評    価


 最終的には、評価の問題になる。人間は、表に現れた自分の姿を確認して自分の生き方、在り方を決める。最も自分の姿を明確に現してくれるのは、自分に対する、社会的評価である。故に、人間は、自分に対する評価に注目し、注視する。評価によっては、自分の生き方や在り方の根本をも変えてしまうのである。

 問題は、学習の成果は、どう評価するかである。

 人間にとって一番辛いのは、無視されることである。つまり、何の評価もされないことである。プラスであろうとマイナスであろうと、それなりの評価が下されば、その後の有り様が決められる。しかし、無視されてしまったら、どうしていいか解らなくなる。人間にとって、自分がどう評価されているかは、自分の人生を決するほど重要なことなのである。故に、教育上、最も悪い事は、無視することである。

 評価というのは、基本的にフィードバックである。選別や差別化ではない。教育の最終目的は、人材の育成であって、選別や差別化にあるのではない。

 成果は、最終的には、評価として自己に還元される。何を成果として評価するかである。次に、成果を、誰が、どのように評価するかである。

 ここでも学校の評価の仕組みは、特殊なものである。とにかく学校というのは、他の世界とは、違う特殊な空間であることを自覚すべきである。自覚すれば、欠点を補い長所を生かすことができる。自覚していなければ、欠点が際立ち長所が殺される。

 学校では、試験の成績を点数で評価する。試験は、一部を除いて筆記試験である。
 実社会での評価は、第一に報酬、第二に地位、第三に配置、第四に報償である。これらは、意欲、能力、適正を実績と比較して為される。

 実社会における評価は、結果に対して為される。しかし、結果といっても試験の結果ではない。実績、即ち、どれだけ役に立つ結果を出せたかに依って導き出され。何に対し、どれだけ良い結果を出したかに対する判断は、評価する人によって違ってくる。
 つまり、実社会での評価は、最終的に、世の為、人の為になったかである。ただ、資本主義社会では、人の役に立ったかどうか、即ち、実績が、金銭的報酬に還元される。それによって金が、社会に対し支配的になったのである。

 それに対し、現行の学校制度では、全ての評価を成績表に一元化する。その成績を決めるのは、基本的に筆記試験である。なぜ、それほど、筆記試験に依存するのかというと、第一に公正、第二に中立、第三に客観性が保てるという理由からである。その上で、試験制度が現行の教育制度の方向性に合致しているからである。

 学校の評価の目的は、選別と差別化である。故に、学校の世界では当たり前に選別が行われ、差別が生じる。それを前提としなければ、現行の学校制度は、成り立たない。もし、選別や差別を否定するならば、学校制度の仕組みそのものを変えなければならない。

 学校教育の目的がなぜ、選別と差別化に特化していったのか。それは、大量の人間を管理するのに、最も都合がいいというか、効果的だからである。
 大量の未就学児童に一定で均質の教育を施す。それが、学校の至上命題である。この命題を満たした上で、ある一定の年齢に達したら各々の進路を能力と適正によって振り分ける。それが、今の学校の目的である。
 この学校の目的に最も適合しているのが、集合教育と試験制度である。一定の均質な教育と能力、適正によって進路を振り分けるという働きの整合性をとるのが難しい。結局、子供達を一定の方向に走らせることになる。なぜならば、学校を運営、管理するためには、教育の均質化を優先し、指導作業を標準化した方がいいからである。同時に、教育の現場から主体性を排除し客観性を重視した方が管理するのにも都合がいい。となると、個性に応じた個別の教育よりも一定の集団を一つの単位として管理した方が統制をとる側からしても都合がいい。つまり、教わる側の都合よりも、教える側の都合が優先しているのが、現行の教育制度である。当然、教育の目的は、忘れられている。

 また、学校自体何らかの成果を上げなければいけない。それも目に見える形でなければ、社会的な評価が得られない。テレビの視聴率のようなものである。視聴率が全ての基準になれば、視聴率を上げることに目的が特化するのは、当然の帰結である。そうしなければ、社会的評価は得られない。つまり、報酬が得られないのである。

 では、誰が評価をするのか。市場経済では、市場が、組織内部においては、組織が評価をする。つまり、市場のメカニズムによってその成果が、社会に有用であるかないか、また、どれくらいの価値があるかを評価するのが市場経済であり、その成果が、組織的にその組織に有用であったかどうかを評価するのが組織社会である。

 それに対し、学校では、学習の成果は、試験制度によって評価される。試験は、基本的に筆記試験である。現行の学校教育の形は、集合教育によって教育をし、試験によって評価するである。

 評価の在り方によってその社会の在り方も性格付けされる。つまり、評価は、その社会を構成する者の尺度、基準となるからである。社会を構成する者の尺度や基準は、必然的に行動規範となり、その社会の性格付けをする。
 つまり、学校社会は、試験制度によって性格付けされることになる。それが実体であり、現実である。いくら、内部の人間が試験が全てでないといってもはじまらない。なぜならば、試験以外に、現段階では、学習の成果、学力を測定する術がないからである。

 公正中立客観的といっても試験の傾向を予測し、それに適した教育を行ったものは、必然的に好成績をおさめる事ができる。評価が試験の成績に偏れば、結果的に、試験の結果に好成績を上げられる学校が選別され、生き残ることになる。となると、学校教育が、試験技術に特化するのは、当然の帰結である。大学への合格率の高い学校が高い評価を受け、また、合格者を多数出す先生に人気が集まりのは、必然的なことなのである。

 本来の教育上の評価の目的は、その人間の実像を自己にフィードバック、還元することである。選別することでも、差別化することでもない。現行の教育制度では、本来の目的に即した機能が働かない。では、教育の本来の機能は、どのようなものなのだろうか。

 先ず教育においては、内面の志向性を評価しなければならない。つまり、何に対して好奇心、関心が向けられているかを評価する必要があるのである。そして、その志向に沿って意欲を引き出す。重要なのは、動機やキッカケである。
 最も大切なのは、希望や夢である。子供達の希望や夢をうまく引き出し、それに正しく評価して、学習の方向性を与えるのは、教育の最初にして、重要な役割である。その為には、子供の関心や好奇心をよく観察して、その子供の動機や関心の方向性を見極めなければならない。そして、それを具体的な形にして評価しなければならない。例えば、好奇心や関心を持った対象に対する情報や物を相手に与えたり、それに対する働きかけを促すという具合である。可愛い動物がいて、それに関心を示したとき、その動物の写真を見せたり、触らせることである。スポーツに関心を持ったら、そのスポーツを観戦させたり、一緒にプレーするという形で評価をするのである。
 次に、意欲を評価しなければならない。先ずできるできないは別にして、それに挑戦しようと言う意欲を評価してやらなければならない。意欲がなければ続かない。継続しないのである。学習は、継続することによって効果を現す。継続は力なのである。その継続性を引き出すのが意欲である。だから、意欲が大事なのである。意欲に対する評価は、教える者の姿勢として表現しなければ効果がない。相手の意欲をしっかり受け止め、それを相手にフィードバックすることが肝心なのである。基本的には、相手の意欲を評価しつつ、自分で取り組むように仕向けることである。
 そして、適正を見抜き、評価し、能力を評価しなければならない。意欲だけでは、いい結果を出すことは望めない。実際にやらせてみて、取り組もうとしていることが、むいているかどうかを自分で判断できるように評価してあげなければならない。
 その上で最後にその結果を評価して、自己に還元するのである。この様に、評価にも一定のプロセスがある。結果だけで一元的に評価をしたら、本来の教育の目的を達成することはできない。また、プラスの評価だけでなく、マイナスの評価も必要なのである。
 近代以前の教育システムには、この教育プロセスが、仕組みとして巧みに組み込まれていた。最大の問題は、現行の教育システムの中にこの過程が組み込まれていないことである。何でもかんでも、筆記試験に還元して評価しようと言う粗野で、野蛮な教育システムなのである。

 自己表現や自己主張よって現された行為の結果によって自己認識し、それを自己評価する。さらに、それを外部の評価によって再確認する事によって自己確立を自己実現する。こうした一連の自己実現の過程において、評価は、有効に作用する。重要な事は、評価というのは、一回だけでなされるものではないと言うことである。

 実社会においては、テストは、テストにすぎない。最終結果ではない。試しに過ぎないのである。集合教育にせよ、テストにせよ教育の一手段に過ぎない。教育の全てではない。そう考えれば、テストにも、集合教育にもそれなりの意義や効果がある。テストや集合教育一辺倒になった時、教育は、その本来の目的を失うのである。

 我々は、近代という時代、科学と言うものに幻想がある。それは、客観性に対する神話に代表される。教育は、元々主観的なものなのである。主観的であるからこそ、教育者の人間性が一番問われるのである。
 客観性というのは、逃げである。教師、一人一人が、自分の仕事に責任を持たないことを意味している。つまり、教育という仕事を機械的にこなしているだけなのである。
 日本は、敗戦によって日本の主体的教育を否定された。戦後は、反体制的教育者に対する懸念から国家の主体的教育ができなくなった。しかし、教育は、本来、国家理念を体現したものでなければならない。国家理念に反対するか否かは、別の次元の問題である。況や、祖国、母国を否定するような教育が許されるはずがない。むしろ、教育理念を明らかにできないような教育は、犯罪行為である。
 教育の理念に対して議論を戦わすことは正しい。推奨されるべき事である。しかし、客観性を重んじるばかり、教育の理念を明らかにすることに臆病になったり、ためらうのは、本末転倒である。教育は、主観と主観のぶつかり合いなのである。だからこそ、教える者と教わる者との関係が一方的なものになることこそ問題なのである。教え教わり合う関係を構築することが重要であり、いかにそれを評価の仕組みの中に組み込んでいくかが、教育の成否の鍵を握っているのである。
 最近、小論文を解析し、採点するコンピューターシステムができたと言っている。ここまで、行くと滑稽なのを通り越して悲劇である。野蛮どころではない、人間を愚弄、冒涜している。
 教育は、教わる者と教える者との間に共鳴共感がなければ成り立たないのである。その為には、教育者の師としての人格が最も問われるのである。なぜならば、教育が対象としているのが、人間であり、人間性そのものだからである。教育とは、人を育てることなのである。人を選別することではない。
 相手が人間であることを忘れれば、機械に採点、評価をさせようという発想が生まれる。そのとき、教育から人間性が失われるのである。




                content         


ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2005 2.14Keiichirou Koyano