国     家

 戦後の日本は、最初から国家を否定している。その影響は、教育において甚だしい。
 国家を肯定的に捉えることと、国家を絶対視する国粋主義とは違う。さらに、民族主義や、全体主義、君主主義や軍国主義、独裁主義とも違う。国家を肯定しないが為に、これらの思想の区別もつかない。とにかく、国家というものを排除するその頑迷な考えに取り憑かれている。
 しかし、国民国家である民主主義も、自由主義も、共和主義も、国家を肯定的に捉えない限り成り立たない。国家体制を頭から否定するのは、無政府主義でしかない。共産主義も、社会主義も、共同体主義も、国家を肯定的に捉えない限り成り立たないのである。また、思想的な社会である共産主義も社会主義も国家が教育を統制するのは当然のこととしている。反体制派が、国家を否定するのは、革命的目的に沿っているに過ぎない。この点を見落とすべきではない。

 言論の自由も思想信条の自由も国家の独立があってはじめて保障される。国家の独立なくして、例えば、植民地化されたり、属国化された国に本質的な自由は認められない。認められるのは、家畜の自由である。故に、自由というのは、国家の独立を前提として成り立っているのである。故に、自由主義者が国家を否定的に捉えることはない。否定的に捉えているのは、自由主義に名を借りた無政府主義者である。

 いずれにせよ、戦後の日本人は、左派も右派も国家に対して否定的である。しかも、困ったことに、国家を否定的に捉えているのは、他の国も同じだと錯覚し、全人類的に無政府主義が支配的だと思いこんでいる節があることである。特に、進歩的知識人と自称する人達に、この傾向の持ち主は多い。
 そして、反国家、反体制は自明のことのようにして教育を語る。教育に悪影響が及ばないはずがない。
 ここで忘れては成らないのは、教育機関も国家機関の一つだと言う事である。国家機関である教育機関は、国民の税金で運営されているという事である。一部の教育者や組合の思想を広めるための機関ではないという事である。

 国家の機関だという事は、国家の目的を実現するために一定の役割を与えられた機関だと言う事である。この国家の目的が、国家理念によって異なる。故に、どのような国家理念で建国された国であるかを確認する必要がある。建国理念も問題にせず、ただ闇雲に、国家を否定するのは、自分の無知蒙昧を喧伝するようなものである。その上で、自分の依って立つ思想に基づいて建国の理念との関係を明らかにし、その上で、現国家を肯定するか、否定するかを明らかにすべきなのである。
 ただ教育者として勤務する以上は、国家理念に従わなければならない。それは、法に従うのと同じ事である。

 民主主義国の国家目的とは何か。それは、民主主義の実現である。民主主義を実現する事によって国家の独立と国民の福利を実現する事である。
 軍国主義の国家目的は、軍への忠誠と軍の統制の確立、軍事体制の実現である。国粋主義の目的は、国家への絶対的服従と国家絶対体制の実現である。民族主義の国家目的は、民族自決である。全体主義国の国家目的は、全体への奉仕である。国家は、国家理念によって目的が確定し、その目的によって体制が作られる。
 教育は、国家理念に準じて形成されるものであり、国家理念によって全然違うものになる。それを民主主義国の国家理念を軍国主義国の国家理念にすり替えてだから、国家は不必要だというのは、暴論である。
 肝心なのは、どのような国家理念に立脚しているかであり、国家理念を確認もしないで、ただ、国家は悪であるとするのは、自分が無政府主義者だと言っているに過ぎない。

 国防理念も同様である。国防理念は、何から何を護るのかによって全く違ったものになる。君主国の国防理念は、外敵から君主を守るものであり、国粋主義国の国防理念は、外敵から国家を、軍国主義国の国防理念は、外敵から軍を守るものである。
 国民国家である民主主義国が、国家の独立と福利を実現するためには、国民にとって国防は、避けて通れない課題である。
 最初から国防を放棄することは、国家の独立を否定する事だからである。非暴力主義は、主義としては高尚であるが、国家の独立の前には、無力である。暴力というのは、理性が働かなくなるから発動するのであり、それを、理性でもって抑制するというのは、最初から矛盾する。警察をなくせば、犯罪はなくなる。法がなければ犯罪はない。消防署があるから火事がある。病気は、医者の責任だという論法に似ている。それは、問題のすり替えである。
 逆に、軍隊は常に侵略的であるというのは、包丁があるから犯罪が起こるというのに似ている。言うまでもなく、包丁が凶器になるのは、包丁を凶器にした者がいたからである。それは、包丁が原因なのではなく。包丁を凶器にした者の問題なのである。包丁が悪いというならば、この世の全ての刃物を取り除かなければならない。
 国防を考えることが、侵略的というならば、防犯を考え、戸締まりをすること自体が罪になる。それでは、犯罪がなくなるどころか、犯罪が増えてしまう。

 ここでいくつかの誤解を解くために、前提を明らかにしておきたい。つまり、国防問題を論じる時、連想ゲーム的な論理の飛躍が見られる。それがまともな議論を阻害しているのである。
 まず、明らかにしなければならないのは、国防イコール軍隊ではないという事。国防イコール、侵略ではないという事。軍隊イコール侵略でもないという事。軍隊イコール戦争ではないという事。軍隊イコール軍国主義でもないという事。軍隊を持っているのは、独裁主義国や軍国主義国だけでなく、自由主義国、民主主義国、共産主義国も軍隊を持っているという事。軍備を持っていない国は、日本以外数えるほどしかなく、ほとんど、例外的な国だという事。国防思想、計画なくして、平和を保つことも戦争をなくすこともできないという事。
 愛国心というのは、国粋主義者だけが持っているのではない。アメリカ人は、愛国心が強い。国家への忠誠は、民主主義国、共産主義国でこそ求められているという事。愛国心イコール軍国主義ではないという事。忠誠心イコール独裁主義国、君主国、封建主義国ではないという事。事の正否善悪に新旧老若男女の別はないという事。逆に、善悪は、勝敗とは無縁だという事。国旗や国家イコール国粋主義者、民族主義者ではないという事。国旗や国家を戦争犯罪と結びつけることはできないという事。国旗や国家を持っているのは、軍国主義国や独裁主義国だけではないという事。民主主義国や社会主義国でも国旗や国家に対する侮辱に抗議をするという事。
 そして、日本は、敗戦国だと言う事。日本は、七年間、植民地だったと言う事実。日本は、その間、自衛権を認められていなかったという事。そして、現在の一部しか認められていないという事。日本は、資源が少なく自給自足できないという事。言論の自由、思想信条の自由、結社の自由といった自由は、国家の独立によって保たれているという事。基本的人権も国家の独立があってはじめて保障されるという事。国民の福利は、国家の独立なくして実現できないという事。
 また、日本人は、有色人種だと言う事。日本人は、黄色人種だと言う事。日本人は、アジア人だと言う事。人種差別を始めたのは、日本人ではないという事。第二次世界大戦以前は、日本とタイを除く有色人種の国の全てが、侵略されていたという事。タイも欧米列強の政略上、独立が許されていたという事。中には、奴隷にされていた人種・民族が存在したという事実。第二次大戦が引き金になって、アジア・アフリカの国々が独立を果たしたという事。これらのことを前提としなければ、日本の独立、国防の意味は理解できない。
 国防は、軍人の野望のためにあるのではない。多くの軍人は、国家の平和と繁栄を願っているのであり、個人の欲望だけで行動しているのではない。

 愛国心や忠誠心を問題にする時、その対象が大切なのである。愛国心や忠誠心というのは、それ自体で成り立っているのではなく、対象があって成り立っているのである。我が祖国という歌がアメリカのフォークソングにある。その場合の愛国心の対象は、this Land、つまり、大地である。政府でも、体制でも、国民でも、個人でもない。愛国心や忠誠心の対象になりうるのは、他には、歴史、伝統、民族、文化、家族、一族、国民、主義主張、神、君主、自分、軍隊、組織等と言ったものがある。問題は、何を対象としているかである。それを明らかにしないで、愛国心がどうの、忠誠心がどうの言ってもはじまらない。それを頭から否定するのは論外である。

 国防というのは、軍事的な意味だけでなく、政治的、経済的、社会的な意味もある。自分の力で、自分の身も、生活も、家族も護れない人間に社会的発言権はないという事を忘れては成らない。国家も同じなのである。自国の力で、自国の独立も、国民の福利や権利も自国の経済も護れない国に、国際的な発言権は与えられないという事であり、強国の属国になるか隷属する以外生き延びる術がないという事である。つまり、国防を考えることは、教育の根本なのである。

 また、国防制度は、教育制度でもあったのである。現在でも多くの国が教育制度を国防制度に依っている。ただ、それが軍隊に偏っていることが問題なのである。
 国防問題は、多岐に渡る。何から、国民を国家は護らなければならないのか。何から何を国は護らなければならないのか。それこそ、基本的人権、国民の生命と安全、子供達の未来、住み良い環境、生きていく為に必要な資源、平和、経済、生活、財産を災害や犯罪、侵略から護らなければならない。この様に国防というのは、複合的な問題なのである。

 国防は、国防体制そのものが教育の仕組みである。つまり、国防体制によって思想が表現される。その典型がスイスである。また、何から、国家、国民を護るかは、教育の目的と合致していなければならない。

 戦前は、国家の独立の意味は、軍隊によって学び。防災は、消防団のようなもので学んだ。治安は、青年団や自警団によって学ぶ事によって地域の治安は、保たれていたのである。問題は、軍隊の暴走を抑止する仕組みを社会が持たなかったことである。国防の前提は、自国の在り方と自国が置かれている状況である。これに対する正しい認識があってはじめてまともな議論ができる。単なる観念論ではないのである。
 軍事問題だけで国防を議論することの危うさがそこにある。かつてクラウゼビッツが、言ったように、戦争は、政治の延長線上で捉えるべきであり、目的化してはならない。更に言えば、現在は、環境問題やエネルギー問題、人権問題、経済問題の様なことが優先されて議論されるべきなのである。それにしても、軍事問題は避けて通れない。それは、教育の根本の問題でもある。そして、教育こそが軍隊の暴走を抑止する最大の力になるのである。

 国民は、何らかの形で国家の独立に関わる必要がある。それが教育の根本である。広い意味での国防とは、防災や治安も含む。特に、火山や地震、台風といった自然災害が多い我が国においては、防災こそ、国防の柱の一つである。災害は、国家の中枢を破壊しかねない。災害に対する取り組みなくして、国防はありえない。
 この広義の国防を実現するための制度を構築することは、即ち、国家の教育制度を整備することに他ならないのである。故に、国防制度と教育制度は、国家制度の柱なのである。




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