成長に合わせた教育

 古くからの街や都市を旅すると町並みの整然としている様に驚かされる。それは、かつての街や都市が計画的に建設されたことの証である。
 近代に入ってから、都市の景観は、一変する。一つ一つのビルや建物は、個性的、独創的なものなのであろうが、都市全体を見渡すと雑然として、無機質であり、風景の中に埋没してしまう。景観というものがない。統一性がない。美しさがない。都市全体に対する計画や景観が失われている。特に、戦後の日本にはこの傾向が強い。これを進歩というのならば、進歩そのものに問題があるに違いない。

 進化や進歩に対する神話が現代人にはある。新しいものは、何でも正しくて、古いものは、全て悪いという進歩、進化にたいする神話である。
 しかし、近代都市は、ビジョンという観点から見たら明らかに落第である。雑然とし無計画に建てられたビル群が景観を破壊している。美意識というものを近代人は、麻痺させてしまったのだろうか。意志が感じられないのである。

 学校は、社会の縮図でなければならない。当然、社会には、容認、許容できる範囲がある。社会の容認、許容できるあらゆる階層、あらゆる職業、あらゆる個性、あらゆる宗教に対応できるものでなければならない。

 現実の社会は、多様である。社会が多様だからこそ、人間は、自分の生き方を自分に合わせて選び出すことができる。自分の能力や成長に合わせて自分の生きる道を選ぶことができるのである。社会は、多様だからこそ豊なのである。

 単一な、統一的な方向性しかない教育制度は、単一な社会を想定していることになる。この様社会は、全体主義的な社会であり、民主主義を国是とする我が国では、現実的ではない。現行の教育制度は、極めて統一的方向を志向している。現実から乖離するのは、当然の帰結である。設計思想が狂っているのである。
 教育の道は、一本道であるようだ。他に選びようがない。教育は、成長の過程で人それぞれが自分独自の道を選べるように、いろいろな道を用意しておくべきなのである。そのように設計されるべきなのである。
 学問の道も多様であり、画一的な教育は、学問をも妨げる。

 教育は、あくまでも従である。現代教育の過ちは、教育が主となっていることである。成長に会わせた教育という時、成長や段階を決め付けるのではなく。子供、一人一人の成長を見極めることが大切なのである。それは、子供の主体性や個性で主であることを意味する。教育が主となり、子供の発育が従となった時、教育は、子供の成長を阻害する要因となる。

 社会の実相が多様であり、個人に個性があることを前提とするならば、能力や個性に応じて社会も受け皿を作っておく必要がある。つまり、それぞれの能力に応じて教育にも差を付ける、多様な制度を作っておくのである。職人学校や野球学校、サッカー学校、調理師学校、花嫁学校のようなものがあってもいいのである。こう言うと、それは、差別につながると穿った見方をする者がいるが、それを裏返すと勉強ができる子が優秀でそれ以外は劣等だという差別感が隠されていることを意味する。観念的平等論者にこの様な差別主義者が多くいる。現行の学校制度の方向性は、大学の教授か学校の先生の育成が主となる。学歴による差別の為に、教育の多様性が妨げられて、社会に対する不適合者が増えているのである。

 皆を同等に扱うのが平等ではない。共通点と相違点をよく見極めることである。共通的に身につけるべき事と、専門性をどう両立させるかが重要な課題となる。
 画一的教育で夢や希望を奪い取っておいて夢も希望も持てないと責めるのは酷である。

 現代の教育の世界は、偏差値や試験制度による階層的なヒエラルヒーによって支配され、しかも閉鎖的、統制的、画一的な社会である。しかも、その世界自体が現実から遊離してしまっている。一種の家元制度に似ている。この体制は、人間の自然な成長や個性を無視したところに成立している。それ故に、それ自体が独自の世界を構成し、現実の世界と相容れない関係を構築している。現実の世界と教育の世界は断絶しているのである。

 専門学校や職業訓練学校、語学学校、教習所の方が教育本来の姿に近い。義務教育を終了したら目的に応じて学校を選択し、いつ入学してもかまわないのである。学校というのは、本来的に目的志向の存在である。

 教育制度を設計するためには、社会をどのように規定・定義するかが鍵・基本である。
 教育制度とは、社会そのものを設計するもの、又は、社会の設計思想を下敷きにしたものでなければならない。そう考えると、本来、教育制度は、都市計画と一緒に立てられるべきものなのである。

 近代という時代は、都市計画を放棄する事によって成り立っている。一見計画があるようで無計画なのである。その典型が教育である。

 教育者達は、ニュートラルな人間、中立的な人間、平均的な人間を育てようとしているのだろうか。それは、没個性的、受動的な人間である。主体的で能動的な人間を育成したいという自分達の主張に反していることにも気がつかない。
 しかも目指すべき具体的な人物像も欠いている。教育は、観念の所産ではなく。現実である。

 現行の教育は、入り口、入力の部分に偏っている。記憶も認知も思考の入り口に過ぎない。脳科学の限界も主として記憶や認知に偏っていることにある。しかし、教育は、出力側から入力側を規制する形で考えられるべきである。学校は、卒業するまでのことを問題にするが、本来は、卒業した後の事からその在り方を考えなければならない。

 脳科学や精神医療の発達は、人間の成長過程に重大な示唆を与えた。しかし、脳科学や精神医療の背景は、医療であり、犯罪心理学である。医療や犯罪学と教育とは別物である。教育と脳科学や精神医療とでは、目指す目的が違う。その点を正しく認識しないで、脳科学や精神医療の結果を教育現場に持ち込めば、無用の混乱を引き起こすだけである。ただ、その点を正しく認識していれば、脳科学や精神医療の成果を教育に生かすことは、画期的なこととなるであろう。
 医療と更正(犯罪心理学)は、教育の両極に位置する。教育は、本来、その中間にある。
 教育は、医療と更正の中間に位置し幅広い領域をカバーしている。人間の成長や能力には、個性があり、幅広い領域に散在している。偏って存在しているわけではない。特に、人間の成長は、画一的ではなく千差万別である。しかも、人間の成長にいろいろな要素が複雑に絡み合っている。

 人間の成長を土台にして教育を考える時、第一に、生物学的次元、第二に、遺伝学的次元、第三に、医学心理学的・生理学的次元、第四に、心理社会的次元、第五に、文化社会的次元、第六に環境的次元、そして、第七に自己的次元の七つの次元から考察する必要がある。第一から第六までの次元は、精神医学の多次元診断にその元がある。(「犯罪心理学入門」福島章著 中公新書)第七の自己的次元というのは、内面の価値観や信仰心と言ったものを指す。

 人間の成長は、画一的なものではなく。複数の要素が複雑に絡み合って成立している。個人の成長に合わせて教育は為されなければならない。個体差に適合した教育をするためには、学習主体が主体的、能動的に関われる制度でなければ有効に機能することができない。それ故に、教育の主要テーマは、何を教えるかではなく、制度であり、仕組みであり、環境なのである。

 一人の人間としてのライフサイクルだけでなく、一人の人間を形成する個々の要素、肉体的、生理的、器質的、機能的ライフサイクルも重要なのである。
 個々の部分のライフサイクルによる相乗効果によって全体のライフサイクルが統合的に形成される。

 学習主体の成長段階事の性格や方向を見極めた上で、教育プログラムを組む必要がある。年令よりも成長の速度を重視すべきである。

 人間の成長は、一定ではなく急激に成長する時期がある。
 逆に一定の年齢にならないと成熟しない能力もある。つまり、今度は早ければいいと言うのも間違いになる。

 教育には、教える順番・手順がある。それは、人間の脳や能力、肉体、精神の発育に段階があるからである。更に言えば、物事には、段取り手順がある。その人が置かれている環境や家族構成、社会構造からも成長や発育の差が生じる。生まれたばかりの赤ん坊に、物理学や高等数学を教えても意味がない。反対に、高校生に幼児に教えるようなことを教えれば、怒り出すだけである。目に障害がある者に健常者と同じように野球をしろというのは、平等という概念とは、無縁なことである。
 食べ物を食べてから作ると言う事ができないように、物事には、教えるべき手順・順序があるのである。価値観が定まらない者を大人の尺度で裁くことはできない。しかし、物事が判断できなければならない年齢に達しているのに、犯罪を犯せば、許されないであろう。その基準は、教育にある。必然的に、教育は、段取り、手順、手続き、順序、その者が置かれている肉体的、精神的、環境的条件が重要な要件となるのである。

 脳の成長は、三歳くらいでピークを迎えると言われている。
 新々皮質は、十代末期に完成されると言われいる。(「脳を育てる」 高木貞敬著 岩波書店)新々皮質とは前頭連合野、頭頂連合野、側頭連合野を指す。
 八歳から九歳の頃に前頭や連合の基本的に神経回路が完成されると言われている。つまり、単純記憶は、このころにピークを迎えると考えられているのである。(「頭が良くなる脳科学講座」 大島清著 ナツメ社)それに対し、エピソード記憶は、二十歳後半から三十代にピークを迎えると思われている。つまり、前頭前野と脳の他の部位との連絡が完成するのは、二十五前後といわれています。(「子供の脳を伸ばす法」高田明和著 リヨン社)つまり、人間として完成するのは、二十五歳以降とも考えられるのです。

 手続き記憶は、主に小脳の働きが関わっており、小児期にピークを迎える。一度獲得されるとなかなか失われないと言う傾向を持つ。
 手続き記憶は、人間の思考、行動に枠組みを持たせる。故に、基本的な行動規範は、小児期までに躾ておいた方がいい。つまり、社会的生活を営む上で必要な礼儀や作法は子供の頃に身につけさせておく必要がある。
 現行の学校教育では、特に、軽視する分野であるが、これが確立されないと社会道徳、道徳心が育まれない。

 脳の成長には、成長期と臨界期というのがある。(「脳の健康」生田哲著 ブルーバックス)脳だけでなく、肉体の成長にも成長期と臨界期がある。
 しかし、教育で重要なのは、単純に能力的、肉体的臨界期なのではなく。人間的な意味での臨界期である。社会人として自律的な生活をしていくためには、一定の段階を踏まえて成長をしていかなければならない。その段階には、個人差はあるが、それぞれ、臨界期がある。その臨界期をどのようにクリアするか、させるかそれが教育上の最大のテーマなのである。

 幼児教育の必要性を問題にする時、幼児の脳の発達ばかりに偏る傾向がある。しかし、幼児期で必要なのは、見るとか、話すとか、認識すると言った基本的、基礎的素養である。そこにこそ、幼児教育の必要性がある。いわゆる英才教育や学習塾、体育教室のようなものを指すのではない。

 大学を卒業してから職人にしようというのは無理なのである。とりあえず、高校を卒業してからその後のことを考えようと言うのは、惨いことなのである。高校時代というのは、いろいろな能力が臨界期を迎える。大学を卒業してからでも遅くないというのは間違いである。それは、必要な技能を習得した上での話である。必要な技能を習得していないと選択肢がどんどんと狭まっていくのである。高校を卒業してからでは遅いのである。特に、技能に関しては、この臨界期が意外と早くくる。

 社会人として自立した人格の完成を義務教育が目指すというのは理解できる。しかし、それにしても、その期間が長すぎる。もともと、我が国では、十五歳で元服をさせ一人前の社会人として認めていた。また中学校で、義務教育の期間が切れるのも一人前の人間として自立する年齢を中学校の卒業に合わせていたからに他ならないはずだ。その年齢をいつの間にか高校卒業まで延長し、自立年齢を二十歳に引き上げてしまった。つまり、脳も身体も十三歳から十五歳ぐらいで成熟しているのに、そのときに自立するように仕向けないで、五年から六年も延長してしまっている。その為に、自立するための臨界期を過ぎてしまうのである。十三歳から十五歳頃に自分の生き方の選択をさせ。二十歳以上になってら、社会人としての要求をする。この様に、段階的に社会に受け容れていくべきなのである。

 だからこそ、脳の発育成長に応じた教育が必要となるのである。

 脳の発育は、教育において重要な要素である。ただ、教育においても発育においても脳だけの問題ではないことだけは、忘れては成らない。脳と身体の発育は、不可分の関係にある。

 元々、違いがある者を画一的な枠組みの中に押し込んでしまえば異常をきたすのは当然の帰結である。言うなれば、学校が、精神異常を引き起こしている可能性を否定しきれない。密室における長時間にわたる拘禁、強要、服従、監禁が、人間の精神に悪影響を与えることは明らかである。さらに無目的な反復的、受動的、単純作業は、拷問に等しい。集団行動における規律が加われば精神異常を引き起こす要素が出そろっている。

 明らかにできないと解っている子供に、やることを強要し、できないと言って叱るのは、単なる虐待である。
 まだ、価値観ができあがっていない子供に、大人と同じ判断を求めるのは、一種の虐待である。

 勉強は自分でするものである。向学心、学習意欲をどう高め、それをどのような方向に導くかを考えるのが、教育である。




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