教育の基本的在り方

 教育に重要なのは、環境と状況である。基本的には、教育に最も重要な作用、影響を及ぼすのは、環境である。身近に自然がある環境とテレビやビデオ、漫画からしか、情報が得られない密室とでは、明らかに成長や発育が違う。それは、人間は、情報に依存した存在だからである。

 教育は、外部社会との連続性、即ち、家庭、地域社会、職場、国家との連続性が保たれなければならない。

 教育の限界を知り、謙虚になることが要求されている。何でもかんでも教育によって片づけようとしても片づかない。現在、教育問題として指摘されていることのほとんどが教育の現場からかけ離れた問題である。

 教育が閉鎖された空間、密室の中で行われるのが最も危険なのである。開かれた空間の中で行われれば、必ず、常識や良識の歯止めがかかる。教育で最も重要なのは、平衡感覚である。

 現実からのフィードバックのない、観念だけの世界に置かれたら、人間は、外部世界との関わり方を学習することができない。それは、自己と外部社会との連続性を断たれることを意味する。そのような環境で育った人間は、環境への適合性を持てない。現実離れをした人間にしてしまう。引きこもりやニートの原因になる。しかも、一度、引き籠もってしまうと、ますます、現実の世界との適合性を欠いてしまう。悪循環である。

 同時に、自己は、間接的な認識対象である。外部社会からのフィードバックによって自己を確立する。外部社会からのフィードバックがないと自己は確立されない。つまり、外界との適合性がなく、自己が確立できない人間にしてしまう。無自覚で、社会への適合性を欠いた人間は、民主主義社会にとって最も危険な存在である。つまり、社会秩序や内面の規律、双方から隔絶した存在なのである。民主主義は、社会秩序と内面の規律によって成り立っている。だから、その双方を書いた人間は、最も危険な存在なのである。この様な人間を生み出すことを、最も、民主教育は、警戒しなければならない。
 
 外部社会との連続性を保つためには、生徒の主体的な関わりかたが大切なのである。

 教育の根本的在り方は、環境と自己との主体的な在り方をよく観察して、それぞれの個性、つまり、個体差に応じた関係作りをすることである。学習というのは、学習主体自体が、内面の動機によって行うものである。教育は、内面の動機を触発し、意欲を引き出し、方向を与える事に本来の役割がある。

 そのためには、生徒の自然な好奇心や興味が重要である。自然な好奇心や興味は、内面の動機を形成する。故に、生徒の動きをよく観察をし、先生と保護者がよく話し合って、教育の在り方を決めていく必要がある。それが民主主義教育の基本である。

 ある種の決めつけや独善的な、教条主義的な教育方針は有害である。子供同士の関わり方が最も大切なのであり、子供の社会にある自律的な働きと大人の社会の規律とを調和させていく事によって子供の世界と大人の世界の連続性を保つことが重要なのである。そして、それを指導するのが教育者の本来の役割である。

 例えば、子供同士の喧嘩を、ただ、喧嘩は、悪い事だ、暴力はいけないと決めつけてしまう事である。また、男と女には、本質的な差がないから、全てを同じにしてしまえと言った考え方である。

 子供同士の喧嘩にどう対処するか。それは、重要な問題である。表面に現れた現象のみに目を囚われるのではなく。その背後にある動機や規範に目を向けるべきなのである。その上で、どう教育するかは、保護者と協議して決める事で、学校や行政が勝手に特異な価値観を植え付けることは許されない。それでは、家庭や地域社会との連続性が保てない。その土地、その土地には、しきたりや伝統がある。地域社会の秩序は、その土地に伝わる伝統や文化に根ざしている。その伝統や文化を否定するのは、全体主義であり、民主主義の対極にある思想である。時間的、空間的連続性を保つためには、保護者と地域社会との話し合いに基づいて教育の枠組みを作り出すことが大切なのである。それが、民主主義である。

 男と女に差がないのではない。人間、全て違うのである。その違いを正しく認識することは、科学的な姿勢である。その差に応じていくつかのグループに分けて教育する事は、科学的な事であり、差別とは違う。一律に扱う方が差別である。不当な基準で、人を区別することだからである。
 だいたい、声高に差別だと叫んでいる人間が、年令で差別していることに気が付いていない。差別というのは、不当な基準によって、扱い、処遇を違える事を意味するのであり、それが不当な基準であるか否かは、民主的な手続きで、当事者が決める事であっる。保護者でも教育の現場に携わる人間でもない一部の研究者や官僚が、勝手決めつけることではない。同等一律に扱う教育は、自由教育でも、平等教育でもなく、独裁主義、全体主義教育である。

 多くの自然主義教育の誤謬は、人格が先天的に備わっている決めつけている事である。人間の人格は、生まれついた時に完成しているわけではない。自然というのは、存在の在り方そのものを観察する事によって認識される。
 自主性を重んじていれば、自然に、価値観が形成されるわけではない。教育者の積極的な働きかけが重要なのである。自主性というのは、働きかけによって触発される性格の者である。つまり、外界と自己との関わりのによって派生する外界からのフィードバックによって発揮されるのが自主性である。

 人間の社会は、人為的な世界である。人間の意志の働きがあってはじめて成立する。意志の働きを否定したところには、人間の社会は、成立しない。自然主義思想が、人間の意思を排除しようとするのは、錯覚である。それは、人間は、社会的動物であり、それが自然なのだと言う事を理解していない証拠である。基本的に重要なのは、子供達が育ってから、帰属する社会と子供達の社会との連続性である。子供達が帰属する社会の正当性は、教育者が判断すべき事ではない。
 また、戦前のように国民の意見が反映されない社会ではない。社会に矛盾があるからといって、反体制的、反社会的、反家族的思想を関係者の承諾もなく教え込むのは、違法行為である。民主主義の否定である。

 一人の人間が管理できる人数は、七人ぐらいが限界だと言われている。それから見ると今の学校は、限界を著しく超えている。これでは、子供たちを教師が管理することは、最初からできない。だから、教師も生徒もお互いが、お互いに無関心になる。

 故に、教育の基本的な在り方は、観察と指導である。個人差や成長の段階に応じた教育である。この様な教育は、チームワークによって為されなければならない。そのチームは、保護者と心理学者と医者、教育者、地域社会が、役割を分担して協同で行わなければならない。学校の教師が一人で教育を担おうとした時、教育は、破綻する。

 個々の人間を信じるのではなく、そう言った仕組みに重きを置くのが、民主的やり方なのである。故に、民主主義教育の在り方は、一人の人間に代表されるようなものではなく、教育の在り方そのものに実体があるのである。

 教育を集団で行う時、指導者の役割が大切なのである。その指導的役割を担うのが、教育者である。故に、教育者に求められるのは、指導力であり、指導者としての人格である。社会経験が豊富で、事の正否善悪を見極める事のできる人間である事が、真っ先に要求される。教員の資格や知識ではない。

 真実を真実、事実を実と見極める力を持っている限り、人間は、過ちを正すことができる。自分の目の前にある事実や真実を識別できなくなった時、民主主義は終焉する。神でないものを神とし、男と女が識別できなくなった時、全体主義は、ゆっくりとその姿を現すのである。

 闇の中に潜む魑魅魍魎が、表に出てきて、この世を支配しようとした時、それを阻み、抑え込むことが出きるのは、人民の意志だけである。

 戦時中に兵隊に引っ張られ、戦場で人を殺したとか、若気の至りで、売春をしたとか過去に拭い去れない、人に言えない重大な過ちを犯した者は、その過ちを認めることも改めることもできず、同じ過ちを繰り返すことがある。悪い奴は、人をそそのかして罪を犯させる。その挑発にのって一度罪を犯すと引き返せなくなる。そして、最愛の家族にも打ち明けることができず秘密を作り、その秘密におびえ続ける。かとおもえば、開き直って自分を正当化して、生き方をも変えてしまう。
 今日の日本の逼塞した状況は、それに似ている。戦中派も、学生運動の闘志も、汚職官僚も、どこか後ろめたさを感じながら、おのれも周囲も欺いて生きている。そして、過去の亡霊が何かの拍子に蘇った時、なすすべもなく呑み込まれていく。民主主義を守るならば、日本人は、日本人の誇りを取り戻さなければならない。過去を悔い改め、真実の自由と独立を、自分の手にしなければならない。

 以前は、結婚前の女性は、性体験があることが恥ずかしいと感じた。今は、性体験がないことが恥ずかしいと感じる。これは、環境の為せる業である。どちらに振れるかは、そのときの社会情勢に左右される。いずれにせよ、そのような社会情勢が国民の合意によって意識的に形成されているのか。無意識のうちに形成されているのかが危険なのである。日本人は、その社会を蝕む種が蒔かれていることに鈍感すぎるのである。無防備すぎる。丁度ばい菌のように、民主主義をしに至らしめる病原は、健康なときに忍び込み、体力が衰えたときに猛威を振るう。
 良識や常識の名を騙って良識や常識を破壊する。良識や常識が育まれる環境が大切なのであるが、今日の状況は、絶望的といわざるを得ない。

 良識や常識は、常に危機に瀕する。なぜならば、良識あるものは、控えめに、自己を抑制し、異端者は、自己を主張し、常識や良識を攻撃するからである。そして、非常識や非行には、妖しい魅力がある。しかし、常識や良識が失われた時、民主主義は、滅びるのである。民主主義が滅んだ時、我が国の独立も失われる。日本は、民主主義の国なのである。民主主義国だから、独立が保たれている。







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