壮年期


 壮年期というのは、複雑な世代である。丁度、青年期から壮年期への境で厄年にかかるのも、この世代の複雑さを象徴しているように思える。
 自信と挫折が錯綜し、肉体的な衰えを自覚しないで、つい無理をし、過労死や大病を患ったりする時期である。だから、厄年といって古人は、警告を発したのである。
 過信と自己嫌悪が交互に現れる世代である。どうしていいのか解らなくなる世代である。自分の生き方に自信が持てなくなりやすい時期なのである。

 壮年期は、青春期の過ごし方で決まる。青春期に自堕落な生活を送った者は、壮年期に、取り返しの付かないハンディを負うことになる。つまり、青春期は、肉体的にも精神的にも成長段階の後半にあるのに対し、壮年期は、ピークにさしかかっているか、衰退期に入りかかるからである。つまり、成長期に在れば、多少の遅れは、取り戻せるが、衰退期にかかると一度、技術や知識を失うと回復することができなくなるからである。
 しかし、壮年期前期の人間には、その自覚が稀薄である。それは、厄年といわれるような体の変調や災害を為す一因でもある。壮年期こそ、努力と勉強が重要になるのである。

 以前、今井通子の話の中で印象に残った話がある。
 「二十歳までは何もしなくても上達した。二十歳から二十四歳ぐらいまでは、練習をすれば上達をする。二十四歳から二十八歳までは、練習をしても横這いである。二十八歳を過ぎると練習をしても衰えてしまう。だから、三十を過ぎる頃に、私は、北壁に挑戦する資格を得たと思った。」

 今井通子の言葉は、青壮年期の置かれている立場・状況よく表している。青年期は、人生の転機、変動が集約して現れる。そして、壮年期は、それ以後の人生の方向性を示している。青年期には、上昇と下降が交錯して現れる。それに対し、壮年期は、下降傾向が顕著となる。そして、後から追いかけてくる者と負われる者とが交叉する時でもある。追われる立場になり、追う者の足音が間近に聞こえてくる年代でのある。

 壮年期は、青年期に引き続いて社会活動の中核を担っている。その反面において、どうしても次世代、若い世代にかなわないことが出始める。つまり、現役から退く、引退することを意識し始める世代なのである。

 また、壮年期の大きな特徴の一つは、青春後期から壮年期にかけて育児、子育ての期間が入るという点である。
 育児、子育ては、大変な勉強である。子供を教え育てることは、学ぶことが多くある。負うた子に教わるのである。

 壮年期で重要なのは、自分達が指導的な立場に立たされるという事である。どちらかというと、受け身だった学習態度が、能動的に又は、主導的になる必要がある。また、指導の仕方を学ぶ必要がある。

 会社では、管理職に登用され、マネージメント業務と部下指導が主たる仕事になってくる。ところが、そのような環境の変化に付いていけずに、組織や新しい仕事に不適合な人間が増えてくるのである。仕事の段取りをつけたり、部下指導をする。要するに、自分では働かずに、人を使う立場に立たなければならないのに、いつまでも、自分でやろうとする。その為に、組織の調和や生産性、効率が損なわれる結果を招く。

 指導的な立場にあることが、逆に、組織内における自分の役割、立場との乖離を招くことにも成る。自分は、一線を退き、次の世代の指導、支援する側に廻らなければならないのに、ついつい自分がやってしまう。その為に、組織から厄介者扱いにされ出す。
 継続してきた仕事を失う、喪失感。つまり、後輩に自分の仕事を奪われる。奪われるだけでなく、自分のやってきた事、やり方を全否定される。そこから来る虚しさ、空疎感、虚脱感、疎外感。そして、頂点を極めた後、追われる立場になるのである。スポーツ選手を見れば解る。上り詰めれば、後は下るしかない。
 次世代が台頭する中で、自分の限界に苦しむ。後輩を認めたいが、認めてしまうと自分の立場が、居場所がなくなるのではと言う焦燥感に囚われる。転職をしたくても、次の就職先が見つからないという絶望感、諦め、それから来る諦観に陥る。現実に、自分より、若い世代に体力的にも技術的にもうち負かされてしまう。その敗北感。将に、天国と地獄。栄光と挫折。メイト案が交錯する年齢なのである。

 この年齢を乗り切るためには、学校教育で言う教育ではない。異質の教育が必要となる。則ち、人間教育、修業、修養である。同時に、必要とされるのが、指導者としての教育である。

 自分が第一線、現役から退くと同時に、自分の志を継ぐものを育成する。その時代なのである。自分の限界を感じつつ、尚かつ、後進に道を譲らなければならない世代である。後ろ髪を引かれる世代である。
 指導者になれるかなれないかでその後の人生は大きく変わる。名人・達人の域に達するか否かで、人の評価も別れる。
 しかし、指導者としての素養は、一線で働く者の持つ素養とは違う。異質である。名選手必ずしも名監督にはならず。かえって下積みの経験の方が指導者としては役に立つ。しかし、どちらにしても、青年期における努力がものをいうのは確かである。

 第一線を退き監督やコーチになる世代なのである。まだやれるという思いと、もう駄目だという思いが交錯する世代である。
 同時に、監督にもコーチにもなれなければ、行き場所、居場所がなくなっていくのである。過酷な環境に置かれている世代である。

 ある意味でやり直しがきかないか、難しい世代なのである。新しいことを始めるにしても体力的にも精神的にも衰退期に入っているために、青年期のようにはいかなくなっている。それを徐々に思い知らされる、自覚せざるを得ない世代なのである。
 もう若くはない。しかし、諦めるには、早い世代なのである。

 体型的にもおじさん、おばさん体系に変わりつつある。気になる世代である。自負心と劣等感に苛(さいな)まされる世代、精神的に不安定で在り、人生の岐路、分岐点に立たされる世代である。味のある年齢でもあれば醜く変貌する年齢でもあるのである。その違いはどこから来るのか。それこそ、違いの解る人間になるかならないかが運命の分かれ目なのである。

 性的にも衰えを自覚するようになる。それに反比例するように性に対する興味が逆に高まる。若年層の性的行動が、どちらかというと直情的、粗暴なのに対し、この世代の性的行為は、どこか鬱屈しており、観念的、退嬰的なものになりがちである。

 だからこそ、教育が必要なのである。研鑽が必要なのである。自分と戦わなければならないのである。厄年というのは、ある意味で昔の人が壮年期の人間に発した警鐘なのである。

 まず、自分の肉体的変化、限界を正しく認識し、その上で、新たに自分に与えられた役割を学ぶべき世代なのである。そう言う意味では、第二の教育期間でもあるといえる。壮年層を対象とした各種のカルチャースクールが花盛りなのが、その証拠である。

 自分が達成することを喜びとするのではなく。自分が指導したものが自分に代わって達成することを喜びとする。難しいことである。自分は、表舞台からさり、黒子に徹する。その精神が要求されるのである。つまり、この時期の教育、学習は、精神面での自己鍛錬的要素が強くなるのである。

 挫折感と自信喪失、諦めと現実からの逃避、それがこの世代の特徴でもある。
 学ばなければならないのは、仕事の段取りの付け方や組織・社会の仕組み、人の指導の仕方、使い方である。基本的なマナー、礼儀、道徳、そして、常識、良識である。人間性、人徳が要求されるのである。生き方の基本である。しかし、一定の年齢を超えるとそれでなくとも人から学ぶのが苦手となる。そのうえ、今更、こんな当たり前な事をと、当人のプライドが邪魔をして、他人から学ぶことが難しくするのである。結局、壮年期以降の教育において一番の障害は、当人の自尊心である。
 つまり、壮年期の教育は、教育と言うより、自己研鑽、精神修養であり、壮年期の精神修養や修業の在り方によって中年期以後の人生が定まってくる。特に、事上の錬磨、仕事や日常生活の上での修業こそが肝心なのである。人間性を磨け。

 また、この時期、育児を通した再教育の有無は、その後の人生に対して重要な影響を与える。子育てには、教育上重要な意義がある。子育てを通じた再学習によっては、あたらして人生の展望が開けてくる。将に、負うた子に教わるのである。
 ところが、育児や子育てを軽視する傾向が近年高まっている。自分の子供の世話は、他人に任せて、自分は外に働きに行くのである。

 保育園や幼稚園では、なんだかんだいっても園児の数と同じくらいの職員が必要になる。子供の数だけ結局、育児に携わる保育士や先生が必要になるのである。専業主婦がいなくなったとしても家事労働が不必要でなくなるわけではない。そう考えると、主婦の仕事を軽視するのは間違いである。その上、育児や幼児教育、家庭内教育を他人任せ、外注に出すことは、教育や躾の一貫性が損なわれる結果を招く。それは、人格形成上に重大な負の影響を及ぼすことになる。

 平等と同等とは違う。平等とは、自己の存在において差を設けないことを意味する。つまり、一人一人の差を認識した上で、その人の自己を尊重することである。最初から、差を認めないのでは、話にならない。それは、結果的に不平等を招来する。差は現実認識上の問題であり、差別は観念的価値判断の問題である。同じ次元では捉えられない。
 むろん、それは、母親だけが、家の中で育児に専念すればいいという事を意味するのではない。お互いに、お互いを尊重しつつどう家庭内の役割を分担すべきかの問題であり、そこに人格的問題を持ち込むべきではない。

 だいたい、現代人は、社会、集団をただ、個としての集まり、集合としてしか捉えようとしない傾向がある。それは、誤った個人主義的発想である。真の個人主義は、個としての自己を全体の中に位置付け、自分の役割、働き、機能を自覚することに始点を置く。社会、集団を組織化することこそが重要なのである。特に、家庭内の組織化こそが鍵を握っている。それこそが勉強である。家庭内を治められなければ、社会人として自立することは難しい。

 問題になるとしたら、育児期間にを終えた後のことである。母親であろうと、父親であろうと、育児期間が終わった後、育児を主として担ってきた者がどう社会と関わっていくか。一部の女権論者のように、男性の仕事を過大に美化、評価し、女性をやめて男性と同化することを目的とする必要はない。むしろ、今まで女性が果たしてきた役割の社会的地位を高め。消費者サイド、生活者サイドから社会に関わっていくことの方が緊急の課題である。
 むろん、だからといって生産者サイド、職業人サイドでの女性蔑視、差別を是認するわけではない。それは、それで、是正されるべきものである。
 また、育児を母親だけに任せるのも間違いである。父親の協力も重要な要素である。夫婦が一致協力をして子育てをすることは、親にとっても子にとっても大切な学習の機会を与えられることである。

 子供を育てることは、最高の勉強である。子供を育てることによって中年期以降の生き方を学ぶのである。

 現代社会は、どこか人間性を否定している。人間としての生き方や温もり、魂のようなものを迷信だとか、非科学的といって受け付けないような所がある。それが、引きこもりや幼児虐待、少年非行、集団自殺のような現象の原因となっている。
 壮年というのは、そう言った現代社会の矛盾が集中する世代でもある。つまり、親の世代である。その時代の世相や風潮を生み出してきた世代である。最も、人生において華やかで充実した世代であると同時、夕暮れ時の世代でもある。

 一方で黄昏族などといわれ、もう一方で熟年と呼ばれる。新しいチャレンジ、挑戦に望みをかけながら保守的になっていく世代である。後進に道を譲らなければと思いつつ、まだまだ、若い者には負けない。というよりも、若いと思い込んでいる世代である。だからこそ、勉強が必要なのであり、体系的な教育システムが必要な世代なのである。

 壮年期の有り様は、青年期の生き方が決定的な要素となる。良きにつけ、悪しきにつけ青年期に培ったものを発展させ、応用する事で壮年期を生き抜かなければならないのである。
 人生についていえば、最終的には、地密な努力を続けていた人間が生き残れるのである。人生は、決して短距離走ではない。死ぬまで続くマラソンのようなものである。日々の研鑽努力があって明日が約束されている。死ぬまで勉強なのである。その努力が最も問われる世代、胸突き八丁、苦しく息切れがする年代、それが壮年期である。



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