言葉による教育・動作による教育

 言葉。言葉。言葉。今の教育は、言葉による教育が主流だ。主流と言うより、言葉ばかりである。しかし、世の中には、言葉で教えられないことは多くある。むしろ言葉で教えては成らない。言葉に出すと覚えられないこともある。言葉で教えられることは、限られているのである。

 人間は、論理で判断しているのでも、行動しているのでもない。一見してそう見えるだけである。人間は、感情で行動している。感情は、いろいろな情報や知識、記憶、経験を総合し、統合したところから、瞬発的的に発する判断だからである。
 論理は、いわば道である。又は、道筋である。しかも、一本道ではない。幾筋もの道があるのである。しかし、人間の意識は、自分の進んでいる道筋しか見えない。それ故に、自分達の歩いている道筋が、思考の全体像であるように錯覚しているだけなのである。
 論理の道筋は、経験からくる記憶、周囲の状況からもたらされる情報や知識、それらを統合するための法則、文法、文脈の均衡したところにある。この論理の道筋が分裂すると、思考の結果も分裂する。それ故に、自己の思考構造には、論理の道筋を一本に集約しようとする力が常に働いているのである。
 判断や決断というのは、一瞬で為される。その一瞬一瞬の判断を一定の法則、文法によって順序を付け並べるのが、論理である。論理には、普遍的な原則はない。あるのは、構造である。言葉は、更に、その一部に過ぎない。そして、行動は、感情によって触発される。故に、直感力、直観力を研ぎ澄ます教育が重要になる。この直観力が弱まると論理は形骸化してしまう。

 記憶で言えば論理は、陳述記憶・顕在記憶の部分である。しかし、人間の意思決定や行動は、陳述記憶・顕在記憶にのみ頼っているわけではない。むしろ、行動や思考の枠組みは、手続き記憶、潜在記憶に頼っている部分が大きい。恐ろしいことに、この手続き記憶や、潜在記憶には、臨界期があり、この臨界期を過ぎるとなかなか身に付かなくなる。しかも、この臨界期というのは、かなり早い時期に訪れる。また、手続き記憶は、潜在記憶でもあるのこの部分が認知症になっても気がつかない。逆に、この手続き記憶は、一度身につけると今度はなかなか失われない。だからこそ、幼児教育が大切なのである。この手続き記憶こそ、動作によって身につける記憶なのである。

 俗に、論理的というのは、言葉の集合と言葉が連想するイメージと言葉の配列と順序づけをする法則からなる総体のことを指すのである。故に、言葉の背後にある実体や意味が問題になる。その意味は、決して、言葉だけでてきているのではなく。何らかのイメージや対象、感情と言ったものを複合的に含んでいるのである。
 故に、強い嫌悪感や悪感情と結びついた言葉を植え付けるだけで、論理の流れは変わってしまうのである。

 普通であるという事に自信を持たせるのは、大変に難しい。しかし、普通、平凡な人は、平衡感覚が優れていることを意味し、重要な役割を果たしている。思考で重要なのは、平衡感覚である。平凡や普通を求めるのは、当然のことなのである。
 個性、個性と、個性を重視し、その個性が独創性に基づいて説明され、更に、独創性という事が、人と違うことだという風に結びつけられると、人は、自分が周囲の人と同じ行動や発言をする事に居心地の悪さ、不快感を持つようになる。その上、恥をかかされたり、罰せられたりすると、人と同じ行動をすることは悪い事だと思いこむようになる。個性的と繰り返し言われ、それを不快な感情に結びつけられると、人間は、その行動を回避する判断を下すようになる。そして、個性は、自主的に意図して出すものだと教え込まれると、意識して人と違うことをしようとするようになる。この様にして、論理の道筋はつけられていく。しかし、その原因は、論理の道筋を辿るだけでは理解できないのである。
 大体、個性というのは、人と変わったことやることを指すのではない。その人が、もって生まれた属性である。故に、意図的に、意識的に出そうとして出せるものではない。その人が平凡であれば、平凡であることが個性なのである。そのような、人間が、意識的に人と違うことをしようとすれば、本来の個性という意味とは、違うから、必然的に常に満たされない感情を持ち続けることになる。

 幼児教育をする際、暴力はいけないといって、理由の如何を問わず、暴力をふるった側のみをしっかる事が教育であろうか。それは、暴力が振るわれた状況や背景に対する考察に欠けている。その状況を無視した瞬間、教育を放棄したのである。犯罪は、ただ取り締まればなくなるというのに似ている。仮に暴力を振るわれた側が、暴力をふるった子の玩具を取り上げたり、壊していた場合はどうなるのか。暴力をふるった事のみで物を奪ったり、壊した者の行為が不問にされれば、子供は、人の物を奪ったり、壊したことは認められたと錯覚するであろう。また、暴力をふるわなくても泣いただけで同じ効果が得られたとしたら、子供は、泣くことだけで自分の行為を正当化するであろう。
 泣かれることを怖れて、自分の権利や正義を譲ることになりかねない。それはいじめである。それも陰湿ないじめである。ある意味で、先生が作り出したいじめである。それで、一時的に表面は、納まったように見えても、抑圧された感情は、捌け口を求めることになる。それによって感情や価値観は、歪められかねない。
 子供にも、子供なりの自尊心や言い分がある。それを無視して、ただ暴力反対という理念だけで子供達の行動を規制すれば、子供達の正しい発育は期待できない。価値観や行動規範は、その置かれている状況によって左右されることを忘れてはならない。

 脳は、構造的な思考をしている。直線的な思考をしているわけではない。
 行動を開発するのが感情である以上、無意識の領域に多くの思考の構造が隠されている。故に、意識するからできない事が多くある。むしろ、意識できる部分は、限定的で、限られているのである。特に、言語能力があまり発達していない乳幼児の場合、この傾向が強い。乳幼児に対する教育は、この点を充分に留意しないと間違った価値観を植え付けたり、酷い時は、一生、拭い去れないような論理上の傷や脳に、癒すことのできない損傷を与える危険性すらある。

 形からはいる。形から始まり、形で終わる。礼で始まり、礼で終わる。挨拶に始まり、挨拶に終わる。
 動作に対する教育は、形にある。つまり、挨拶や礼儀、言葉遣いといったことである。鬼ごっこや相撲、ボール遊びのような事を通じて社会性を身につけていくのである。ただその場合でも、大人は、なるべく干渉しない方がいい。子供は、遊びの名人なのである。遊び方が解らない時にかぎり、はじめだけ、やり方を教えたり、方向性を与えればいいのである。

 一連の動作をやってみせる。それを相手にやらせる。その上で、習慣や癖になるまで、
同じ動作を繰り返させるのである。

 やって見せ。やらせてみて。誉めてやらねば、人はおぼえじ。

 考えさせない教育も必要である。考えるからできない。考えてしまうから、覚えないと言うような学問もある。
 一連の動作そのものには、言葉で表せるような意味はない。あるのは、形である。また表現するにしても、象徴的な表現しかできない。そうすると、言葉で理解してしまうとかえって判断の邪魔になる。故に、直接動作を見習うことによって覚える。その方が効率的なのである。

 挨拶の言葉には、意味はない。挨拶の動作や形に意味があるのである。挨拶のできない者の多くが、挨拶に何の意味があるのかという。彼等の多くが言葉に囚われているのである。

 緊張感は、緊張させないと解らない。百万言費やしても愛の真実は教えられない。しかし、人を愛すれば、一瞬にして愛する事の意味を知る事ができる。

 考えさせない教育に対し、否定的な者でも無意識に、考えない教育を強要していることがある。それが丸暗記である。
 丸暗記は、考えさせない教育の中では、悪い例である。丸暗記は、実体が伴わないから丸暗記するしかなくなるのである。丸暗記した記憶は、感情とは、結びついていない。故に、行動には、結びつかないのである。しかも、丸暗記は、教える側も教わる側も無自覚に考えさせない教育をしている場合が多い。その為に、丸暗記そのものが目的となり、記憶そのものは価値がなくなる。その記憶は、価値がないだけに、記憶力に、後々悪い影響を及ぼす可能性がある。つまり、知識と実体が乖離してしまうのである。

 練習しなければできないことがある。多くの人は、その点に、気が付いていない。簡単な挨拶だって、挨拶の練習しなければできない。挨拶しなさいと言葉で指摘するだけでは、身に付かないのである。挨拶ができる人には、簡単なことでも挨拶のできない人にとっては、大変な苦痛なのである。それも、三歳の子供でもできるような事が、二十歳を過ぎてもできないとなると、これは、かなりの重傷だと思わなければなりません。しかし、誰も教えてこなかったんですから、当人を責めても、仕方がないのです。
 一流の料亭では、接客の基本を最初にきちんと教えます。大衆食堂では、何も教えずにいきなり叱る。不思議なことに、一流といわれるところでは基本は、採用は厳しいのに、できてないという前提で考えている。大衆食堂では、採用はそれほど厳しくないのに、基本はできていると考える。教えなくてもできる者に対して基本から教えているのに、教えなければできない者にたいして、何も教えない。それではできなくて当然であり、差は開くばかりである。多くのことは、できなくて当たり前なのである。ところが、できて当たり前だと言って叱る。それでは、子供は言うことを聞くはずがない。
 成人式でのトラブルが良い例である。教育もしないで、躾が悪いと言ったところで、教育をしていない人間が悪いと言われるのがオチである。学校では、言葉による教育しかしていないのである。社会に出て何もできないのは当然である。
 挨拶ができない。口のきき方が悪い。口がきけない。報告の仕方が解らない。仕事の準備ができない。整理整頓ができない。計画が立てられない。相談しない。お礼ができない。謝り方を知らない。叱れない。行儀を知らない。マナーが悪い。敬語が使えない。常識がない。段取りができない。手順が悪い。接待ができない。接客ができない。出迎えができない。見送らない。人前で話ができない。宴会がきらい。指導できない。教わり方を知らない。酒の飲み方を知らない。付き合いが悪い。人付き合いができない。後片付けをしない。友達ができない。恋愛ができない。結婚ができない。手紙が書けない。指示が出せない。打ち合わせや会議できない。何を、どう決めたらいいか解らない。伝票が切れない。仕入れができない。購買ができない。物が作れない。掃除ができない。電話のかけ方を知らない。料理ができない。食事の仕方が解らない。服装がだらしない。化粧が悪い。
 いいですか、今、言ったことは、学校では教えていないのです。じゃあ、誰が、躾(しつけ)たんだ。そうです。誰も躾ていないのです。それで、馬鹿の、間抜けの、今の若い者はといったってはじまらないではないですか。彼等の言うとおり、教わっていないからできないのです。

 あの人は、一流の大学を出て勉強はできるけど、馬鹿です。言葉を重視した教育ならば、そう言うことは、充分、考えられるのです。一流大学を出ても挨拶一つできない。箸の上げ下ろしも満足にできない。常識がない。そう言う人間が増えているのです。何の不思議もありません。今の学校とはそう言うところです。学校へ行けば行くほど馬鹿になる。これは、現代のパラドックスである。

 大卒は、権威があるけどできない。高卒はできるけど権威がない。以前、日本の軍隊が陥ったパラドックスに似ている。将校は、権威があるけれど軍隊の動かし方を知らない。下士官は、権威はないけれど、軍隊の動かし方を知っている。結果、日本軍は、暴発した。皮肉なことである。

 やらないと言うのと、できないと言うのは違う。しかし、外見からは、判断できない。挨拶ができない人間、それも一流大学を出た人間に出逢うとなんと横柄な奴だと多くの人が腹を立てる。しかし、挨拶しないと思うから腹が立つのである。挨拶しないのではなく。挨拶できないのである。やらないと思えば腹が立つができないと思えば教えなければならない。始末が悪い事に、動作や形で覚える事は、学校生活が長ければ長いほど、歳をとればとるほど習得することが困難になる。これらの事は、学校では教えていない。というより、現行の教育制度では教えられないのである。それらを学ぶのは、社会に出てからである。社会に出るのが遅ければ遅いほどできなくなる。そう考えると、ニートや引き籠もり、特に高学歴社に多い理由が解る。彼等は、社会に出ないのではなく、出れないのである。

 挨拶や礼儀は、丸暗記ではなく、動作と記憶と直接結びつける事に依ってしか習得できない。つまり、条件反射である。その為には、同じ動作を繰り返させることで、習慣を身につけさせることである。それが、動作による教育、形による教育である。

 言葉も、言葉の意味よりも言葉遣いの方がより重要な影響や働きを持つ。一つ一つの単語を覚えさせるよりも、文脈や状況、さらには、フィードバックの仕方をよくした方が、効果的である。

 文化の否定は、形の否定である。日本人は、形で教えるということが、巧みであった。それが日本の文化を支えてきたのである。その形による教育を形式主義として否定する反面、形を使った洗脳が横行している。形や動作による教育というものを見直さないと、形によって悪い教育がなされ、形による良い教育が廃れてしまう。それは、文化の否定である。

 学校教育と職場、社会との決定的な違いは、学校は、陳述記憶(言葉や意味)に頼っているのに対し、職場や社会は、非陳述記憶(形、無意味)の世界だと言う事である。言うなれば、学校は、左脳的な世界であり、社会、職場は、右脳的世界だと言う事である。
 左脳的な世界が優れているのか、右脳的な世界が優れているのかと討議するのは、馬鹿げている。要するに、バランスのとれた発育を促すことが肝心なのである。社会や職場に出たら左脳を働かす機会が少なくなる。逆に、学校では意識して右脳を鍛えないと偏向的な教育になるという事である。
 ただ、学校教育は、明らかに偏向している。しかも、加速的に左脳化している。それが問題なのである。その為に、右脳的世界である社会や職場から学校が急速に乖離し始めているのである。この点を是正しないと、学校と社会とは完全に分離してしまうであろう。
 つまり、学校では、意識して礼儀や作法、躾と言った形による教育を取り入れていく必要があるという事である。礼儀といっても何も立ち居振る舞いだけを指しているのではない。会議の開き方や話の仕方、口上、指導、スポーツなんかも作法、型による教育の一つである





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