権利と義務

 権利と義務は、作用と反作用の関係にある。例えば、教育は、義務であると共に権利である。国民は、国家を守るから、国家に守られるのである。納税するから、公共施設を利用でき、公共サービスを享受できるのである。

 納税は、義務であるが、同時に、納税によって権利も生じる。それが参政権である。納税しなくても、参政権が与えられる場合があるが、それは、国家の責務であって権利ではない。責務は、国家理念から、派生するものであり、義務から派生するものではない。逆のケースもある、納税しても権利が派生しない場合である。これは、この場合の納税が、国家の債権から派生するものであり、権利から派生したものではない事を意味する。国家の債権も国家理念から派生する。

 民主主義国家は、国民の委託を受けて成立している。故に、国家に義務や権利はない。国家に有するのは、債権であり、債務、責務である。

 国防は、国民の義務である。国民は、国を守ることによって、自らも守られる。これが、民主主義国の大原則である。国民が法を守るから、国も国民を守る。国民が法を守らなければ、国家は、その責務から、その者を罰する権限が生じる。自らの生命と財産を守る権利を主張するのならば、国民は、国を守ることが義務として要求するのである。国が国民を守ることを責務としないならば、その国は、存立する意義を失う。故に、国民国家にとって国防は、国民の義務である。

 権利と義務、責任と権限は、違う。権利は、義務から生じ、権限は、責任から生じる。義務は、国民としての属性であり、責任は、その人の職務、責務の属性である。故に、権利は、国民としての義務を果たすために必要な権力として生じ、権限は、その職務・責務を果たすための責任から生じる権力である。

 教育は、義務である。当然、権利も派生する。それは、教育を受ける権利であると同時に、学習する権利、学習権である。学習権というのは、自分がどのような教育を受けるのかを選択する権利である。ただし、義務教育中の人間は、基本的に納税の義務を負っていない。故に、参政権を持っていない。その為に、保護者がこの権利を代行するのである。現行の教育で一番の問題は、この権利が、行使されていないという事である。納税者には、等しくこの権利があると思っていい。それが、平等である。納税額によって差別されないのである。ただ、同等ではない。なぜならば、義務教育期間中の子弟がいる者といない者とでは、自ずと差が生じるからである。だから、受益者に、受け取る利益に応じた負担が生じるのである。

 教育は、行政が一方的に決めるものではない。また、教育者が自分の考えを一方的に押し付けるものではない。一番、肝心なのは、国家理念と納税者の意志である。

 何を教えるかは、国家理念に反しない範囲で納税者が決める事である。教育者個人が反体制の思想の持ち主だからといって、国家理念に反する事を教える事は、許されない。それは、言論の自由、表現の自由、思想信条の自由とは、違うものである。なぜならば、それは、納税者の思想、信条の自由を護れないからである。
 また、教育は、国家理念に基づくものである。国家理念に反することを教えるのは、教育の目的を逸脱している。また、国家理念は、憲法によって保障されている。故に、反体制的なもの、生徒を煽動するような事を教えるのは、犯罪行為である。それは、職務上の責務であり、権利である、思想信条の自由、言論の自由と矛盾するものではない。医師や官僚、警察に職務上の守秘義務があるのと同様である。医師は、守秘義務があるから、医療行為を施す権利が、保障されるのである。

 地域社会は、納税者に対する責務が生じる。責務によって教育設備や環境を整えなければならない。地域住民は、教育に対する権利が生じる。
 更に、受益者は、受益者としての負担をした範囲で、教育に対する権利が生じる。それは、選択権である。
 学校は、実際に教育を執行する当事者としての責任がある。その責任から、権限が派生する。その権限は、実際の授業のやり方や内容に対する権限である。
 故に、教育は、地域社会、PTA、学校、三者による狭義に基づく合意によって運営されなければならない。その合意を形成するための制度や仕組み、枠組みを作るのが国家である。
 それが、義務教育である。

 地域社会は、教育のための環境や設備を整えるのが、責務である。同時に、その環境や設備に対する債権が生じる。また、地域社会の環境や秩序を維持するための権限が生じる。それを行使するために、地域社会は、教育の基本的原則や考え方を決めなければならない。また、教育者の任免を担わなければならない。
 保護者は、教育を受ける者の代行者としての責任が生じる。故に、保護者は、教育の思想、内容、授業のやり方に対する権限が生じる。
 学校は、教育者を雇用し、労働条件を整え、設備を管理する責任が生じる。学校は、教育者を評価し、設備を完備する権限持つ。

 労働組合は、労働者の保護を目的とした団体であり、労働条件や雇用を守るために存在する。政治思想を実現する団体ではない。ただ、その性格上、反体制的、戦闘的、思想的傾向を持つに過ぎない。しかし、思想的目的、政治的目的を組合の目的にするのは、明確な逸脱である。
 故に、教育改革を労働組合の目的や手段にし、教育の現場に持ち込む事は許されない。教育思想や手段を選択し、決定する権利は、納税者、及び、保護者にある。納税者、及び、保護者の委託を受けて、教育を執行する権限は、学校にある。

 学習権は、段階的に、当事者に委譲されていかなければならない。そして、最終的には、学習権は、学習をする当人が担わなければならない。その時点で、強制的に教育権を当人以外の者が行使することは許されなくなる。

 保護者が、自分の持つ責任を果たすためには、保護者が、学校を選択する権限を行使できる環境が必要である。その為には、学校は、自分達の教育思想、理念を明確にし、開示する必要がある。また、開示された思想や理念が、守られているか、否かを監査する権限が保護者にはある。その権限を国家や地域社会は、保障しなければならない。そして、地域社会や国家は、多様の理念や思想を持った学校が設立するのを保障しなければならない。
 教育の理念や思想を統一する事は、国家理念に反しない限り、国民国家としての民主主義国では許されない。

 国民国家である民主主義国は、国民の権利と義務によって成り立っている。故に、国民は、国家の理念と仕組み、制度を習得するのが、大前提となる。教えずして罰するのは、国民に対する背信行為だからである。国家理念を教育しないのは、国家的犯罪行為である。
 先ず教育がある。その上で、権利と義務を行使させるのである。それが国民国家としての民主主義国の責務である。
 故に、教育は義務なのである。


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