プロローグ


 なぜ、民主主義国において教育は、権利ではなく、義務なのか。それは、民主主義国は、国民国家だからである。国民国家である、民主主義国は、国民の総意によって運営されている。国民の総意を国政に反映するためには、国民は、多くの知識や技術を身につけておく必要がある。故に、初等教育は、義務なのである。

 この事から、義務教育の目的が明らかになる。義務教育の目的の第一義は、個人の確立である。第二に、人間教育である。第三に、民主主義教育である。

 第一義の個人の確立は、国民国家である、民主主義国は、国民一人一人の権利と義務によって成り立つ事に主因がある。つまり、個人の経済的自立と政治的自立、社会的自立が、民主主義を成立させるための大前提となるのである。
 また、国民国家の独立は、個人の独立によって検証される。国民一人一人、個人の独立なくして、国家の独立はないからである。いかに、外見的に独立しているように見えていても、国民の大多数が、何ものかに隷属しているようでは、それは、民主主義国においては、真の独立とは、見なさない、故に、国民一人一人の独立、即ち、その前提となる個人の確立が義務教育の第一義となるのである。
 中でも、経済的自立は、政治的自立、社会的自立の前提となる。つまり、政治的独立、社会的自立は、意識の問題である。それに対し、経済的独立は、現実である。つまり、政治的独立、社会的自立は、観念の所産であるのに対し、経済的独立は、実体を伴う生活の問題、生存に関わる問題である。故に、義務教育の第一義は、経済的自立である。

 政治的独立を優先する傾向があるが、実際には、経済的自立こそ、優先すべき問題である。経済的に自立できなければ、結局、何ものかに隷属せざるを得なくなる。自由か、しからずんば、死かである。しかし、経済的に自立していれば、違う選択肢を持つ事が可能になる。経済的自立を前提とするから、私的所有権を認めるのである。経済的自立を軽視するのは、観念論者の悪癖である。
 経済を軽視している限り、民主主義の本質は見えてこない。

 第二は、人間教育である。民主主義国は、国民一人一人の道徳に依存している。道徳の基礎となる思想信条は、個人に委ねる事によって成立している。その上で、個人、個人の総意と合意によって成り立つ。つまり、個人が信じられなくなった瞬間に、民主主義は、瓦解する。故に、人間としての最低限のモラル、道徳を明らかにしなければ成り立たない。その根本は、遵法自治の精神である。
 思想信条の自由とこの道徳教育を混同し、道徳を教えるのは、思想信条の自由に反するという間違った認識をする者がいるが、これは、思想信条の自由の真の意味を知らない事による勘違いである。
 国民国家である民主主義は、国民の権利と義務によって成立する。その権利と義務の根源は、国民一人一人の内面の価値観、倫理観である。国民一人一人の内面の価値観に、民主主義国家の根源をおくから、思想信条の自由は、民主主義における絶対必要要件となるのである。
 故に、人間教育は、義務教育の主要な目的の一つなのである。

 更に言えば、民主主義のモラルは、憲法から発する。憲法は、それが建国の理念であり、国民の総意だからである。そして、憲法は、権利と義務の根拠だからである。国民の総意から発していないとしたら、憲法は、変えなければならない。

 第三に必要なのは、民主主義教育である。民主主義は、観念的な思想ではなく、実体的な思想である。つまり、民主主義は、言葉で表現されるのではなく、制度や仕組みによって表現される思想なのである。いくら、言葉で民主主義的に装(よそお)っても、実体が伴わないと民主主義とは言えない。
 更に、民主主義は、国民国家である。全ての国民が等しく、国家の制度や仕組みを理解していないと、民主主義は、機能しない。故に、民主主義教育は、民主主義国において義務なのである。

 この様に考えると民主主義は、教育によって成り立つ、教育によって支えられていると言っても過言ではない。翻って言えば、教育の錯誤は、そのまま、民主主義の錯誤につながる。教育と民主主義は、切っても切れない関係なのである。

 戦後、日本人は、民主主義に関して間違った観念を植え付けられた。それは、何者かの意図に基づいて為されたのか、それとも偶然かは、解らないが、極めて短絡的に民主主義に対する観念を植え付けられた。その一つが話せば解るという考え方である。
 現実の世界は、話せば解るという世界ではない。民主主義は、それを前提している。話し合っても解らない人間がいる。それが大前提である。話し合っても理解できない人間がいる。しかし、そう言う人間とも共存していかなければならない。その為には、どうしたらいいのか。どういう制度が必要かと考えた末に生まれたのが民主主義である。
 日本のように、単一民族で、宗教観も、価値観も似通っている者同士によって構成されている国とアメリカのように、他民族、他宗教の国とでは事情が違う。そのことの無理解さが、話し合えば何でも解るという発想が民主主義だという転倒した考えを生み出したのだろう。そこから、ルール無視の話し合い文化が形成されてしまう。暗黙の了解や腹芸というものが重視されてしまう。外から見て解らないものは解らない。そんな当たり前なことが無視されてしまう。そして、それを民主主義という。民主主義の根本は、開示である。当事者しか解らない解決方法とは相容れない思想である。
 民主主義の根本は、話し合いだというのは、解る。しかし、話せば解る何事もという事ではない。話し合ったところで解りあえない。だから、予め話し合いのルールを決めておくというのが、民主主義なのである。話し合いを尽くした上で、ルールにに従って物事を決めるというのが民主主義の原理である。ただ、話し合うばかりでは、何も決まらない。だから、日本人流の考え方ではいつまでたっても話し合いは付かない。だからこそ決め方が重要になるのである。

 民主主義教育は、この決め方、判断基準、ルールから始めなければならない。





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