児童期


 幼児期になると何でも自分でやりたがるようになる。この時期で困るのは、電話に出たがることである。ところが学校に入る頃になると何も子供達にやらせなくなる。学校には、ただ行くだけで良い。子供達がやるのは、次の日の学校の準備くらいである。学校では、子供達が主体的に関われるものは何もなくなる。ただ、先生の言うなりに行動する子が良い子、優等生なのである。じっと机の前に座り、先生の方だけを見つめ。言われたことにのみ集中することが要求される。子供達の好奇心や興味は、授業の妨げになるだけである。感性を養うはずの美術の授業ですら、与えられた課題をただこなすだけに専念さられる。好奇心や興味を持って自分から課題に取り組もうとする子や先生が予期しない質問をする子は、落ち着きがない問題児とされてしまうのである。せっかく芽生えた自主性の芽もかくしてつみ取られてしまうのである。
 何でも、自分でやる。自分でやらせる。それは児童期には、不可欠なことである。

 人間には、各々その年齢や発展に応じたステージがある。
 児童期というのは、学童期に重なる。生活のベースが家庭から学校へ移行していく。故に、現代の児童期は、学校というタガ(枠)が填められている。その為に、本来の児童期の姿というのが損なわれている可能性がある。

 学校に入学する以前と以後とでは、どれくらい違ってくる。今日の学校の特徴は、第一に、同年齢の集まりで、一つのクラスを形成する。第二に、クラス毎に均質、均一の授業を一斉に行う。則ち集合教育である。第三に、クラスは、同一の時間、同一の場所を共有する。第四に、一つの教科書が定められている。第五に、予め(あらかじめ)先生は、定められていて、原則的に一つの授業を受け持つ先生は一人である。第六に、授業は基本的に密室で行われる。つまり、閉ざされた空間内で行われる。第七に、授業は、講義型で座学中心である。第八に、知識偏重的である。第九に、クラス内の先生と生徒の関係は、統制的である。第十に、学校は、非日常的空間である。第十一に、学校は、社会的空間である。第十二に、学校は生産的空間である。それにたいし、就学以前の環境は、家庭中心で次のような特徴がある。第一に、母子一対一の関係。それから、子ども一に対し複数の大人や年長者が関係する。また、複数の子どもに対し、複数の年長者が面倒を見る、世話をするというように、多分に構造的である。異年齢の子どもが混在するのが常態である。第二に、個別的になされる。第三に、場所や時間は、特定されていない。第四に、教科書・教材は特定されていないか、存在しない。第五に、特定の先生はいないか、いても、専任されているのではない。第六に、教育は、原則として解放された空間で行われている。第七に、教育は、経験を重視して行われる。第八に、教える内容は、総合的である。礼儀作法、準備や後片付けも含んだものである。第九に、人間関係は、私的関係をベースとして、現実の社会の人間関係、家庭環境を反映している。教える者と教わる者とは、相互関係によって決められる、一方通行ではない。組織的に行われている。第十に、生活的である。第十一に、家庭的空間である。第十二に、消費的空間である。
 この様な特徴は、職住の分離、則ち、生産的空間と消費的空間が分離する過程と不可分ではない。職住の分離は、必然的に学住の分離も引き起こしたのである。つまり、教育現場と住空間・生活空間が乖離しているのである。この事は、その後の成長過程に重要な影響を及ぼしている。反抗期と我々が言っている時期は、何に起因しているのか。本当に常態なのか。それとも、教育現場と生活空間がもたらした結果なのかは、児童期と学童期が重なっている時代しか知らない者にとって立証のしようがないことなのである。だから、成長過程に現れる反抗期を一概に規定することは危険である。

 また、児童期は、非常に繊細な時期である。子供達の生活空間の辺縁部からの影響や外部からの刺激に大きな影響を受けやすい。シックハウスやシックスクールと言うように、有害物質や電磁波といった物理的な刺激に関して社会は、神経質になってはきた。しかし、有害な情報に対しては、まだまだ無防備である。子供達は、有害な情報に、今現在も曝露(ばくろ)され続けている。それは、放射能に曝露され続けるよりもずっと危険なことなのかも知れない。

 児童期は、学童期でもある。同時に遊びの季節である。近年の児童期の問題点は、遊びの変化からも求められる。即ち、遊びの都市化、そして、仮装現実化である。近代に入ってから遊びの質が急速に変化している。最大の原因は、遊びの環境や空間の急激な変化である。元来の遊び場は、自然の中にあった。その遊び場が急速に都市化した。更に、都市化された遊び場は、屋内へと追いやられ、情報化、即ち、仮装現実化されてきた。つまり、自然にあった遊び場か、人工的な場に変質し、更に、仮想的な場へと変貌してきたのである。それに、従って子ども達の現実は、自然環境から人工的環境へ、そして、仮想的現実へと置き換わってきている。このことによって子ども達の認識力に劇的な変化が起きている。つまり、生き物を生きている姿としてではなく。ペット化され、家畜化された物のとしてしか認識できなくなり、やがて、映像化された物としか認識できなくなっている。かつての子ども達は、山野を駆けめぐって昆虫採集をした。最近の子ども達は、ペットショップや百貨店で売られている昆虫しか本物の虫を見たことがない。さらに、ビデオやテレビゲームでしか昆虫を認識できなくなってきた。その結果、昆虫に触ることもできない子ども達が増えている。これでは、命の尊さを教える事はできない。反面において、知識だけは豊富になる。それは、臭いのない世界である。
 児童期に置ける都市化、情報社会科は、良い意味でも、悪い意味でも、遊びから始まる。

 お小遣いのあげかたも重要である。お小遣いのあげ方や額は、親の思想である。だから、一概にどんなやり方が良いかは決めつけられない。ただ、子供の言いなりになったり、気まぐれ、無計画にやり方、つまり、何の考えもなくやるのだけは間違いである。

 今、成長と教育の関連を考える場合、脳科学でも、生理学でも、学校をベースに考える。だから、勢い学力・学校生活中心の見方になる。だから、学級崩壊やオチコボレ、不登校、引きこもりが問題になる。しかし、人間の成長の基本は、本来学校とは無縁である。学校をベースで考えるから解らなくなるのであり、本来の人間の成長に合わせて学校教育を考えるというのが本筋なのである。つまり、本末を転倒している。だから、抜本的な解決ができないのである。

 以前は、小学校に入る前後から、子供達は、家の仕事のお手伝いをするようになる。お手伝いによって社会へ出ていったときの基本的な技能を身につけていく。最近、子供達がお手伝いをしなくなった。というよりも、学校の勉強ばかり重視して親が手伝いをさせなくなった。それが、子供達を世間知らずにしてしまうし、世の中に出ていくための予行練習の機会を奪ってしまっている。何よりも、それでは、子供達が自信を持てない。結果料理や買い物ができない大人達が増えている。我が国は、敗戦の結果、自分達の文化や経験、伝統、つまりは、過去を継承、継続することを罪悪だと教え込まれた。その結果、親子の間に断絶がある。その断絶を生み出しているのは、学校である。

 お手伝いを通じて親子間の意志の疎通が図られ、やがて、家の中で重要な役割を割り当てられるようになり、また、重要な意志決定に参画させられるようになる。今は、家族会議から子供はいつまでも排除されているが、以前は、一定の年齢に達すると、又は、与えられた課題を成し遂げると、大人に準じる形で参加させられるようになっていた。その為の通過儀礼が元服であり、成人式である。
 故に、以前の元服は、現在の成人式より早く、数えで十四歳ぐらいの時である。つまり、児童期と思春期の端境期(はざかいき)で責任を持たされたのである。いつまでも子供扱いをしている現在とはずいぶん違う。そして、現代、思春期を反抗期と位置付けざるをえない理由が隠されている。ただ反抗的なのか、それとも、責任を持たされないから反抗的になるのか。原因なのか、結果なのか。それが問題なのである。ただ、ある意味で責任ある行動を身につけるための臨界期であることは間違いない。
 成人式は、子供達にとって試練の時でもあったのである。今の成人式は、その意味では何でもない。二十歳になったお祝いであり、季節はずれの同窓会みたいなものである。だから、秩序が保てない。新成人の態度が悪いという前に、意味のない成人式をする側が少しは、反省すべきなのである。

 その事を少なくとも戦前の為政者は意識していた。その証拠に、義務教育の終了年齢が、中学校なのである。それが今は、高校まで延長されている。十八歳未満お断りなのである。つまり、現代社会では、十八歳を一つの境としているのである。二十歳を成人とするならば、残されているのは、二年足らずしかない。

 児童期には、仲間の形成が始まる。この頃の子供達にとって仲間の掟や信義が重要な徳目となる。そして、仲間達との付き合いを通じて社会生活、集団行動のルールや原則を身につけていくのである。
 仲間達との付き合いは、主に遊びによって為される。遊びによって仲間達との関係は深まっていく。

 学校では、肝心の入り口と出口を教えない。
 試験が典型である。問題は、予め設定されている。生徒は、与えられた時間内に問題を解くだけである。与えられた時間が経過したら、答えが出ていようがいまいが、お構いなしに答案用紙は、回収される。後は、採点をされて結果が出るのを待つだけである。
 問題の設定の仕方を学校では教えない。答えが出た後どうしたらいいのかを教えてくれない。教えてくれるのは、予め決められた答えを決められたとおりに解く仕方だけである。しかし、人生も社会も問題を自分で探し当てることが大事なのであり、また、自分なりの応え、結論を出した後が問題なのである。決められた事を決められたとおり応えても何の益にもならない。
 同様に、勉強をするために、どんな準備が必要なのかを教えてくれない。学校へはただ行けば良い。逆に社会に出てから何が役に立つのかを教えてくれない。

 物事の手順には、事前・その時・事後の別がある。学校では、事前や事後のことは教えない。しかし、かつての児童期における家庭教育や社会教育では、事前事後の方を重視してきた。それが作法であり、躾である。家の手伝い、仕事にしても、また、芸事や武道にしても事前の準備と後始末に時間をかけた。道場の清掃から始まり、後片付けや後始末をちゃんとするように躾た。事前の準備が終わらなければ、何も始まらなかったし、後始末をちゃんとしなければ破門された。肝心の仕事や武芸、芸事は、極端な場合、盗むものだと言われ、教えてもくれなかった。今の学校は、行けば全てが整っている。子供達は何もする必要がない。ただ、机の前に座って先生が来るのを待てばいい。授業が終われば、当番を残してさっさとかえるだけである。今の学校では、事前の準備や後始末、後片付けに何の意義も見出していない。だから、子供達は、物事の段取りや手順・筋道を覚えない。覚えないまま成人する。しかし、世の中では、役に立たない知識よりも段取りの取り方や手順、筋を通すことの方が重要なのである。
 また、重要なことは、教えようとしても、当人に学ぶ意志がなければ教えられない。だから、盗めと教えられたのだ。今の学校は、何でも教えてくれる。だから、学ぶ必要がない。向学心は、教えられないのである。ガリ勉は、学校社会では、嫌な奴なのである。しかし、その嫌な奴が奨励される。ここに学校教育のジレンマがある。
 現実の社会では、事前にどれだけの事がやっておくべきか、やらせておくべきかが重要なのである。当日のやることばかりを考えている傾向が強く、その前に準備しておく事や、その後の処理のことを忘れがちである。段取り八分という言葉が示すように、現実の社会では、事前の準備のウェートの方が高い。

 昔の大人は、子供に聞かせて良い話、悪い話、子供に見せて良い物、悪い物、子供に行かせて良い場所、悪い場所を明確に区分していた。それでいて、結構子供達の力を認めて家の手伝いをさせていた。ところが今は、何でも見せて、聞かせて、どこでも行かせている癖に、家の手伝いをさせるわけでもない。
 自立することを促さないで、つまり、依頼心、依存を強めながら、有害な情報にさらすのは、抵抗力や免疫力のない者に麻薬を投与するようなものである。主体性を破壊してしまう。廃人にしてしまう可能性がある。精神異常者を大量生産するようなものである。教育を司る者に、自分達が何をしようとしているのかの自覚がない。

 最近、脳科学の世界でミラーニューロンという神経細胞の存在が知られるようになってきた。(「悲しみの子どもたち」岡田尊司著 集英社新書)子ども達は、いい物事も悪い物事も見るだけで、影響を受け、模倣するのである。児童期には、なるべく良い物、本物に接しさせる事が望ましい。そうすればいい影響を受ける。反対に残虐なシーンや暴力的な映像にさらされるだけで子ども達は、悪影響を受ける。現代社会は、大人達の勝手な都合で有害な情報、特に、映像が子ども達に垂れ流しの状態である。有害な物質を垂れ流す者に対し、厳しいマスコミも自分達が流す有害な情報に対しては、急に甘くなる。それは、糖尿病患者が欲するからと言って甘い物を与え続けていることに相当する。仮にそれを医療に従事する者が直接行ったら、それは、犯罪行為である。水道水に毒を入れるような行為を社会の不正を正すと言い、革命なのだと言って平然と行っている。
 マスメディアの人間は、映像の影響を過小評価して、自己の行為を正当化しようと言う傾向がある。反面において子供達の自主性に過度に期待する。ただその動機は、経済的な動機である。つまり、金儲けである。言論の自由とは無縁な動機である。しかし、自分達が非難されそうになるとすぐに言論の自由を持ち出してくる。
 以前、有害な映画が問題になったことがある。しかし、その映画がヒットしたとたん、誰も異議が言えなくなった。ヒットすれば、全てが許されると思っているのだろうか。ヒットするか、否かは、倫理的問題とは無縁である。ヒットしたからと言って社会が容認したと受け止めるのは、早計であり、傲慢である。

 真面目に真剣に取り組むことを否定してはダメだよ。
 児童期の子どもは、反抗的な態度をとることもあるが、基本的には、真面目である。だから、良い事も悪い事も、正しい事も間違った事も真面目に学ぶ。このころに、悪い事や間違った事を身につけてしまうと、一生苦労することになる。現代社会では、真面目という事を否定的に捉える傾向がある。敗戦によって真面目に国のことを考えた者が馬鹿を見るような結果になったことに一因している。また学校という競争社会では、真面目になればなるほど友達を出し抜き、裏切る結果にもなる。学校社会では、真面目であるというのは、ガリ勉同義語にもなるのである。だから、真面目になればなるほど嫌われる。そう言う仕組みの中で、子ども達は、なかなか真面目になれない。そして、だんだんに逸脱していく。
 子ども達の真剣な眼差しを競争という局面だけで受け止めるのではなく。本来の向上心という形で受け止められるような社会にならなければ、真摯な社会にならなければ、子ども達の純粋な気持ちを受け止めることはできない。真面目であることは良い事なのである。良い事のはずなのである。

 感覚は、児童期より老化が始まっている。(「脳科学からみた機能の発達」平山諭・保野孝弘編著 ミネルヴァ書房)老化は、児童期から始まっている。このことの意味することは何か。老化は、止めるのは、不断の努力しかない。努力をしなければ、不可逆的に老化は進む。老化を止められるのは、その人の持つ向上心だ。主体的意志である。その主体的な意志を伸ばすのが、児童期に課せられた教育の意義である。そして、主体的意志は、新鮮な好奇心や興味によって育まれる。教育の現場でその芽を摘むような事は、断じて許されないのである。



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