教育と自由

 民主主義というのは、民主主義と対立する意見も容認する。それは、民主主義が革命運動を母胎としているからである。よく注意しなければならないのは、民主主義を破壊しようとする勢力は、急進的な民主主義を装って大衆を欺いてくるという事である。革命勢力が、体制の力を借りて、体制を内部から破壊しようとすることである。
 その時に、一番、利用されるのが、教育と言論と官庁である。
 特に、教育では、思春期の反抗期を捉え、それを利用して、子供達の価値基準の中に入り込んでくる。

 世の中を乱しておいて、その乱れを利用して自分達の目的を達成しようとするのは、革命勢力の基本的な発想である。犯罪の種を蒔いておいて、責任を敵対勢力に押しつける、それも常套手段である。俗に言うマッチポンプなのである。マッチポンプという言葉、自分で火をつけていて、自分で消火するのであるが、彼等の場合、消火を煽って大火となし、その責任を消火しようとする者に帰そうとするのであるから、タチが悪い。

 民主主義は、革命思想なのである。故に、革命思想を内包していることを忘れてはならない。革命思想を自覚しなければ、民主主義は、自壊していく。そう言う思想なのである。

 子供は、思春期になると異性に関心を持つようになる。これは、人間として当然の変化である。そして、異性との関係を通じて、自立していくのである。この時期、親子間には、必然的に緊張感が芽生える。それが、一時的に、親子の対立感情に発展することがある。親子の対立に乗じて、親子関係を裂く。彼等の根本的な目的は、人間関係や社会関係を引き裂く事である。
 親子関係に緊張が生まれた時、それを和らげたり、解消するように働くのが社会制度であり、教育である。それが逆に作用するのである。なぜならば、他者との関係を断つことによって自分達との依存関係を作り出そうとするからである。彼等は、アウトロー・アウトサイダーなのである。社会の正常な関係の埒外に存在する。彼等が目の敵にするのは、常識だの良識である。

 結局、民主主義で最も重要なのは、平衡感覚なのである。平衡感覚は、常識や、良識に依存している。民主主義が、前提としているのは、市民としての常識であり、良識である。この常識や良識が失われると、民主主義は、平衡感覚を失う。平衡感覚を失った民主主義は、左右に激しく揺れて、自壊していく。ところが、学校教育には、一般常識という課目は見あたらない。故に、学校教育は、支柱がないのである。大きく揺さぶられた時、平衡感覚を喪失する危険性がある。その時、社会は、無政府主義的な方向と全体主義的な方向徒に振られてしまう。

 民主主義の平衡感覚を保っているのは、人間関係である。民主主義体制を崩壊させようとする勢力は、この人間関係の絆を直撃する。
 親子、夫婦、家族、学校、師弟、会社、組織、社会、国家の人間関係を分断し、背き合い、対立させることによって国家、社会を根底から覆すことを目論む。それは、革命思想である。 

 親子の断絶、家庭の崩壊がはじまるのは、当然である。学校が、親子の断絶や家庭の崩壊を誘発する教育を行っているからである。

 内面の規律が失われていると、外的強制力がそれに取って代わる。内面の規律に従っているかぎり、人間は、自由なのである。そして、外的な強制力に民主的正当性がなければ、それは、暴力である。
 内面の規律を喪失する事によって外的強制力を働かせようとする。内面的規律が、失われ、外的な暴力が支配した時、革命勢力にとって、革命の時が熟するのである。市民革命は、将に、社会文化が爛熟し、内面の規律が失われた時、起こったのである。革命は、ある種の陶酔を伴う。以後、民主主義社会は、革命の幻想に取り憑かれた者を恒常的に生み出すのである。

 人は、欲があるから生きていける。欲を否定するのは、間違いである。幸せの根源は欲である。しかし、欲望は、人を不幸にもする。だからこそ、欲を制御する必要がある。欲を制御するすべを教えるのが教育である。それは、石油やガス、原子力といったエネルギーに似ている。エネルギーは、人々の生活を豊かにすると同時に、破壊もする。ガスは、むき出しにしたら、有害な物質である。ガスを活用するためには、装置が必要である。民主主義も欲望を制御するための装置や仕組みが必要なのである。その装置や仕組みの扱い方を教えるのが、教育なのである。

 自制心を失えば、欲望に歯止めがなくなり、欲望を暴走させる。それは、自己を見失うこと、つまり、自己喪失である。やりたいことをやりたいように、欲望の赴くままに行動することは、自由の対極にあることである。

 欲があるのが悪いのではない。なぜなら、欲は神が最初から与えたもの。欲によって自分をコントロールできなくなるのが悪い。欲を強制的な力で抑え込むのも悪いが、性欲に身を委ねるのもまた悪い。
 だから、道徳でも、放任でもなく、修身なのである。

 そして、身を修める為には、自己を見極めなければならない。自己を見極めた時、内面の規律が確立する。

 自己を極めると他者との関係が見えてくる。自己への極め方が中途半端だと、自我が生じ、他者が埋没して関係が見えてこない。必然的に平等も見えてこない。

 自己と他者との関係を知る事によって内面の規律は確立する。未成熟な自己確立は、我が儘を増長させだけである。なぜなら、自己と他者との関係が見えてこないからである。自己と他者との関係が見えない者に迷惑と言ってもはじまらない。迷惑という概念は、自己と他者との関係の上に成り立っているからである。

 平等は、他者と自己との違いを認識することによって成り立っている。自己と他者とを識別できなければ、平等は成り立たない。違いを理解することによって再構築し、組み立てる事ができるようになるのである。
 自己と他者との違いを見極め。自分を社会の中に正しく位置付け、自らの役割を知る。そこから、平等が生まれる。
 違いが識別できない者は、外見によってのみ、相手を区別しようとする。同時に外形的基準を偏って重視する。更に、外形的基準を制度化しようとする。そこに差別が生じる。つまり、違いを理解できるようになって平等は実現できるのである。
 違いを否定するのは、平等を否定する事である。

 違いを否定し、同等にしようとすればする程、差別が拡がる。人間は、一人一人違うのである。違いを前提として成り立っている。違いを否定し、同一にしようとすれば、人間本来の在り方を否定する事になる。それは、存在の在り方そのものを否定する事である。平等は、存在に関した概念である。故に、存在の在り方そのものを否定する事は、不平等、差別につながるのである。

 人を識別する力があるうちは、人を外形的基準、外見だけで判断したりしない。人に対する識別する力が衰えてくると、外形的基準が力を得てくる。学歴や家柄などが権威になる。要するに、ブランド志向が高まる。識別力が衰えた社会は、差別的な社会である。 

 今の学校教育は、人間を不自由にしている。人間を隷属させる、いわば奴隷化するための教育である。
 全体主義者、唯物主義者の目的は、人間を家畜化することである。無政府主義者の目的は、人間を野獣化、野生化することである。両者の行き着くところは、人間性の否定である。ところが、彼等は、人道主義やヒューマニズムの仮面をかぶってくる。悪い冗談である。冗談であるうちは良いが、彼等がある種の権威や権力を握った時、悪い冗談が、悪夢に変わる。

 周囲の社会や現実からの情報を隔離し、自分の言動へのフィードバック機能を遮断した状態に、密閉された環境に囲い込み、その上で、自分達に都合の良い情報、自分達が与えたい情報を、一方的な流し込む事は、正常な思考能力を麻痺させる。また、一定の思考パターンを波状反復的に繰り返させ事は、一定の思考パターンを刷り込む事になる。それが、決められた事を決められたようにしか解けないような、思考回路であったならば、どうなるか。仕上げに、情報や知識を、無批判に受け入れ、丸暗記させる事を仕込めばいい。正常な思考力を奪っておいて、予め刷り込んでおいた思考パターンに偏った知識、情報を流し込めば、その人間は、偏った行動をするのは、明白である。
 この様な事は、一種の洗脳である。保護者の合意や社会的承認もなく、一部の勢力が勝手に教育する事は、犯罪行為である。しかも、民主主義や自由主義、平等主義を仮装して行うのは、詐欺以外の何ものでもない。民主主義に名を借りて、民主主義を内部から破壊し、反対勢力を反民主主義の名で駆逐するのである。それを革命の名の下に正当化する。それは、人間を欺き、人間を家畜化する論理である。

 何でも疑ってかかれと教えておいて、自分達だけには、盲目的に従うように仕向ける。良識を最初から否定しておいて、対立勢力には、良識を求める。その効果は、どこかの宗教団体が実証済みである。

 戦前の日本の教育が、人間を隷属化するための教育だという批判がある。ならばなぜ、彼等は、日本の独立のために、戦ったのか。戦後の教育の方がずっと人間を奴隷化している。なぜか、それは、人間の尊厳が無視されているからである。
 人間を奴隷化、家畜化しようとする者が、自由や平等のを利用する。性からの自由は、性欲の奴隷と課す事を意味するではなく、他人の言いなりになることでもなく、愛を実現する事によって成就する。

 権力が、強権をもって行う教育も、反体制派が、体制の力を借りてやる教育も家畜化することには変わりがない。順逆の相違である。ただ、反体制派の教育は、天然、自然の情に背かせる分、罪が深い。

 本来、教育は、人を解放するものでなければならない。人を解放するというのは、自己を確立することである。だからこそ、自己を解放するのは、内面の規律である。内面の規律は、自己と他者との関わり合いの中で、成立する。健全な内面の規律を育成するのが、民主主義教育の本旨なのである。

 家族や会社、国家といった人間関係そのものを否定し、個人同士を対立させるのは、革命思想であり、個人主義の対極にある思想である。この点を見損なうと、民主主義教育の名の下に、民主主義は、内部から破壊されてしまう。その時、全体主義が姿を現すのである。







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