決 断 力

 最近、引きこもりやニート、フリーターといった、社会に出られない若者が増えている。また、いつまでも結婚できない若者達も増えている。この原因は、決断力の不足にあることが考えられる。
 大体、決断力というのは、訓練しなくとも身に付くと思っている人が多い。しかし、決断力は、訓練しないと身に付かない。そして、今日の学校教育で、最も欠けているのが、この決断力の訓練である。

 決断は、決して断じることである。一瞬にできる。瞬時のことである。だから、閃きのようなものである。故に、決断は、感情が触発するのである。気合いである。決断は、抜刀する気合いでするのである。

 決断力というのは、ある程度早い時期から養成しなければ、磨かれない。一日や二日で身に付くような能力ではないのである。

 判断は、他人の意見を聞いて、決断は、自分の意志で行うものである。その為には、自己が確立されていなければならない。善悪の判断ができない者、つまりは、善悪の価値基準のない者は、決断できない。確かに、道徳心のない者でも、一見行動的に見える者もいる。しかし、その行動の源は、決断ではなく、衝動である。衝動による行動と、決断による行動とは、本質が違う。何よりも、衝動的な行動は、自己を制御・抑制することができない。
 本来は、人の意見を聞いて判断をし、自分の意志で決断しなければならないのに、自己が確立されていない者は、人の意見を聞くと判断できなくなり、自分の意志で決められなくなる。これでは、本末転倒である。

 倫理観や価値基準というのは、絶対的な基準である。この絶対的基準という物を現代人、特に学校では、全面的に否定している。しかし、倫理観が相対的基準では、困る。状況や相手によって道徳や倫理観を変えることになる。だから、倫理観や価値観というのは、本来普遍的、絶対的基準であるべきなのである。故に、かつて人々は、道徳と現実との間で苦しんだ。しかし、現代人の苦悩は、質が違う。倫理観や価値観が絶対的普遍的でないが故に苦しんでいるのである。つまり、自分の人生のアィデンティティ、自己の一体性、一体感が失われたから苦しいのである。そして、これは、現代人の決断力に決定的な打撃を与えた。つまり、決断力を喪失させてしまったのである。価値基準に基づかなければ、決断には成らないのである。明確な意志決定の基準を失ってしまったのである。そして、人の行動を現象的に捉えようとするようになった。それが心理学である。当然客観的に人の行動を明らかにしようとする。しかし、人の行動は主体的なものである。だから、心理学は、主体性を取り戻させることに主眼がある。となると、最初から主体性を否定したところに成り立つ、心理学は、最初から矛盾していることになる。価値観や倫理観は、自己内部においては、絶対的普遍的なものでなければならない。それ故に人は苦悩するのである。その前提を否定してしまったら、自己の自律はあり得ないのである。

 人は、考えてから決めるのではない。決めてから考えるのである。最初に物事を決めなければ、それを訂正、否定する事もできない。ところが、学校では、よく考えてから決めなさいと教える。だから何も決められなくなる。決めるというのは、第一感が大事なのである。ところがその第一感を挫(くじ)かれる。だから、優柔不断になる。自分達が、優柔不断にしておいて、決断力がないと責めるのは、酷である。決断力を付けるといううのは、第一感を磨くことに他ならないのである。そして、第一感は、場数(ばかず)、つまりは、経験によってしか磨けないのである。

 意識した決断でなければならない。無自覚な決定は、決断ではない。意識した決断をするためには、大本を自覚しなければならない。その大本とは、自己の信念、価値観である。その価値観から直接的に決断力は発する。

 会社を、理由も解らないまま、簡単に辞める者が増えている。しかし、そういう者の動機を注意深く探ってみると、今日も帰りが遅いのと言った妻の何気ない一言だったりする。不登校や引きこもりの原因も引き金は、些細な事であることが多い。それは、無自覚な決定によるのである。この様な決定は、周囲の人間どころか、当人も本当の理由が解らない。だから、厄介なのである。無自覚に決定を決断とは言わない。なぜならば、そこには、自分の意志の働きがないからである。自分の意志がないから、頑なになったり、自分で自分を抑制することができなくなるのである。それは、人格に崩壊である。
 この様な不登校や引きこもりは、いくら心理学的に理由付けても意味がない。なぜならば、心理的な要因以上に、価値観や倫理観の要因が働いているからである。その倫理観や価値観は、学校では、禁忌事項である。なぜならば、思想的・宗教的な問題だからである。つまり、感性の問題なのである。

 行動は、感情によって誘発される。決定に至るまでは論理的にされても、最後には、感情が働かないと行動は、触発されない。だから、決断は、論理的にされるものではない。しかし、学校は、どこまでいっても理詰めに解決しようとする。理屈に合わないことは、頭から否定しようとする傾向が学校にはある。しかし、何が正しくて、何が悪かは、理屈で判断することではない。経験や直感によって身につけるものである。尊敬心や畏敬心が、倫理観や価値観を植え付けるのである。尊敬心や畏敬心の源は、情緒情感である。情緒情感は、人間と人間との関わり合いの中で生み出されるものである。人と人との関係を画一化することによって成り立っている学校社会では情緒情感は生まれない。学校の勉強に感情は無用である。受験勉強に感情を持ち込んではならないのである。だから、学校は、無感動な人間を生み出すだけである。そこに学校教育の限界がある。

 決断は、感情でする。論理的にするものではない。ある意味で、感情の爆発である。決断は、自分の価値観、倫理観から直接的に発する。だからこそ、座学では身に付かないのである。経験を積み、修養、修練によって自己を鍛錬しなければ決断力は身に付かない。
 決断力は、座学では身に付かない。決断力こそ訓練と実践が必要なのである。つまり、決断力は、修行・修練によって身につけ、磨くのである。

 感情の基礎を為すのは、情緒・情感である。故に、決断力を磨くためには、感性を磨く必要があるのである。情緒情感を刺激することで、感性は、磨かれる。情緒情感を刺激するのは、感動である。故に、決断力を付けるためには、情操教育が不可欠である。ところが、学校教育ではこの情操教育が決定的に欠けている。

 感情は、表情として表れる。最近、無表情な人間が増えているのは、行動力を鍛えていないからである。情緒・情感による情動が表情に出て人は、人間としての血が通う。無表情では、コミュニケーションもうまくいかなくなり、人間関係が築けなくて孤立する。

 決断には、強烈な緊張感や圧迫、プレッシャーがかかる。それをはねのけて決断をする。だから、感情の表出がないとできない。つまり、感情の爆発によって圧迫感をはねのけるのである。激しい感情や意志に発する決断は、心の動揺を引き起こす。心の動揺や迷いは、決断力を鈍らせる。また、動揺すると決断の後の行動に支障をきたす。だから、なるべく平静さを保つ必要がある。
 この様な、心の迷いを断ち、動揺を少なくして、平静さを保つためには、平常心が必要なのである。平常心は、日頃の修練、鍛錬によってもたらされる。故に、修行、修練が求められるのである。

 感情の中でも怒りに近い感情の働きである。怒りと言う感情は、悪い事ばかりではない。自分のふがいなさへの怒り。世の中の不正への怒り、政治の堕落に対する怒り、この様な怒りが決断に結びつき、行動に駆り立てるのである。決断とは、激しい感情、情動によって引き起こされるのである。

 情動は、いわばエネルギーである。取り扱いを間違えば爆発する危険物である。故に、エネルギーを誘導する装置が必要なのである。その装置を作るのが、教育である。

 短絡的な判断というのは、論理の問題ではなく、訓練の問題である。いくら論理的に考えても決断力は付かない。決断は、飛躍であり、複合的なものであるから、感情が行うのである。

 決断力ない人間は、とかくオール・オア・ナッシングになりがちである。一つに意志決定の中には、複数の要素が包含されている。決定そのものが構造的なのである。これを論理的に説明するというのは、困難である。また、決断というのは、一断面に過ぎない。
 つまり、決断というのは、一定の段取り手順に従って一段一段、階段を上るようにして決めていくケースが多い。しかし、決断をしたことのない人間は、この構造が解らない。だから、一遍で何もかも決めようとする。だから、決まらない。決められない。最初から無理がある。そうすると爆発する。切れてしまう。確かに、この場合も感情である。そうすると、周囲の人間は、感情的になるなと静止する。そうすると、冷静になって、論理的に決めようとする。そうすると今度は、感情が働くなり、何も決められなくなる。だから、決断力を訓練していない人間は、とかく、オール・オア・ナッシングになるのである。

 学校では、決断力を養成するどころか、弱める教育をしている。子供達は、何も決めなくて良い。大人達が、必要な事を全部決めてあげるからと言わんばかりの体制である。
 決断というのは、決して断じる事である。自分の未練を断ち切ることである。現代教育では、この決断力が身に付かない。

 自分が進学する中学高校は、親と先生が相談して決めてしまう。それでなくとも、偏差値によってある程度、進学で決め学校は、絞られている。だいたい、進学するか否かも、当人の意志は、ほとんど反映しない。大学の受験も、高校に入った時点である程度コースが決められている。どの学校を志望するかも大凡、成績によって決められている。これでは、意志決定を下す余地などほとんどない。決められた食事を出されて、後は、それを食べるかどうかの決定権しか与えられていないようなものである。

 とにかく、生徒は、何も考えなくて良い。決断するどころか、判断する必要もない。決められたところに、決められた時間に、決められた物をもって行けば、とりあえず、授業を受けることはできる。そして、予め決められた問題を、予め決められたとおりに解き、予め決められた正解によって採点される。
 自分だ問題を設定したり、先生や教科書を捜す必要はない。必要ないどころか、そんなことをしたら、学校社会からはじき出されてしまう。しかし、本来一番大切なのは、自分で問題を見出し、自分で先生や教科書を探し出すことである。それが本当の勉強であるはずである。なにもかも用意されていたのでは勉強にならない。

 学校では、何でもかんでも、予め決めておいて、その決められた事に従って行動する事を要求する。これでは、変な話、決められた事以外、決められなくなっている。決められた事を決められたように決めるというのは、自分の意志の働きが効かない。自分の意志で決めたのでなければ、決断したことにはならない。だから、決められた事を決められたように決めるのでは、決断したことにはならない。

 食事に行っても自分が食べるものを決められない人によく出逢う。皆が食べるものにする。同じで物、同じ事でないと決められない。ブランドが流行るのも同じ心理が働いているように思える。ブランドは、本来、希少性に価値があるというのにである。

 結婚でも、既成事実を作ってから、後付の理由で決断する。既成事実を作れる者は、まだいい。既成事実を作れぬ者は、夢想する。夢想の中で決断する。しかし、目が覚めれば何も変わっていない。

 要するに、決断したのか、しないのか曖昧なままにしておいて、結論を先送りにする。それでおいて既成事実を積み上げていき、あたかも決断をしたかのよう錯覚をしているのである。たが、振り返ってみると何も決めていない。少なくとも、自分の意志、意識の上では決断をしていない。だらから、責任もない。責任がないというより、責任をとれない。自分に責任がないと思うから、人の性にする。人の性にするから反省もしない。これは、何も学んでいないのと同じである。決断できない者は、何も学べないのである。

 優柔不断で、煮え切らない者は、何も学べない。学ぶためには、決断力を養わなければならないのである。この様な決断力は、教科書からは学べないのである。

 しかも、学ぶためには、追いつめられてする決断ではなく、前向きな決断が重要なのである。決断しなければならない環境や状況だから決断すると言った受け身の決断では、主体的な意志の力が働かない。それは、決断するのではなく、決断させられたのである。主体的な意志の力が働かない限り、責任感もわかない。それでは何も学べないのである。

 決めてから考える。考えたら決められない。学校では、よく考えてから決めなさいという。単刀直入に決めて、行動に移すとわざわざ、やっていることを中断して再考させることまでする。これでは、決断力が鈍る。先ず決断をする。決断をした上で考える。そうすれば、修正も変更も訂正もできる。辞めることだって、やり直すこともできる。決断をしなければ、修正も変更も訂正もできない。何も決めていないのだから、辞めることも、やり直すこともできない。そして、決断したら行動に移す。はじめは、失敗をするかも知れない。しかし、その失敗から多くのことを学ぶことが出きる。そこから学んで、次に決断をする時に生かす。決断し、実践して、反省をし、学んでまた、決断をする。この繰り返しが学ぶことである。決断をしなければ学ぶことはできない。失敗をしなければ、学ぶことはできない。学習とは、決断にはじまる一連のプロセス、過程なのである。

 決断をすれば、自らの行動に責任を持たなければならない。失敗を沢山し、恥を一杯かくことになる。失敗を沢山し、恥を一杯かくから学べるのである。恥はかいて知るものである。失敗をすることや恥をかくことを怖れていては、学ぶことはできない。

 決断力は、なるべく早い時期から訓練をする必要がある。小さい頃から、自分の事は、極力、自分で決めさせる。家族内の重大な問題や決定には、なるべく早い時期から相談をし、決定に加える。そうやって家族の一員であることを自覚させ、責任感を養うのである。また、学校も授業の内容やカリキュラムについて相談をし、一部を任せるようにすべきである。社会では、祭りの準備や社会活動(ボランティア活動)を通じて社会の一員である事を自覚させるような仕組みを作ることである。

 喧嘩も、ある種の修練である。特に、幼児期の喧嘩は、一種の修行だと思うべきである。まだ、力が弱い幼児期にこそ、喧嘩をさせ。そこで人間関係の在り方、社会のルール、お互いに対する思いやり、痛み、悲しみ、友情を学ぶのである。だから、かつて大人は、子供の喧嘩に寛容であった。遠くで見守り、危ない事さえなければ、子供同士で解決させてきた。下手に介入したり、同情することで子供の自尊心を傷つけることを怖れてきた。しかし、最近は、暴力反対のような大人の論理をもって子供を裁こうとする大人が増えてきた。それも、学校の先生や幼稚園の保育士に多く見られる。それが、学校教育の現状を端なくも現しているのである。

 可愛い子には、旅をさせろ。それは、武者修行の旅である。遍歴の旅である。旅は、決断の集積である。旅をしながら、多くの失敗を重ね。恥をかき。人は、成長していく。旅の恥は掻き捨てと言うが、旅の恥は、決して捨てることも、許される事でもない。ただ、旅の恥に寛容な社会こそが、人を育てられるのである。そして、そこで人間としての決断と身の処し方を学んだ者が次の時代を背負っていくのである。安心して子供達が武者修行の旅、遍歴の旅が出きる社会こそが最高の教育機関なのかも知れない。




                content         


ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2005.2.9 Keiichirou Koyano