教育の仕組み(体制)

 教育というのは、教育という仕組みなのである。教育というと、何を教えるかとか、どのように教えるかといった、教育の内容や教え方が問題とされるが、実際には、教育の仕組みが重要なのである。

 教育の仕組みは、予算に似ている。教育の仕組みも予算の仕組みも合目的的な仕組みなのである。予算があるから使うのではなくて、目的を達成するために必要な事があるから、予算があるのである。同様に、教えなければならないから教えるのではなく、教える必要があるから、教えるのである。ところが、一度予算が決まると予算が使い道を規定してしまう傾向が生じる。同様に、教育制度が固まると、制度が教育を規定するようになる。つまり、仕組みが本来の目的から独立し、仕組みが、目的や働きを決めるようになるのである。こうなると、本来の目的は失われてしまう。そして、教育そのものが、仕組みに支配されてしまうのである。予算も教育も本来は手段であるはずである。その手段が目的化し、本来の目的を失わせるのである。

 現代の学校は、卒業以前のことばかり問題にする。それは、入り方や入り口、入力の部分ばかりを問題にしていて出力、出口、出た後のことを忘れているのである。しかし、教育の目的は、むしろ、出口、出た後にあり、出力が入力を規定すると言ってもおかしくないのである。出力部分が失われる、つまり、出口のない教育は、必然的に目的を喪失するのである。

 社会も家庭も人間の脳もいわばネットワークである。このネットワークに自分をどう接続(アクセス)し、どう位置付けてしくかが社会の中で生きていく上で重要なのである。その為には、インターフェース、社会と接合部分、接点をどう築き上げるかが重大な鍵を握っている。この部分は、本来極めて単純なものであり、接続以外あまり意味のない部分である。だから、基本的に単純な動作の繰り返し、形で身につけるべき部分である。その事もあって、学校ではほとんど教えられていない。現在の学校では、形というものを全くと言っていいほど評価していない。そのくせ、教え方、つまり、教える形にこだわっている。
 また、教育の仕組みで重要なのは、入力と出力である。入力と出力は、一定の過程であり、並行的に処理することが難しい。ゆえに、一定のリズムで、入力と出力を繰り返すのが効率的である。更に、入力と出力は、基本的に双方向でなければならない。即ち、教育とは、過程が大事なのである。過程を無視したら、教育は成り立たない。過程を整えるのは、仕組みである。それ故に、教育は仕組みなのである。
 それに対し、現行の学校教育は、学習主体にとって一方的な入力を繰り返す事に主眼を置いている。その結果、先ず自分からアクセスすることができない上、情報を受信した後の処理ができなくない人間を生み出すのである。受信することだけに能力を特化してしまい、それを処理したり、外部に出力することが欠けてしまう。思考力も、判断力も、決断力も、行動力も付かないのである。
 テレビ、映画、ビデオといったメディアの弊害と学校教育の弊害は同質である部分がある。
つまり、テレビやビデオと学校は、子供に与える影響を相互に強化する傾向がある。
 この様な問題の本質は、教育関係者が社会の仕組みを基本的に理解していない事にある。教育の目的が、自立した社会人の育成にあるならば、社会の仕組みを教育の仕組みの中に取り入れていく必要があるのである。
 そうしないと、社会に出た時、正常な人間関係や社会関係を築けない人間を増やす結果を招くのである。一方通行的に流し込む教育が、ニートやフリーター、引きこもりの一因だと思われる。そして、行儀作法のような躾が大切なのである。行儀作法のような行為は、形で教えるのである。
 現実の社会で人間関係を築くためには、ワーキングメモリーが重要な働きをする。人間のワーキングメモリーは、厳しい制限と限界ががある、この様な制限や限界を補うのが、習慣や癖である。習慣や癖は、非陳述記憶をベースにしている。即ち、形なのである。仕組みも形である。

 だからこそ、教える仕組みの在り方が大切なのである。
 やらせてみないと教えられないことがある。言葉や本では、教えられない事がある。経験させなければ体得できない事である。痛い事、危険な事は体験しないと解らない。こう言うことは、仕組みを作って教えなければならない。学校は、本来この仕組みの一つであったはずなのである。ところが、社会が、学校に限られた期間に目に見える形で成果を上げる事を求め始めた頃からこの根本が忘れ去られてしまった。そこで導入されたのは、試験制度という仕組みである。仕組みには、仕組み固有の働きがある。その働きは、新たな目的を生み出す。一度自動車を発明するとその本来の目的を忘れて、スピードや性能を競うことになる。そして、いつかその競争がスピードや性能の追求を目的化してしまうのである。自動車本来の働きを取り戻すためには、本来の目的を思い出す以外にない。それを思い出させるのが、現実の社会である。ところが、教育は、現実の社会から乖離してしまった。その為に、本来の目的を見失ったままである。

 仕組みは、自己、家族、職場、社会、国家を結びつけるものでなければならない。仕組みの整合性が失われれば、全ての仕組みは根底から崩れ去る。部分は、全体の一部なのである。

 家庭、学校、職場、社会、国家は、相互に連携して成り立っている。個々独立してバラバラに存在するものではない。現代社会では、その連携の絆が弱くなり、個々の現場が、密室化している。その最たるものが学校である。この事を教育関係者は自覚すべきである。

 学校も国家機関の一つである。現代人は、このことをつい忘れがちである。つまり、学校は、独立した機関ではなく、国家に対する何らかの働き、機能を要求されている。

 法は、所与の法則、普遍的な原理ではない。法は、所詮、決め事に過ぎない。法が最終的要求するのは、服従であり、納得ではない。国家は、国民に忠誠心を求めるのである。
 法は、相対的な体系である。法を成立させている条件によって法の内容が違う。場所がが違えば、犯罪も変わる。年齢によっても犯罪になるかならない違ってくる。その時の精神状態や動機よっても相違がある。法の在り方によっても犯罪は違ってくる。判例法か。制定法かによって犯罪に対する解釈の仕方が違ってくる。同様に、陪審員制度か否かでもちがう。また、状況によっても法は違ってくる。戦争下で、殺人が犯罪だとしてしまうと、軍人は、全員が犯罪者になる。逆に、軍法に従えば人を殺さない者は、犯罪者になる。

 法治国においては、反体制派も法律に服従している限り犯罪者にはならない。逆にいかに体制派でも法に服従しなければ、犯罪者になる。つまり、法治国における自由とは、法に服従した上での自由に過ぎない。

 道徳の根源は、あくまでも自己善なのである。この自己善が形成する現場が教育の現場なのであり、健全な自己善を形成させる仕組みが教育なのである。
 尚かつ、教育機関は、国家機関の一つである。国家の目的と教育の目的は、一致していなければならない。国家の目的は、国民の幸福の追求と福利の実現にある。国民国家は、国民の意志と無縁の所で成立しているのではない。我が国が、国民国家である以上、国民の意志、国家目的と一致している。故に、国家への忠誠は、国民の権利や義務と矛盾していない。一致した方向にある。ならば、公教育は、国家利益を追求するためにある。なぜならば、国家の利益は、国民の利益だからである。
 この点を我が国の国民は理解していない。それは、我が国が国民の意志を反映していない証である。国家の成立基盤を教えないことは、国民国家を否定する事であり、それこそが、全体主義や、国粋主義、独裁主義への道を開くことである。
 教育機関は、国家機関の一つなのであり、国家の目的を実現するためにある。

 自己には、内的規律を守ろうとする力と外的環境に適合していこうとする力が働く。即ち、現状を維持していこうとする働きと現状を変革し、外的環境に適合していこうとする働きの二つの働きが同時に作用する。
 人は、絶えずこの内面の葛藤に苦しめられる。しかし、この葛藤が人間を成長させるのである。教育は、この内面の葛藤を前提として考えなければならない。

 これは、何も自己と外的存在だけに限ったことではない。集団や組織のような構造物全般に言えることである。内部に結束しようとする力と外部に適合しようとする力の均衡によって構造物は、成り立っているのである。
 これらが、政治的に言えば、保守と革新となるし、また、現状維持派と変革派になるのである。これほどハッキリしていなくとも構造物の内部には、現状を維持しようとする働きと外部環境に適合していこうとする働きの二つの働きが共存している。この二つの働きが正常に機能している時、構造物は、成立するのである。二つの働きの均衡が崩れた時、構造物は、破壊される。

 内的な基準と外的な規範が対立的だと言っているのではない。また、対立的に捉えるべきでもない。内的な基準と外的な規範の葛藤を通して自己が確立されるのである。むしろ相違点は少なく、共通項の方が多いはずである。ただ、相違点が問題にされるから、相違点ばかりが浮き上がるのである。この点を見落とすと妥協点がなくなってしまい、対立的関係しか残されなくなる。

 この内面の葛藤を制御するのが教育である。そして、内面の葛藤を実際に制御するのは、仕組みである。

 少年犯罪のような青少年の精神の病理的問題は、自己の問題もあるが、それ以上に家庭や学校、社会の仕組みや構造からくる悪影響を見逃せないのである。その悪影響を現代のマスメディアは、故意に軽く見る。それは、自らの責任に追うところがあるからである。視聴率さえ稼げればいい。金儲けさえできればいいと言う安易な姿勢が、その背後はある。先ず、責任ある立場にある者が一人一人襟を正し、言論の自由の真の意味を理解してメディアをしっかりと監督しないと社会の中に潜む構造的な病巣は改善されない。

 商人が、自分の売ろうとしている商品が偽物だと思いながら、商売をしようとしたら、それは詐欺である。教育者が、自分の国が信じられないのに教育をしようとするならば、それは、教え子達に対する背信である。自国を信じ、自己を修める過程で、国家社会に寄与させる事、それが教育の最大の目的であるはずである。

 現代社会は、進歩のみが正しいという意識がある。進歩主義とか、進歩的というと無批判に受け容れる傾向がある。現代人の多くは、古い体制を批判し、否定していこうとしている。変革や革新が大流行である。
 しかし、教育は、社会の伝統・文化を継承することに本来の目的が隠されている。つまりは、社会の維持保存である。我々は、生活の基盤を護っていかなければならない。土台や柱がグラグラしていたら安心して生活していけないのである。
 教育の基盤は、歴史、伝統、風俗、習慣、そして、社会の公序良俗に根ざしていなければならない。それを否定してしまったら、時代や社会の連続性は保てないのである。

 なにも古ければいいと言っているわけではない。温故知新。事の正否善悪に新旧老若の別はないといいたいのである。

 なぜ、時代をリードする指導者が生まれてこないのか。それは、社会が求める人物像と教育の方向が一致していないことに原因がある。社会が求める人物像というのは、一朝一夕にできるものではない。その社会が長い年月をかけて作り上げるものである。だからこそ、自己の歴史、伝統、文化を大切に暖める必要があるのである。






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