職     場

 今は、職場教育が軽視されているが、本来は、学校教育以上に重要なものである。なぜならば、職場教育は、現実の社会や生活に直結しているからである。それにたいし、学校教育は、補助的な役割しか果たしていない。学校教育は、絶対的になくてはならないという教育ではないのである。学校を出なくても生きようと思えば生きられる。しかし、親の庇護がなければ生きられない。また、仕事ができなければ、社会生活は営めないのである。だから、最悪な場合、職業訓練が優先されるのである。

 引き籠もりになろうと家族がしっかりしていれば、最低限の生活は保障される。しかし、学校は無力である。言葉が通じなくても仕事ができれば生活には困らない。強いて学校へ行く必要がないのである。
 この点を正しく認識しておく必要がある。教育というと学校教育だと思っている人間がいるが、基本は、家庭教育と職場教育である。そして、その補助的なものとして、学校教育があるのである。そして、そこに学校教育の意義がある。位置づけがある。家庭教育や職場教育がしっかりしていてはじめて学校教育は、機能を発揮する。学校教育に全てを委ねても、学校教育には、自ずと限界があるのである。

 仕事場は、生活を背後から支える場である。家庭が生活の場であれば、仕事場は、その家庭の場を成立させるために必要な収入を供給する場である。仕事場、職場がないと家庭は成立しない。故に、仕事場は、孤立した存在ではない。仕事場は、社会的な場である。社会的な制約があり、仕事には範囲や期日がある。その為に、境界線である仕事の起点と終点、そして、接続点に、手続き、段取り、手順、筋道、作法がある。その上に、仕事は、構造的である。手続きや段取り、手順、筋道、作法も構造的で、頭で理解するのではなく経験的に習得しなければならない。この手続きや段取り、手順、筋道、作法が理解できないと正常な社会生活が営めない。
 ある種の処世術である。この手続きや段取り、手順、筋道、作法を、つまり、処世術を学校教育は、軽視している。というより、蔑視している。最悪の場合、処世術、仕事そのものに否定的である。労働は、苦役であり、仕事は、生活のために仕方なくやるものだという風にすら教えている。処世術は、世に阿る悪習だと教える。その為に、多くの子供達が社会に出ることができなくなる。まともに経済生活ができなくなっている。しかし、自分達の指導の結果、教え子がまともな生活ができなくなったとしても、教育者は、誰一人責任をとるわけでもない。責任をとるどころか、責任を感じてすらいない。

 職場は、基本的にネットワークである。個人で事業していても、職人でも、何らかのネットワークに自分を接続しないと、言い換えると、接続できないと仕事はできない。人間は、一人では生きていけないのである。この社会、職場のネットワークにどのようにアクセスし、つながっていくか。つまり、インターフェースの部分が重要なのである。ところが、学校では、このインターフェースの部分は教えていない。

 学校教育と職場、社会との決定的な違いは、学校は、陳述記憶(言葉や意味)に頼っているのに対し、職場や社会は、非陳述記憶(形、無意味)の世界だと言う事である。言うなれば、学校は、左脳的な世界であり、社会、職場は、右脳的世界だと言う事である。

 職場は、実用・実務の世界である。故に、職場内の教育は、必然的に実用教育、実務教育になる。実用・実務の基本は、手続きである。これらは、手続き記憶、つまり、非陳述記憶に依存している部分が大きい。

 最新の脳科学で明らかになったのは、頭頂連合野は、認知認識を司り、側頭連合野は、記憶を担う。そして、前頭連合野は、判断や決断を司っていることである。そして、健全な発育を図るためには、脳全体のバランスのとれた発育を促すことである。

 学校教育では、頭頂連合野や側頭連合野に対する教育が主である。しかし、社会で一番要求されているのは、前頭連合野である。その為に、人間としての判断力が培われない。前頭連合野を刺激する教育が必要なのである。

 前頭連合野ばかりを刺激する教育が良いとは言わない。むしろ社会に出れば、否応なく前頭連合野は刺激されるのだから、他の部位を鍛えた方がいいと言えなくもない。しかし、それにしても、前頭連合野に対する教育がなされなさすぎる。
 教育というのは、バランスがとれたものであるべきだと言っているのである。その意味で今の教育の仕組みは、個々の部分がバラバラな上あまりにもまとまりがないといっているのである。身勝手な仕組みになってしまっている。その為に、それぞれの教育が連携し、果たすべく働きを果たせないでいるのである。

 また、記憶で重要なのは、連合、統合(再構築)、構造である。

 例えば、英語で重要なのは、単語を丸暗記、棒暗記することではなく。英語を記憶する上で必要なのは、英語が使われている状況、構文、センテンスなどである。文法も文法それ自体で教えるのではなく。会話そのものがどのように成り立ってるかが重要なのである。なぜならば、文法は、先に、英語圏の世界があって、それを分析した結果が明らかになった法則を整理したものであり、文法があって現実があるのではなく、現実があって文法があるのだからである。自然現象があって科学的法則があるのであって、科学的法則があって自然現象があるのではない。
 つまり、単語や文法を教える前に現実に英語が使われている現場、状況を再現することが重要なのである。状況に英語を結びつけて、再構築することによって、英語の構造を顕在化して理解する。顕在化する過程で文法や単語が意味を持つのである。

 文法を教えて単語を覚えさせれば、英語が理解できると言うほど単純ではない。それは、現実離れしている。

 また、閉鎖的で変化が乏しい空間である学校ならばそのような教育方法が通用するかも知れない。しかし、現実の世界のように絶え間なく変化し続ける空間では通用しない。

 職場教育、企業内訓練には、OJTとOFFJTがある。職場教育、企業内訓練といっても個人事業者、職人もOJTが基本であることにはかわりはない。ただ、系統だって、また、組織的に、体系的にされているかいないかの差に過ぎない。

 事上の錬磨。職場の教育は、基本的に事上の錬磨、つまり、職務上、仕事上で教育し、鍛えることが原則である。故に、OJTが原則である。
 OFFJTは、ある種企業内学校的な要素がある。しかし、それでも、学校教育とは違い、仕事上、職務上必要な事柄に限定されている。むろん、直接的に職務や仕事に関係ない者も含まれているが、仕事に役に立たないことは、基本的に教育しない。つまり、職場教育というのは、合目的的な教育である。
 現行の学校教育は、この様な点を評価しない。つまり、教育というのは、役に立たないことを教えるのだという間違った認識が、学校教育関係者にあるからである。
 役に立つ英語など教えたら、学校の英語の先生に怒られてしまう。学校で教える英語は役に立たないから意義があるのである。役に立つ英語を勉強したい者は、学校以外で勉強しなければならない。
 逆に、職場では、役に立たない英語を教えたら怒られてしまう。教育には、コストがかかっているからである。
 この点も学校教育とは違う。学校教育は、経済の問題と切り離して考えなければならない。しかし、職場教育は、経済と直結している。教育の成果は、貨幣価値で換算される。

 教育は、本来、合目的的なものである。公教育の目的は、国家の目的と合致していなければならない。戦後の日本人は、この点を理解していない。
 日本は、戦争に負けた。そのことで、国家の目的と教育の目的を一致させてはならないという、錯覚が生じた。つまり、戦前の教育は、国家目的に一致させられた。だから間違った教育をしたのだという考えである。しかし、これは詭弁である。間違った前提、偏見に基づいている。国家という時、戦前の国家を指している場合が多い。しかし、現時点で国家といった場合は、戦後の国家を指している。教育の目的を考えるにあたって明らかにしなければならない前提がある。それを確認もせずに誤った前提に基づいて論理を組み立てても、最初から間違っているのであるから、正しい結論が導かれるはずがない。
 戦前の国家目的と戦後の国家目的は、明確に違う。これが第一の前提である。次に、戦前の国家目的が間違っていたとしても国家目的そのものを否定する根拠にはならないという事である。そして、戦後の国家目的は、民主主義の実現にあるという事である。言論の自由も思想信条の自由も民主主義国家を実現するという国家目的に沿っているという事である。逆に言えば、言論の自由も思想信条の自由も民主主義教育だから保障されているという事である。戦後の国家目的が否定されれば、言論の自由も思想信条の自由も保障されるとは限らない。戦前の国家目的である帝国の実現に沿った教育は、否定されるべきかも知れないが、戦後の民主主義国家の実現という目的は、肯定されるべきものである。軍国主義国の国家目的と民主主義国の国家目的は別のものである。国民国家である民主主義国において国家目的は、国民の総意に沿ったもの、基づいたものである。また、国民の総意に沿ったものでなければならない。国民の総意に基づいていなければ、これを所定の手続きに基づいて変えるのは、国民の義務であり、権利である。
 これらを前提にして公教育の目的は、設定されるべきなのである。つまり、公教育は、国家の支配下にあり、国家の原則に従うのは当然だと言う事である。その上での言論の自由であり、思想・信条の自由である。それを公教育に国家は介入すべきではないと言うのは、馬鹿げた妄想である。その妄想が、現行の公教育を合目的的な教育にするのを妨げている。そして、民主主義や国家の独立を危うくしているのである。
 話は、それたが、教育は、本来合目的的なものであり、職場の教育は合目的的なものであり、教育本来の在り方を失っていない。

 職場の教育は、職場の仕組みそのものが担っている。つまり、基本的に職場の組織が、職場の教育の組織を兼ねている。この点も重要な点である。
 そして、職場内の仕組み、施策、結果は、全て教育に反映される。つまり、職場の組織そのものが教育機関なのである。そして、その成果は、貨幣価値に関され、生活に直結している。即ち、プロとアマの違いである。
 採用、異動、配置、評価、処遇、待遇、賞罰、労働条件、資格制度、人事制度、教育訓練これら全てが人材育成、即ち、教育と連動している。教育の仕組みは、それ単独で成り立っているわけではない。
 プロスポーツとアマチアスポーツの違いを見れば解る。プロは、実績が、生活にも教育にも直結している。ただ、アマチアスポーツは、プロスポーツの前段である場合が多いが、学校教育は、社会人の前段に位置していない。つまり、プロの育成にはなっていない。

 職場は、学校教育の延長線上になければならない。逆に、学校教育の延長線上に職場、社会があるように教育制度は設計されていなければならない。そうしないと、人生の連続性が保持されない。しかし、現行の学校制度の延長線上に社会があるのではない。故に、職場教育と学校教育との間に連続性はない。

 職場教育の仕組みの典型は、徒弟制度である。今日、徒弟制度式の教育は、いろいろな批判を受けている。そして、それには、もっともな理由がついている。しかし、それでも徒弟制度的な教育の仕組みを全て否定するのは、乱暴である。今日でも十分に通用する部分があるのである。
 徒弟制度。親方が居て。兄弟子が居て。同僚が居て。弟弟子が居る。そういう人間関係が、教育を支えてきた。つまり、教育上のネットワークを兼ね備えていたのである。ネットワークや仕組みは、そのまま社会に連続している。ただ、これが、悪い方に作用すると閉鎖的、保守的な圧力がかかることになる。

 経験主義教育の典型は、徒弟制度ある。徒弟制度においては、形による教育が基本である事を意味している。この点も、実質的な意味を失うと形式だけが残ることになる。結果的に形の強要や権威主義を生み出すことになる。無条件の服従を要求したりすることにもなる。

 徒弟制度の中心は人である。man−to−manの教育体制だからである。職場の人間関係、仕組みをベースにして教育が為される。そのために、職場の人間関係や序列がそのまま教育や生活、生き方にまで反映されてしまう。一度、人間関係がこじれたり、考え方が合わなくなると逃げ場がなくなり、その世界では生きていけなくなる危険性もある。
 徒弟制度には、親方の主観によって大きく左右される要因になっているのである。その為に、徒弟制度を封建的にし、親方に対する絶対的服従を要求することになるのである。それが高じると身分制度の源になる。

 この様に、徒弟制度にも利点と欠点がある。そこをよく見極めないと、徒弟制度は、有効に機能しなくなり、逆に社会の進歩を阻害する要因になる。つまり、社会の進歩に順な仕組みでなく、逆な仕組みになるのである。

 しかし、徒弟制度は、現代でも生きている。それは、技術の継承や維持に役立っていることも忘れてはならない。そして、徒弟制度は、職場教育の原点でもあるのだ。




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