エピロローグ

 戦前の教育の根本目的は、修身斉家治国平天下であった。戦後、この教育方針は、頭から否定された。そして、戦後教育は、方向を見失い、彷徨う事になる。

 戦前は、道徳とは言わなかった。修身といった。
 敗戦後、修身は、抹殺された。戦後、修身を道徳に置き換え、道徳を否定した。そして、反道徳主義を鼓舞し。公序良俗、道徳に反する者を称揚したのである。
 道徳と修身は違う。
 道徳は、決め事である。べき論である。それに対し、修身と言う事は、身を修める事、姿勢である。
 修身というのが、自己に対する規律ならば、道徳は、外的規範である。つまり、外から、押し付けられるもの、強要される決め事、強制される決め事であるのに対し、修身は、自己の内部に根ざす規律である。道徳は、所与の決め事、予め決められている規範、つまり、自分が関われない規範であるのに対し、修身というのは、あくまでも、自分が自分に対する決め事に対する規律である。だから、根本は、自己である。

 ルールや法も決め事である。しかし、日本人は、このルールや法も道徳と同じように捉える。だから、ルールや法に自分は、関われないと思いこむのである。
 ルールや法を道徳のような規範から発するのか、修身に基づく規律から発するのかによってルールや、規範の在り方も変わってくる。ルールや法も自らに課す規律だとなるとルールも法も内面の規律に基づかなければならなくなる。その時、人間は、立法、政治に関わるようになるのである。それが民主主義の原点である。
 本来、民主主義を導入するためには、道徳でなく、修身でなければならなかった。なのに、なぜ、修身という言葉を抹殺したのか。道徳という言葉にすり替えざるを得なかったのか。そこに、日本を支配しようと目論んだ者の意志を感じる。

 身を修めるというのは、個の確立である。故に、個人主義国であるアメリカは、修身を否定するわけにはいかない。故に、一旦、修身という言葉を道徳に置き換え、その上で、道徳を否定したのである。その意味するところは何か。考えれば解る。
 民主主義教育に必要なのは、道徳ではなく、修身である。

 斉家とは、家を整えると言う事もあるが、新たな家を興し、その家を整えるという意味もある。
 家族というのは、血族という意味もあるが、共同体という意味もある。自分が帰属する運命共同体を指す。
 一家を興すというのは、一般的に言えば、男と女が結婚して、新たな家を造る事ともとれる。この場合、男と女は、当たり前に、血のつながりはない。義兄弟と言う言葉が示すように、血による兄弟よりも、義による兄弟の契りの方が、強いのである。その意味では、一家を旗揚げするとは、血の繋がりだけを意味するのではなく、同じ志の者が、一所に集い、一つの目的に向かって結集した共同体を家と言ってもいいのである。ならば、企業は、家の一種である。そこに家族主義の根がある。家を通じて、自分の理想や思想を実現する。それが斉家である。日本には、家族や地域社会を一つの家族と見る思想がある。それが家族主義である。家族主義は、家長制度とは違う。会社や地域社会を一つの家族と見なし、相互扶助、互助の精神で助け合っていくことである。これは、農耕民族である日本人の生活様式から生まれたものである。
 それに対し、戦後は、家族の否定、家族制度の否定が根本にある。核家族は、現れである。それが、やがて家族主義の否定につながる。かつて、会社は家族であった。喜びも悲しみも共に分かち合った。しかし、それが戦後、使用者と使用人に分裂した。結果、企業は、雇用関係だけの人間関係になってしまった。その為に、企業は、成績が悪化すると簡単に首切るようになった。大体、首を切るという言葉が、いかに、レイオフを残酷な事かという事を、日本人が、知っていた証拠である。家族ならば、苦しければ苦しいほど助け合う。その助け合いを拒否したところから出発した結果である。
 家というのは、自分が社会に対して働きかける時、依って立つべき基盤である。故に、家を整えるのである。家が整っていなければ、外に対して働きかける事ができない。だから、斉家なのである。
 そして、家が整った時、家を通じて国家に働きかけ、社会に貢献するのである。一人では何もできないと言う発想は、バックボーンとしての家を意識した言葉である。

 治国という言葉、修身斉家に基づく。愛国心というのは、この前段の修身斉家を踏まえないと正しく理解することはできない。修身から発する愛国心は、絶対的服従を意味するのではない。
 盲目的に国家に従うことを意味するのではない事は、根本に修身があることで解る。根本は、修身なのである。故に、国が間違った方向に進もうとした時、身を挺して諫めるのも、愛国心なのである。そして、平天下がその上にくる以上、根本的には、世の中から争いをなくすことが、治国なのである。その為の、国家に対する思いが愛国心なのである。愛国心なき変革は、ただの破壊活動に過ぎない。それは、エゴである。修身の対極にある思想である。

 平天下とは、天下、即ち、世界を平和にするという事である。この言葉に対する言葉に天下布武がある。つまり、武をもって天下を平らかにするである。
 平天下の意味するところは、世界平和である。軍国主義とは相容れない。平天下の手段として天下布武の思想があるが、それは、平天下と同じ思想ではない。平天下というのは、あくまでも、平和な世の中を造る事を目的としているのである。

 そして、浩然の気が、求められるのである。つまり、自分が間違った事をした時は、相手がどんな者でも、相手に対して恐懼し、許しをこい、反対に自分が正しいと信じた時は、相手が誰であろうと、また、敵が幾千幾万いようとも、ただ一人でも我は行かんという気概である。浩然の気を養うのが、民主主義教育である。
 それは、ある種の狂気である。それが、武士道である。それが日本の民主主義なのである。

 修身だから、寒中水泳をし、水垢離を、武道、茶道、華道を奨励したのである。修行をしたのである。それは、道徳とは異質なものである。身を修める事なのである。

 重要なことは、自分の身から出て、家に発展し、国と成り、天下に昇華することである。自己と家庭、国と天下が対立物と捉えていない点である。個人と家、国、世界を対立物と捉える世界観の対極にある思想なのである。そこが、戦後の日本人の発想にない、というよりも、失われてきた点、欠けてきた発想なのである。
 なぜか、それは、あえて言わない。ただ、それが世の中を修羅場にしてきた原因の一つであることは、間違いない。

 家族は、家族制度を否定し、組合は、会社を否定し、国民は、国家を否定したら、組織集団は、あっという間に解体する。家庭崩壊など言う言葉をしたり顔に使うマスコミが仕掛けたことである。自分で仕掛けておいて、あたかも、社会現象であるかのように問題の本質をすり替える。その根本に個人主義があるように言う。違う、修身、つまり、個としての確立を否定したが故の結果である。

 子供を持つ女性は、母であり、妻であり、女であり、娘であり、嫁であり、更に人間である。その上、キャリアを持っている者は、職業人でなければならない。また、男も勤め人の場合、父親であり、夫であり、男であり、社員であり、組合員であり、市民、人間でなければならない。
 これらを、独立し、対立したものと捉えれば、時と場合と場所に応じ、自己の価値観を選択し、使い分けなければならなくなる。そんな事を続ければ、必然的に自己の内部は、混乱し、最後には、分裂してしまう。逆に、これらは、統合され、一体なものと見なせば、自己は、確立される。そして、調和や均衡のとれた人格が形成される。
 現行の教育は、これを個々独立した別々のものと見なす。故に、核となるべく、内面の世界がバラバラに分裂してしまう。極端な場合、内面の価値観と行動規範が、分離してしまう。結果、人格が分裂し、家庭が崩壊し、社会・国家秩序が失われ、世の中が乱れる。この様な現象は、現行の教育が生み出していると言っても過言ではない。つまり、戦後教育の成果が、世の乱れなのである。

 それに対し、修身斉家治国平天下は、終始一貫している。だから、こそ、不動の精神が養えるのである。また、その始まりが、修身であることを忘れては成らない。修身であるからこそ、独立不羈の精神が保たれるのである。隷属でもなく、対立でもない。独立不羈である。故に、教育の柱たりうるのである。
 国を守り、会社を守り、家族を守ることが、自分を守ることなのであり、自分の独立を守り、家族の独立を守り、会社の独立を守る事が、国家の独立を守ることなのである。それが、修身の考え方である。

 個人主義というのは、個々の人格をバラバラに分離することを意味するのではない。一個の人間と統合することを意味するのである。閉ざされた学校の中で、子供達は、親に見せる顔、先生に見せる顔、友達に見せる顔、社会に見せる顔を使い分けるようになってきている。親も先生も時々、いつも見せる顔と違う顔を見せられて、当惑している。それでは、子供を教育することはできない。教育には、学校と家庭、友達、社会を貫く支柱が必要なのである。

 先ず、自らの身を修め、律し。その上で、新たなり共同体を興し。その共同体を通じて国家を建設し、そして、世界平和に貢献する。これが、修身斉家治国平天下の意味です。 つまり、民主主義の基本理念に合致しているのである。ただ、戦前は、体制が、全体主義的なものであったから、全体主義的に利用されただけなのである。その為に、修身斉家治国平天下の理想は、歪められ、歪められたまま、否定されたのである。

 しかし、新たなる国家、特に、民主主義国を再建するためには、この修身斉家治国平天下は、最もふさわしい理念である。

 最後に、戦前の海軍兵学校の五省をのせておく。これが、日本人の修身の精神である。
 一,至誠(しせい)に悖(もと)るなかりしか。(誠に反する点はなかったか)
 一,言行に恥ずるなかりしか。(言行不一致な点はなかったか)
 一,気力に欠(かく)るなかりしか。(気力は、漲っていたか)
 一,努力に憾(うら)みなかりしか。(精一杯の努力をしたか)
 一、不精に亘(わた)るなかりしか。(最後まで、やり抜いたか)






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