老齢期


 現代思想は、ただ生きることだけにしか価値を見出そうとしていない。それは、人間を生きる物としてではなく、ただの物としてみないからである。そこにし、個々人の生き甲斐など関係ない。だから経済的な価値ででしか人の一生を判断することができなくなっている。
 そうなると、労働は苦痛でしかない。ただ生きるために仕方がなく働いているに過ぎない。だから、休みを多くして、早く、労働から開放されることが目的となる。
 しかし、働く場所や働く時間を失ったら、人間に何が残されているのだろう。働くことは、生きる為に不可欠ならば、働くことは、生活の一部であり、生きることそのものなのである。
 現代思想にとって生活も、その意味では、否定されるべき活動なのかもしれない。しかし、生活を否定する事は、生きることそのものを否定する事になる。

 生きることの難しさ、虚しさが如実に現れるのが、年老いてからである。それは、取りも直さず生きることの意味を改めて考えさせられる時期でもある。
 年をとると言うことは、ある意味で残酷なことである。未来への希望や可能性が狭まっていく。新しいことをするためには、気力も体力も残されていない。同じ事を同じようにしようとすれば、若い人間には、太刀打ちできない。二十代の若者と同じ条件で六十代、七十代の人間が競わせようとするのは残虐な行為でしかない。
 しかし、一方において、年寄りには、生きてきた蓄積がある。それは、人間としてかけがいのない財産である。人徳として昇華されたものである。
 現代人は、その蓄積を全て否定しようとしている。だから残酷だというのである。
 年をとった人間に年をとって衰えたことを理由にして、新しいことや新しい環境に移ることを求めるのはお門違いである。新しいことに適用ができないから、年寄りは大変なのである。できないのが解っていて、それを、強要するのは残忍である。
 人は、生きてきた時間だけ多くの経験や知識がある。その経験や知識を上手に活用することが年寄りの特権なのである。その為には、その人その人が生きてきた軌跡の延長線上に生活の基盤を求めるべきなのである。
 年寄りには、年寄りにしかできないことがある。老いても活躍する場所はある。人に役に立てるからこそ生きる喜びがあるのである。生きてきた証のような事まで愚弄されれば、生きる気力まで奪われる。年寄りは、社会の厄介者ではないのである。
 老人をただ介護の対象としてしか見れないのは、その人の心が貧しいからである。人はただ生きているわけではない。生きようとして、生きる希望を持つから生きるのである。
 生きると言うことは、生き生きと生きることである。世間の世話になり、邪魔者扱いを受けることではない。年をとっても幸せになる権利はあるのである。
 誰の世話にもなりたくない。そんなことを年寄りに言わせるような社会は、本当に豊かな社会なのであろうか。
 人生の終局に、俺は、何のために生きてきたのだろうなんて年寄りが呟くような社会は貧しいのである。最後まで生きることが大切なのである。

 老齢期とは、人生の総仕上げの時代であり、それぞれが、それぞれの分野で達人と言われ、崇拝されるべき時代なのである。それこそが、老齢期における教育。教育と言うより、修業なのである。
 老人は、これから世に出ようとしている人々や将に、世の中を指導しようとしている人々を教え導く立場にこそあるのである。それは、世に達人と言われる人々でしかできない仕事である。故に、長老と言われ、元老、大老と言われて尊ばられ、崇拝されてきたのである。

 現代社会は、弱者を切り捨てることによって成り立っている。つまり、力が漲り(みなぎり)、急速に成長し、変化に柔軟に対処できる世代だけを対象にした社会だと言う事である。しかし、それは、社会が自分の責任、役割を自らが放棄していることを意味する。国家、社会が、自らの存在意義を問われているのである。
 定年制度はその典型である。また、日本の福祉政策も、福祉とは名ばかりで、姥捨て的発想で設計されている。
 人生の終盤において、実り豊で誇り高い生き方ができるようには考えられては居ない。社会の生産性や効率だけが優先された社会である。その結果、急速に若者にかかる負荷が増大している。生産性や効率のみを追い求めた結果、かえって社会的負荷が増大している。その矛盾に誰も気が付いていない。
 老年期の問題は、最終的に生き甲斐の問題に帰結する。

 幸せであるか、否かは、晩年の生き方にかかっている。私の父は、こう呟いたことがある。人の評価は、棺の蓋を被った後で定まるという格言(大夫棺を覆いて事始めて定まる 杜甫)もある。

 今の老年期は、いわば諦めの期間である。つまり、生への執着心を捨てさせ、世捨て人の如き生活を強いている。しかも、それが年寄りへのいたわりだと言う。本当にそうであろうか。そこには、老人に対する敬う気持ちも労り(いたわり)もない。厄介者に対するのと同じである。老人は、介護する対象でしかない。

 老齢期というのは、本当に不毛なのであろうか。何の可能性も、希望もないのであろうか。ただひたすら、お迎えを待つだけなのであろうか。

 年寄りを大切にしようと言うのは、道義的な問題だけからではない。実利的、実際的な問題でもある。
 年寄りにも役割はある。必要なのである。年寄りを厄介者扱いすることをやめるべきである。年相応の役割があるのである。

 老いを考えることは、人生を考えることである。
 人間は、生まれた時に、人の世話になり。また、老いた時に人の世話にならなければならない。それは、人間の本質でもある。だからこそ、育児と介護は、最も根源的な問題なのである。健康な時、人の世話を受けずに生きているときが問題なのではなく。人の助けがなければ生きられない時にこそ、人生の本質は隠されている。そこを棚上げにしたり、切り捨ててしまったり、見ないことにしたら、人生の深淵を理解することはできない。

 歳をとるというのは、やがて行く道なのである。自分の道なのである。父や母にしたように我々もされるのである。

 先哲、成人が探求した事は、悉く(ことごとく)生病老死のいずれかである。現代社会は、この生病老死の問題を切り捨てた。哲学なき時代、神が不在な時代といわれる所以である。それは、科学が、とりあえず生病老死を棚上げしたからに過ぎない。そうしてみると、科学は、一番肝心な問題には触れていない、触れようともしていないことになる。科学万能といわれても結局一番知りたいことの回答はまだ得られていないのである。

 生病老死を棚上げし、現実主義に徹したところに現代科学の基礎はある。それは、人間の生きてきた過程、軌跡を帳消しにして、ただ生産性や効率を追求した結果を招く。そのあげくが、現代の福祉行政である。現行の福祉には、人間らしさなどかけらもない。ただ生かしてやればいいという発想だけである。人間の尊厳や生き甲斐など一顧だにしていない。人間性なき人道主義、それが現在の福祉である。

 技術革新の速度によって経験や知識が無駄になったように錯覚しているだけである。しかし、長命は、それだけでも、祝うべき事である。秦の始皇帝は、全てを支配してもなお長寿の薬を求めた。それが人間の本性である。

 かつて、美しく歳をとるというのは、人生の目的であった。子供や孫に囲まれ、皆に祝福されながら、穏やかで安らぎに満ちた晩年を過ごすというのは、一つの理想である。しかし、現代は、子供達から見放され、誰にも世話にはならないと片意地を張って一人淋しく施設の中で老いさらばえていく。それが現代人の出した結論である。全ては、金の問題である。心の問題は、どこかに置き忘れられてしまっている。

 抑制心が弱まる老齢期は、その人の本性がむき出しになってくる。そこへ、惚けや痴呆が追い打ちをかける。きれいに歳をとると言うことは、本当に難しいことである。だからこそ、人生の晩年は、最高の修業の場となるのである。

 きれいに歳をとることは、人生最高の栄誉だからこそ孝なのである。

 老齢期は、人生における集大成であるべきなのである。失われていく力や記憶、技術や能力それに逆行しながら人間としての最後の修業、修道の期間こそが老齢期、晩年である。自制心や抑制心が失われ。自らの規律が保てなくなってきた時、自らを支えるのは、それまで培ってきた、人間としての矜持(きょうじ)である。

 故に、老齢期における教育というのは、諸々のハンディキャップを乗り越え最後の修養、修業を行う人達を敬意と尊敬を以て支援・援助することである。それは、決して憐れみや同情からでるものではない。世話をする者もされる者もそれこそが最高の修業なのである。



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