実や教師、子供達の有り様を統一し、一般化しようとすること自体に無理がある。間違いがある。統一し、一般化しようとすれば、するほど、教育は、現実から乖離していく。
 本来、教育というのは、専門化を育てる為にあるもので、専門化であり、特殊化なのである。ただ、最初は、一般的な事、基本的な事から教えなければならない。しかし、一般化というのは、単純化でもある。科学は、一般化であると、同時に、単純化でもある。それなのに、学校では、単純な事柄を複雑化して教えている。なぜか、試験のための教育に堕落しているからである。試験にもそれなりの働きがある。しかし、本来の働きや目的から逸脱すると弊害が強く、副作用もあり、これほど危険なものはないのである。
 教育の目的は、専門家、プロを育てる事にある。その為には、専門化、個別化が重要なのである。普通高校というのは、意味のない事である。

 現在の学校には、間違いが多い。間違いが多いと言うより、必然的に間違うのである。学校の教科書に載っているのは、与件、つまり、自明な命題ではない。前提条件や受け取る人の認識や視点、思想によって正にも否にもなる命題である。また、教える人の考えも均一ではない。教えられる側の問題がある。教えられた者の性格、能力、育った環境によって受け取り方や吸収の速度が違ってくる。二重、三重にフィルターが掛けられた結果である。同じ事でも認識の違い、教え方の違いによっては、正反対の結果を導き出す可能性がある。これでは、何が正しくて何が間違っているのか判断のしようがない。教えられた事を、鵜呑みにする以外にないのである。しかも、それを検証する試験にして、何重にもフィルターが掛けられ、最初に何が根拠だったのかも判然としなくなっている。
 大体、絶対的なものを一方で否定しながら、自らの答えを絶対的に正しいとしている以上、間違いは、必然的なのである。
 しかも、試験制度がその体制を裏付けている。絶対的解答を握っていて、全ての評価がそれに結びついているとしたら、それは、絶対的権力を生み出す。教育者が独裁反対を称えるのは、いわば自己否定であり、滑稽なことである
 間違いを、正すことができない。教える側は、試験制度があるために、間違いを認めるわけにいかず、学ぶ者の側から修正することができない。きわめて、全体主義的、独裁主義的な社会が、学校なのである。

 予め、答えが用意してある社会は、学校以外にない。正解が決められている社会も学校だけである。一般に、答えは、自分で探し出すか。作り出す以外にないのである。予め絶対的な答えを用意できるのは、神のみである。つまりは、学校において、先生というのは、神の如き存在なのである。学校を出たばかりの人間が、神の如き存在になれる。それが学校である。学校というのは、それだけ閉鎖的なのである。
 そして、予め用意された答えに、否定する事はおろか、疑問を持つ事も許されない。何事にも、疑問を持ちなさいと学校で教える事は、そこまでいくと喜劇である。しかし、教わる者にとっては、悲劇である。
 試験というのは、出題者と解答者の関係に要約される。そして、先生は、常に、出題者であり、生徒は、常に解答者である。つまり、先生は、常に、採点する側におり、生徒は、採点される側にいる。だから、満点を取るのは、至難な技である。なぜならば、答えの評価は、真か偽でも、善か悪かでも、美か醜でもなく。正か誤でしかないからであり、しかも、この正か誤の基準は、出題者だけが決められるからである。
 出題された問題そのものが誤っているのではないのかという疑問は、余程のことがないかぎり、問題にされない。しかし、設問そのものを間違ったら、答えは、導く以前に間違いなのである。つまり、解答以前の問題である。そして、実は、学問というのは、この問題を設定するところに多くの重要な要件が含まれている性格のものなのである。つまり、仮説や命題が重要なのである。全てが、自明、所与の命題ではない。何を所与の命題とするのか、それが、科学で最大の課題なのである。

 受験制度は、学校と行政、教師のためにしか意味がない。教師は、受験勉強のためのプロなのである。試験は学校の先生のためにある。第一に、スポンサーである親に報告するために、第二に、、子供を管理するために、第三に、子供に序列をつけ、選別するために、試験制度はあるのです。試験とは、その程度のものだと思えばいいのです。その試験制度に人生の全てを賭けてしまうのは、愚かな事です。受験勉強を一生懸命するのは、目的があっての事である。目的が曖昧なのに、とりあえず受験勉強をするというのでは、燃え尽きてしまう。目的を達成するから達成感があるのであり、最初から目的がないのでは、虚脱感しか残されない。先ず、自分の生きる目的を見いだす事である。それを、与える事ができるのが、良き師である。

 師は、どこにでも居ます。良き師に出会えるか、出逢いないかによって、あなたの一生は左右されます。良き師に出逢う事は、それだけで、一生の幸せです。悪い師につくのは、一生の不覚です。不幸の始まりです。良き師に出会えてから、真の人生が、始まると言っても過言ではありません。
 良き師は、学校にいるとは限りません。いいえ、むしろ、学校には、良き師が少ない。なぜなら、学校の先生は、学校以外の世界を知らないからです。
 師は、どこにでも居ます。あなたの身近にも居ます。あなたが尊敬できる人がいれば、その人は、良き師です。
 囚われる心がなければ、素直に教えを請う、気があれば、誰でも、あなたの師になります。自分の子供は、特に、良き師です。育児というのは、大変な勉強、修行です。子供は、いろいろな真実を教えてくれます。反面教師という言葉もあります。その気になれば、良き師はどこにでもいるものです。学問とは、良き師を求める事から始まるのです。伝から、学を志す者は、旅をしたのです。それが遍歴の旅です。

 本来、学校は補助的な機関にすぎない。それが全てであるような錯覚が恐ろしいのです。逃げ場を失い。追いつめられてしまう。いじめの問題の根っ子もそこにある。学校が全てだと思うから、逃げられなくなって窒息する。学校は、全てではない。また、主でもない。生きていく上での補助的な機関であり、人生の一部に過ぎない。いじめにあって自殺するのは、愚かである。まず、生きよ。

 結局、勉強は、自分の為にするものである。しかし、同じ自分のために、という理由も、学校のという言葉が勉強の前につくと、話は違ってくる。学校の勉強は、自分のためになっていない。だから、自分のためにというのは、嘘になる。その為に、勉強は、自分のためにするといっても、誰も、信じなくなった。これも、学校教育の重大な罪だ。
 しかし、本当の勉強は、自分の為にするものだ。だから、自分のためにならない勉強は、本当の勉強ではないという事になる。

 先ず、自分が、何になりたいのかを探す事です。その為に、先ず勉強しなさい。次に、自分が何になりたいか、どんな生き方がしたいかが解ったら、その為には、何が必要で、何をしなければならないかを勉強しなさい。それが解ったら、良い先生、良き師を捜しなさい。良き師が見つかったら、ひたすらに勉強する事です。それが、真の教育です。

 勉強しようとする意志が大切なのです。教育というのは、その意志を引き出すのが、一番の主眼です。
 学校へ行ったら勉強が嫌いになった。これでは意味がない。先ず、学ぼうとする姿勢を持つ事。学校が悪いと言ったところで、学校は、責任をとってくれるわけではない。
 学校は、元々、無責任な処なのである。そう心得るべきである。責任のない処に、責任を求めて無駄である。最初から、責任をとる意志がないのだから。交通事故を起こしても、自動車の教習所も教官も責任をとりはしない。自分の、生徒が犯罪者になっても学校の先生が、捕まるわけではない。かえって被害者のように振る舞うのがオチである。これが、製造会社だったら大変である。欠陥自動車を製造販売したら、自動車会社は、社会的糾弾を受け、責任を持って回収、修理しなければならない。経営者は、責任をとらされるし、最悪、倒産する事もある。
 しかし、学校は、教育の結果について責任をとらない。とる必要がない。責任は、社会や家族、何よりも、当人がとらされるのである。だから、最初から学校に期待せず、自分が勉強しようと志す事である。なぜなら、学問は、自分のためにするものだからである。それが、学ぶ権利である。

 勉強も仕事も楽しむことです。それが人生を生きる事を、楽しむ事につながるのです。勉強は、辛い。仕事を苦しいと教える者は、自分の人生を呪っているのです。生きる喜びを教える事こそ真の教育です。


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