教習・学習・指導

 自己が間接的認識対象だと言う事は、自己の中にある観念も一度外部に出して、対象化する必要がある。それが、観念の対象化である。

 自己の内面の志向は、外部に向かう行為・行動・言動・表情という形で表現される。人間は、自分の価値観や考えをまとめるためには、自分の内面の考えや思いを、言葉や文章、行動のような形で、一旦外に出す必要がある。つまり、自分の内面の世界を一旦外に出し、対象化、客体化する必要があるのである。

 本を読むのも、自己の内面を本に書かれていることに投射する事である。投影された自己の内面の姿と外部の対象との関係から自己の内面の対象と外部の対象とを比較対照して内面と外部の世界を構築していくのである。

 この様な、学習には、視覚性と操作性が有効である。数式というのは、この視覚性と、操作性の二つの作用を併せ持っている。視覚性と操作性があることが、数学を高度に発展させたと考えられる。

 表面に現れた行動や行為・言動・表情に対して外部に働いている力が、順である場合は、促進的に、逆である場合は、抑制的に作用する。促進的な作用は、快感に、抑制的な作用は、不快感に作用する。快感は、充足感を、不快感は抵抗感や渇望感を高揚する。充足感は自制的な力が働かせ、抵抗感や渇望感は、反発力を引き起こす。
 この双方向の力の均衡によって行動は、制御される。同時に、快感や不快感がもたらされた行為・行動・言動は、自己が納得するまで繰り返され、内面の価値観や行動規範に反映され、取り込まれていく。

 認識とは、外部への働きかけを通して、同時に、自己の内面の世界に働きかけ。外部の世界を内部の世界に投影する事によって成り立っている。この双方向の相互作用が、学習主体と教育主体が一対一の関係にある時、教え・教えられるという関係が成立する。むろん、集合教育でもこの関係は保たれなければならない。一対多に見える関係でも、当事者間においては、一対一なのである。
 また、不特定な対象との関係によって成り立つ行為が学習である。

 この教育という行為は、必然的に、教え合い、教われ合うという関係を構築する。一方が一方に対してのみ教えるという一方通行的な行為ではない。

 教育という行為は、自己の内面に蓄えられた、情報や世界を相手に移し換える、移植する行為である。その為には、教える相手と教わる相手が、共鳴共感し、同期化(シンクロナイズ)する必要がある。
 その為には、相手との信頼関係がベースになければならない。その上で、教え教わり合う関係をいかに作るかが、重要なのである。

 教育において重要な要素は、第一に、学習主体と教育主体とは、鏡像関係にあるという事である。第二に、教育は、共鳴・共感の上に成り立っているという事である。第三に、学習行為は、自己の内的世界と外的世界にたいし、双方向の働きをする。その働きは、作用反作用な関係にある。

 初期の教育で表に現れる行為は、拒絶、受容、警告(警報)、確認である。表象に現れたこの様な行為から背後に隠されている学習主体の志向を見極める事が、教育の第一歩である。教えを受ける者は、自分のした行為に対する反応を注視・注目する。教育者は、自分に向けられた、信号や合図、象徴に対し、正しく反応してやることである。最初は、無心に反応してやることが大切なのである。微笑みには、微笑み返す。それが基本である。

 教える者の気分は、すぐに、教わる者に伝播する。それによって教育の場に働く力の方向や質が変わってくるのである。倦厭的な気分は、その場の雰囲気を重く暗くするし、倦怠的な気分は、その場の空気を怠惰にする。張りつめて気持ちで望めば、程良い緊張感が生まれる。教育というのは、一種の修業なのだと心得るべきである。

 鏡像関係という事から考えると、教育者は、良い鏡になる必要がある。つまり、自己は、自己の姿を教師に投影して自己の在り方を確認する。そして、自分の在り方を修正して自分のあるべき姿を構築していくのである。当然、鏡が歪んでいれば、自分の実像を捉えることはできない。故に、教師に求められるのは、明鏡止水の姿勢・心境である。
 教育は、与えるものではない。映し出すものである。得るものは、その人その人が決めていく。多くの教育者は、教育を与えるものだと錯覚している。受け容れ準備が整っていなければ、相手は、受容できないのである。受け容れる準備というのは、学習主体に受け容れるための素地が整っていなければ駄目だと言う事を意味する。最初から、興味も関心もないことを無理矢理押し込んでも、一時的には、受け容れても、すぐに忘れてしまう。それは、教育ではなく、調教である。

 相手の姿を映し出すという事は、教育の本質が受容であることを示す。先ず相手を受け容れることこそが教育の本源である。投影された姿をきちんと相手にフィードバックする。教育というと、教える事ばかりを考える。そうではなくて、相手を見ることと相手に返すことを考えるべきなのである。
 その上で、共鳴や共感が必要なのである。

 教育は、教える者、教わる者、双方が同調しないと成立しない。その場合、教える側が教わる側に対し、同調するのか。教える側に、教わる側を同調させるのかが重要になる。これは、ケース・バイ・ケースでどちらが正しいというわけではない。
 状況・状況によって相手を自分の世界に引き込むのか、自分が相手の世界に入り込むのかが、重要な鍵になるが、それは、教育者の技能、手法の部類に入り、一概に、どれが正しいと決めつけるわけにいかない。引くのか、押すのか、それが問題だ。引いて駄目なら、押してみな。ただ、言えるのは、いずれにせよ、共鳴共感がなければ成立しないし、共鳴共感をうるためには、信頼関係が基礎になければならないと言うことである。

 基本的に、教育者が教えられることは、学び方である。学習は、当人、即ち、学習主体が行う。
 学習する力は、自己の内部にある。外部から引き出すことはできても与えることはできないのである。
 つまり、一人一人の内面にある学習意欲をうまく引き出し、それを正しい方向に導いてやるのが、教育である。

 教育とは、百姓仕事のようなものである。種をたたいても芽は出ず、根 を引っぱったところで根は伸びない。草をとり、水をやり、肥料をやるといった環境をよくする地道な努力をし、それでもなお、天候が不順な年は、よく育たない。教育は、辛抱強く、人を見守る事が基本である。

 鏡像関係にある教育は、教える側、教わる側、双方にとって無反応なのが一番、問題になる。無反応でなくても、反応が鈍いと、即、教育に影響がでてくる。
 その為に、教育的手段として、挑発的行為を用いることがある。しかし、これは、一歩間違うと虐めに発展する危険性がある。
 虐めと言うが、一番危険な虐めは、教育者による虐めである。この点は、見逃されやすいが、深刻な問題なのである。しかも、なかなか、表面化しにくい。なぜならば、学校において、教育者というのは、絶対的な権力者だけである。

 説教は気持ちがいい。快感である。自分の考えを再確認できる上、自己評価もできるからである。しかも、説教する者は、説教される者より優位に立てる。何よりもこれが快感につながるのである。教える事というのは、相手が従順であればあるほど快感になる。
 教える事は、教える側の人間にとって自信と確信につながる。反面においてそれは、教育者の暴虐や生徒への虐待を誘うのである。
 教えるという行為は、自省という反面の行為に結びつかないと、教えるという行為そのものによって教育する者を狂わせる。教育者は、常に、自戒し、生徒から学ぶ姿勢を持ち続ける必要があるのである。その意味でも、伴に学ぶという姿勢が要求される。師と弟子は、同伴者でなければならないのである。教師の学ぶ姿勢こそが最大の教材なのである。なぜならば、教育は、学び方を教える事が本意であり、学ぶのは、当人なのだからである。渇きのない者に水を飲ませるのは、本意ではない。渇きを覚えれば、自らの意志で水を求める。教育は、水のある方向を示し、水の汲み方、飲み方を教える事であり、無理矢理水を飲ませることではない。

 教える側と教わる側とは、擬似的に支配者・被支配者の関係が成立する。教える側の者は、教わる側の者に対し、圧倒的強者なのである。それが時として、歪な人間関係を生み出す。

 教育者は、自分が圧倒的な強者であることを自覚しなければならない。戯れに言ったからかいや軽い冗談でも時と場合、相手によっては、重大な結果を招くことがある。

 企業内訓練や職業訓練では、往々にして年齢的な逆転が起きる。それを成立させているのは、特定の技能や知識に対して相互に相手を認めているからとは限らない。その立場による力関係によっている場合が多い。この事を忘れて、自分自身に実力が備わっているいると錯覚をすると、教育者は、暴君となり、教育そのものを失敗させるだけでなく、教え子に重大な障害を引き起こす原因ともなる。

 教育と調教は違う。しかし、調教によって教育に似た効果を表面的には実現する事ができる。ただ、違うのは、調教によっては、自己、即ち、主体性が確立できないという事である。
 強い快感を繰り返し与えられると、自家中毒をおこし、自制心が効かなくなり、自己の行動の抑制ができなくなる。そして、快楽を独占しようとして、排他的、攻撃的になる。逆に、繰り返し抑圧されたり、強い苦痛を伴う場合、反発力は麻痺し、無力化される。そして、不快感から逃れようとして、逃避的、閉鎖的になる。
 飴と鞭という言葉が示すように、快楽と苦痛を巧みに使い分けて、自己の内部に擬似的な志向を外部からの刺激によって作り出す。それによって、自己を管理しようとするのが、調教である。調教は、人間の主体性をボロボロに破壊してしまう。
 調教による過剰な反応は、自己の内面に強く作用し、肉体的にも、精神的にも深い傷を残す事があるのである。これは、教育とは似て非なるものである。

 指導は、最大の教育効果を引き出す。教えるということは、教える内容の最低三倍は、勉強しなければならない。また、教えるためには、教える内容を理解していなければならない。更に、相手の要求や状況に応えていかなければならない。その為には、教えるべき事を自己の内面に取り込み、整理し、体系付けて、再構築しておかなければならない。故に、指導、即ち、教えるということは、教える人間にとっても最大の教育なのである。この教育を受けている最中の者に教えさせるという仕組みをどのように構築するかが、教育を考える上で最も重要なのである。

 教育というのは、教育という仕組みなのである。教育というと、何を教えるかとか、どのように教えるかといった、教育の内容や教え方が問題とされるが、実際には、教育の仕組みが重要なのである。

 日本に古来から伝わる教育方法は、教え、教わり、自習する教育である。今でも伝わるその典型が、剣道、柔道、華道、茶道、それから、寺院の教育の仕組みである。一人の師匠・導師のもとに教えを請うが、普段は、師匠、導師の身の回りの世話や道場の管理をしながら、先輩からの指導を受け、後輩の面倒を見る。修業・練習は、自分でする。この様な日常生活の中で、上達や成長に応じて試験をされ、その結果に基づいて段位が与えられ、最後は、独立をして、自分の道場が持てるという仕組みである。現在の学校の部活動もこれに準じた指導体制がとられている。

 それに対し、現行の教育の仕組みは、一人の教師に一つの単位の生徒の集合を組み合わせた、極めて単純なものである。典型的集合教育である。この様な仕組みは、組織的な仕組みと違い、限定的かつ単純な事しか教育できない。

 集合教育は、隷属化教育である。一方的に服従を強いる教育だからである。これが実は、現行教育の隠れた問題点、そして、最大の問題点である。これは、教育現場の人間は、気が付いたとしても指摘はしない。五十人近くの子供を集合的に扱うのに、服従は、不可欠だからである。組織的にしない限り、この問題は解決できない。しかし、組織化するのは、手間暇がかかる上、技術も必要である。故に、手っ取り早く、服従による隷属化を選択するのである。これは、仕組みの問題であり、個々の教師の力ではどうしようもない。
 集合教育が正規の教育として支配的になったのは、我が国においては、明治以降のことである。それまでの教育は、組織的に為されていた。むろん、集合教育も取り入れられていたが、現在のように全てではなかった。むしろ補助的なものである。根本は、年長者が年少者を教え、さらに、面倒を見るという仕組みが大半だった。なぜか、当時は、教育の目的が明確だったからである。
 つまり、教育の目的は、人格形成にあった。今の教育は・・・である。大学進学が全てであるようにすらみえる。少なくとも、人格形成でないことだけは確かである。
 過去において、組織的な教育は、為されてきたのである。故に、組織的な教育は、手間隙がかかり、不可能だというのは、嘘である。教育の目的が明らかにされていないだけである。そして、むしろ隠された目的として人間の奴隷化が見え隠れするのである。





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